降る、降る、なにが?

春霖の頃に笑ってみせて

軽度の流血表現有


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 きっと、命が散る音というのはああいうのを言うのだろう。めちゃくちゃになったヨヒラの体はすぐに血まみれになって、土砂降りの雨に流される真紅はおぞましいまでの量であった。
 機転をきかせたヨネが後方からどろだんごを投げてくれたおかげで、サイホーンたちの敵意はうまく逸らされ、なんとかヨヒラのそばに近寄ることができた。疲れきってふらつくサイホーンを尻目にヨヒラの体を抱え、アヤシシを呼んでもらい、集落のほうへ駆け出す。道中でアヤシシの真っ白な体がどんどん赤く染まっていくのを、セキは一番近くで見ていた。
 命からがら集落へと戻った頃には、ヨヒラの体はもうすっかり冷え切っていて。このままいなくなってしまうのではないかと、すぐそこまでやってきた「死」という恐怖を前にして、セキにはもう、何もできることがなかった。
 セキとヨネが血まみれのまま連れ帰ってきたヨヒラを見て、さすがに急を要すると理解したのだろう、救護に長けた者が迅速に彼女の手当てにあたる。アヤシシのうえで揺れながらも応急処置をしたおかげかギリギリのところで一命はとりとめたらしいが、とはいえひどく衰弱していたこともあって、結局目を覚ますかどうかはわからないと言われてしまった。
 青白い顔で眠り続ける包帯だらけのヨヒラを見ながら、三度目の眠れない夜を越えた日。セキの分厚い手のひらの下にあったちいさな指がかすかに動く。
 夕焼けが窓の隙間から射し込む頃に、ヨヒラはその目を再び開いた。
 急いで顔を覗き込むと、その表情はひどく翳っていて、心もとない。今にも眠りにおちていなくなってしまいそうなほど、弱々しくて、儚くもあった。
 セキが名前を呼ぶと、ヨヒラはゆっくりと眼球だけを動かして応える。意識があること、聴力や視力に支障がないことを確認して、ほっと胸をなでおろした。

「悪いがリーフィア、ヨネのことを呼んできてくれ。おそらく家にいるはずだ」

 リーフィアにそう頼むと、彼は深くうなずいてすぐに部屋を去っていく。
 本来ヨヒラはヨネの家で生活していたのだが、先立っての件でセキの家に担ぎこまれて以来、下手に動かすこともできないままここで眠っていたのだ。

「兎にも角にも目を覚ましてよかった。危なかったんだぜ? オレとヨネが駆けつけなかったら、おめえは今頃サイホーンの群れに――」
「なんで」

 安堵から饒舌になったセキの言葉を遮るように、ヨヒラはそう問うてくる。感情のないそのひと言は冷たくその場に横たわって、セキにひゅうと息を呑ませた。
 ヨヒラは、いっさい抑揚のない声のまま続ける。

「なんで助けたの? あのまま死ねば、もしかしたら元の場所に帰れたかもしれないのに」

 命からがら助けたはずのやせっぽちの少女は、紅蓮の湿地に点在する沼よりも濁った瞳でそう言った。
 セキには何も言えなかった。愕然として、喉が渇いて、言葉を発することができない。
 彼女は、生きることを望んでいないのだろうか。生きて再び会うことを、ちっとも求めていなかったのか。セキやヨネとともにある日々に、何も思わずいたのだろうか。
 ふらつく視界と震える指先が自分の動揺を物語っていて、情けなさに自嘲が漏れそうになるのを、すんでのところで堪える。苦し紛れに握りこんだちいさな手は先ほどよりあたたかくて、その事実に少しだけほっとしたような、落ちついたようなつもりになった。
 しかし底の見えない双眸からは彼女の感情が少しも見えなかったし、少しくすんだ黒髪も、灰色の瞳も、血の気が引いて真っ白になった肌も、まるで彼女の存在自体が薄れていくように、いっさいの彩を持たないでいる。
 少し、問うてみたくなった。弱った相手には酷であるが、しかし、今でなければ聞けない言葉を、そっとヨヒラに投げかける。

「――いや、だったか?」
「え……?」
「おめえは、オレたちと一緒にいるのがいやだったか? ……オレたちと、出会わないほうがよかったのか」

 言うと、ヨヒラはこぼれそうなくらいに目を見開いて、すぐにほろほろと涙を流し始めた。痛む体に鞭打って首を横に振りながら、セキの問いを必死に否定する。

「ちが……ちがうの、そうじゃない。っご、ごめん、なさい。……ちが、っあたしは――」

 か細い声は痛々しくて、それ以上を聞くことが憚られた。こちらから訊いておいてなんなのだと思われそうだが、「もういい」とひと言伝えて、やさしく言葉を遮ってやる。もう、聞く必要はないと判断したからだ。
 自分たちとの出会いを後悔していないのならそれでいい。死にたいほど帰りたいと、ここを去っていきたいと思っているわけでないのなら。
 セキの意図が伝わっているのかいないのか、ヨヒラは未だ涙を流したまま、不安そうにセキのことを見ている。彼女の疑念を払拭するため、セキは薄くなった頬をなでてちいさく笑った。

「おやすみ、ヨヒラ。また明日な」

 彼の言葉に安心したのか、それとも、ただ疲れたのか。ヨヒラは何も言わずに目を閉じて、やがておだやかな寝息を立て始める。
 けたたましいヨネの足音が聞こえるまで、セキはその場に座り込んだまま、ずっと頭を抱えていた。


2024/01/24 加筆修正
2022/03/19

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