(撤退話より)
カタンと小さな音がして、我に返った。
足元に転がったペンが1本。柄も模様もないペンの側面が、無性に目に入る。
「あれ…」
力が抜けたように、その場に崩れるように座り込んだ。
何をしていたわけでもないのに。
いや、自分は何をしていたのだろうか。思い出せない。
おかしい、とサブローは小さく首をかしげた。
(さっきまで、何を考えていたんだっけ)
胸のうちに、ぽっかりと感じる空白。
何かがない。それが何か分からないのに、ないということだけは分かってしまう。
自分にとって大切な何かが、気づかぬうちに消えてしまったような。
(何これ)
どうしようもない、不安。
分からないはずなのに、何かが痛いくらいに胸を締める。
息がうまくできなくなる。
この身は今、震えているのだろうか。
どうして。どうして。
(分からないよ)
叫びだしたくなるような。
全身をかきむしりたくなるような。
怒りか悲しみか、分からないような。
己ではどうしようもない、体を駆け巡る何か。
涙が浮かんでくる。視界のペンが滲み出す。熱いと感じる。喉が引きつる。
苦しい。苦しい。苦しい…
「う、ぅ…」
出てくるのは、言葉にならない嗚咽ばかり。
理由も分からずに涙が出ることがあるのだろうか。
大切なはずなのに、綺麗に忘れてしまうなんてことが、あるのだろうか。
大きく震えだした体を、押さえるように、自分の腕で抱き込んだ。
(こんなの、知らない)
心を容赦なく揺さぶる激情に、1人きりでじっと耐えるしかなかった。
***
「……あぁ」
うっすらと目を開くと、カタカタとキーボードを叩く音と、白衣の背中。
今日も今日とて、家にやってきた相棒が床に座ってパソコンをいじっているのだろう。
頬が温かい。手のひらでこすると、濡れた感触。泣いていたのだろうか。
(懐かしい夢を見た)
あれは、そう、クルルたちが帰ってしまったときだ。
ほんの少しの間だけ、記憶を消されていたときのことだ。
「起きたのかァ?」
「…うん」
そんな夢を見ていたとは知らないのだろう、いつもと変わらぬクルルの声が、どうしようもなく身に響いた。
あの、切ないような激情を、思い出した。
「クールル」
努めていつもと同じ声を出した。
そして、白衣の背中にひっついて、腕を回す。
クルルの体温が、無償にあたたかい。
「ククッ、甘えん坊が」
「嫌じゃないくせに」
あの時。
得体の知れない感情に触れた。
己では制御のできない、狂気のような激情を知った。
寂しいと思う心。1人が嫌だと訴える心。
サブロー自身も気づいていなかったような、本心の声。
孤独、喪失感、後悔、寂寥。
痛くて冷たくて苦しくて、まるで全身を切られるような――
(思い出したくない)
「…サブロー?」
「……」
きつく白衣を握る手に気づいたか、クルルの怪訝そうな声に名前を呼ばれた。
せり上がってきた涙をごまかすように、背中に額をこすりつける。
大きく、息を吸い込んだ。
「あの、ね。クルル」
声が滲む。
言葉に迷っているうちに、泣いてしまいそうになる。
言えばきっとクルルを困らせるだろう。記憶を消した彼自身を傷つけてしまうかもしれない。
それでも伝えたいと思う。
それくらいに、この想いは大切なのだ。
「もう、1人にしないで」
出会わなければ知らずにすんだのに。
出会えたからこそ得た、失くしたくないものだから。
***
撤退話がつらすぎて。
2014.3.14