4.仮想二重世界、すなわち目には見えない二つの世界

俺たちは試験管の中で生まれる。
そうでない場合は類い稀だ。

たとえば、一つの身体に二つの精神が宿る二重人格者(ダブル)同士なら、
一方の人格同士が惹かれ合い、結婚――廃れた言葉をあえて使おう――するとして、
もう一つの人格(アナザー)同士も他人同士ではいられない。
精神世界が二重でも、物質世界は単一なのだから。
女性なら妊娠はアナザーと分かち合うものだし、
寝て起きれば人格は入れ替わるーーそのように安定するよう治療が推奨されている。
友人関係なら妥協できることも多いかもしれないが、旧制度のような結婚は不可能だ。
二組のカップルが二つの器に収まるとしたら、それはどれだけ途方のない組み合わせの確率だろう。

一つの個体と一つの個体が惹かれ合う。
それは人口の0.02%しかいない単一人格者(シングル)同士に許された特権のようなものだと言える。
特権と言っても、ダブルがそれを羨むことはない。神聖視などは本人の自己満足だ。
ダブルとシングルはお互いに共感してわかりあうことはできない。
ダブルにはダブルの慣習があり、満足が、充実がある。禁欲的であるわけでもない。

シングル同士の子がシングルであるとは限らない。
ダブル同士からシングルが生まれるよりは格段に確率が高いけれど。
シングルの遺伝子は、それだけで天才的に優秀なダブルの遺伝子と肩を並べて需要がある。

ダブルの、パートナー候補はコンピュータによって選ばれる。
遺伝子や本人のデータを反映して、より有益な相手を。
そうやって研ぎすまされて、ヒトという種は進化してきた。

通常、子供が生まれると――あるいは性別がわかった段階で、主に母親が二つの名前を用意する。
子供は二重人格者である可能性が高いから、それぞれの人格に与える名だ。
親がシングル同士だったりすると、シングルの可能性も考慮して名付けたりする。
たとえば「里奈(りな)」と「奈子(なこ)」は『里奈子』というシングルに与えこともできる名を二つに割ったものだ。

俺たちはダブルの両親から生まれ、名前は母親たちが一つずつ案を出し合ったと聞いている。
「綾香(あやか)」と「映華(えいか)」
生後数ヶ月の検診で一方が男子の人格だとわかり、「栄華(えいが)」と字を変えた。それが俺だ。


* * *

俺のアナザーである綾香は、おとなしい女の子だ。
人見知りで、大きな声では喋らない。

『それでね、里奈ったら、面白いんだよ』

けれど俺にだけは誰よりも心を許している。
そんなささやかな優越感だけが俺を支えている。

――アナザーとの交流は、はじめは誰宛かを知らされず、自己紹介用のビデオレターを作らされる。
そして相手のそれを鑑賞しながら、それがどういう存在なのかを説明される。
アナザーの存在は、幼子には理解しがたいが、良好な付き合いはダブルの人生に不可欠な要素だ。

「えいががわたしのあなざーでいいことたくさんあったよ」
「だってまず、えいがにあえたもん。えいががだいすきだから!」

俺は異常で、間違っていて、居てはいけない存在なのに、
綾香が許してくれたから 自分を許せる。
何度救われたかわからない。
アナザーが男性人格で、綾香まで悪く言われたこともあるはずなのに、俺を責めずにいてくれる。

鏡の中の俺の大切な女の子。
幼心に誓った、護るべき相手だ。
同じ瞳で物を見ているはずなのに、同じ物を見る事はできない。
誰よりも近いのに、決して会えないほど遠い。
時間を共有できない同居人だ。

奈子たちのような『メール友達』ではいたくない。
俺の希望で、綾香は映像レターで全てを伝えてくれる。
壁の巨大なスクリーンに等身大の彼女が映って、俺に語りかけるのだ。
まるでガラス一枚隔てて会話しているような気持ちになる。

鏡に映る「俺」と、映像の中の「綾香」はまるで別人だ。
喋る声のトーンもテンポも違う。
服の好みだって当然違って、俺は男だし、スカートなんて穿かないけど、
「綾香」が可愛い服を着ているのを見るのは好きだ。

綾香の笑顔を喋り方を再現しようと、鏡の前で、彼女を模す。
淑やかなワンピースで控えめに微笑み、「えいが」と唇を動かす。
それだけで胸がざわめいた。

幼い頃は分を弁えず生傷の耐えない遊びもしたが、
この身体が 俺の 俺だけのものじゃないと認識してから、
綾香に傷一つ付けないようにと気をつけるようになった。

綺麗に磨かれて、色を塗られた爪。艶のある髪、いい匂いのする身体。
長い髪を痛ませないように、肌を傷つけぬよう丁寧に身体を洗う。
風呂場に鏡はないが、いつ見ても綺麗だと思う。

自画自賛ではなく、この身体は綾香のものだと認識しているから賞賛できる。
だってそうだろ? 綾香は女の子だ。
綾香が主人格なら、俺は副人格でかまわない。

膨らんだ胸に触れると、罪悪感がくすぶった。
この快楽はいつか彼女も知るのだろうか。

学校では男子とも喋るが、奈子と一緒にいることが多い。
気のいい奴だし、綾香の親友である里奈のアナザーということもある。
男同士軽い付き合いはするが、男子と親密に話して、勘違いした馬鹿がこの身体に触れるのは気持ち悪い。
服装や言動がどうあれ、綾香と同じ身体である事に間違いはないのだから。

愛しているのは「もう一人の自分」。
この想いは決して許されてはいけない。


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