2.現実一重世界、すなわち普通であることが異端な世界

 「のんきだよなあ」

 生徒会室の窓から、笑って会話しながら登校してくる生徒たちを眺め、藍は呟いた。透き通るような晴天が眩しい。狭い部屋でコンピュータに向き合い、処理しきれないほどの作業に追われている身としては、羨ましいやら憎たらしいやら。

 さらに溜息をつくと、後ろで沙希がくすくすと笑った。

 沙希は藍よりもさらに一つ年下だが、三人しかいない生徒会役員の一員である。三人とは、全校生徒中のシングルの数でもある。生徒会役員のうち二人が課程の半分も終えていない下級生なのだから、どれだけ人材不足かがよくわかる。

 もう一人の役員は沙耶といって、沙希の五つ年上の姉だ。沙耶は学校の外での仕事が多くて、あまり顔を見ることはない。実質的に校内の雑務は藍と沙希の二人に委ねられている。

 たった二人で、学校中の生徒を管理しているのだ、忙しくないわけがない。年齢にかかわらずシングルであるというだけで、ダブルには到底及ばない権限を持っていた。

「笑ってないで仕事しろよ。授業受けられなくなってもいいの?」
「仕事はしてるよ? もうすぐこれがまとめ終わるから、そうしたら授業を受けるの」
「うわあ、いいな。俺は到底きりがつきそうにないや」

 藍と沙希はシングル同士で共通の必修科目も多いが、同時に授業を受けることが多くない。揃える余裕がないのだ。好きなときに中央機関に接続して授業データを受け取って、好きな授業を受ける。

 お互い同じ部屋にいても、共同の仕事でなければ相手を手伝ったりはしない。できないのだ。幅広い情報量は容易に共有できるものではないから、ふたりで分担して覚えるしかない。担当分野も微妙に異なる。

 シングルがどれだけ神聖化されていようとも、所詮はただの人間だ。ひとりで背負える知識と責任の量なんて、たかが知れている。

「藍ってほんとに授業好きだね」
「そりゃ、仕事よりは断然マシだろ」

 シングルの仕事は義務だ。人材がいないのだから仕方ないのかもしれないが、終わらなくては授業も受けられない。それに比べて、得意分野の研究にだけ一日中没頭していればいいダブルのなんと楽しそうなことか。

「知らないことを学べるのは興味深いよ。どの授業も教養レベルで、浅く広くあたりさわりなく終わるのが残念だけどな」
「しかたないよ、だって私たちはシングルだもん」

 シングルとダブルの決定的な違いは、シングルが総合的に広く浅く、ダブルが専門的に狭く深く学ぶということである。ダブルは、ひとつの身体にふたつの人格を持っていて、それぞれが別の分野を集中して突き進むように学ぶ。

 細分化された歯車を作るのが多重人格者の仕事だとしたら、単一人格者、すなわちシングルの仕事はその歯車を組み立て、動かすことである。

 それぞれの特性を考えれば、この役割分担がもっとも生産的であることは否定できない。一日置きにしか活動できない人格に『全体』を見渡せなんて無理な要求だ。彼らは、世界の片面しか見えないのだから。

 けれど、藍は不満を隠せなかった。

「シングルだからって、専門的なことに興味がないわけじゃない。シングルだからって人を使うのが上手いわけじゃない。シングルだからって視野が広いわけじゃない。ただ、アナザーがいないだけだ。ずっと昔は普通だったことなんだよ」
「うん。そうだね」
「どうしてシングルに生まれたのかなんて俺たちにはわからない。心が強いとか、一人でも生きていけるとか、そんなこと言われたって。生まれたから、そのまま生きているだけだ。最初からいない人を求めたりしないだ。寂しいって感情が欠けているわけでもない。孤独の意味がわからないわけでもない。何が違うんだ。どうしてシングルは特別なことなんだ。正常なはずだ。どうしてダブルにはアナザーがいるんだ。どうしてアナザーがいないと生きられないなんて言うんだ。俺たちはアナザーなしで生きているのに。他は何一つ構造が変わらないのに」
「そうだねえ」

 持論を爆発させた藍に、沙希が驚くことはなかった。ふたりきりでいる時間が長いから、お互いの意見をよく知っている。愚痴も聞いている。藍が現状に不満を持っていることを、わかっている。そうやって強い意志を、主張を持てることは尊敬に値すると思う。

「俺はこんな管理職じゃなくて、本当はただひとつの分野を究めてみたいって思うよ」

 シングルはたとえば先端技術の研究に携わったりはしない。必要に応じてその分野に詳しいダブルを呼び、情報を提出させて、それを総合的に活用するのだ。

 沙希は笑った。

「やっぱり藍は変わってる。どっちかっていうとダブル向きの思考だよね」
「ああ、自分でも自覚あるよ」
「いっそダブルに生まれてくればよかった、って思う?」

 軽く訊ねたつもりの沙希の声が、恐る恐るというふうに震えた。

 沙希にとって、藍は数少ない同類だ。優れているとか,、選ばれた人種とか言われたところで、当人に存在を否定されたら元も子もない。

 シングルは権限も所得も地位も名誉も保証されているが、目の回る忙しさ、情報量、義務、仕事に、責任ばかりが重く、そして世界の多数派であるダブルに理解されないという不幸な立場だと思っている。嫉妬や羨望ではなく、単に疎外されて「ご苦労様」と笑われているだけだと知っている。

 藍だって、自分を否定したいわけがない。沙希を気遣ったわけではなく、本心で答えた。

「まさか。誰がダブルになんかなりたいのさ。沙希?」
「……なりたくないの? それならよかった」

 藍の偽りのないまっすぐな瞳に、沙希は安堵する。沙希は姉と藍以外のシングルと会ったことはほとんどないが、それでも、シングルとダブル、マルチの違いはこの曇りのない瞳だと思う。

「だって自分の中に他人がいるなんて、想像できる?」
「わかんない。私もシングルだから」

 ダブルにシングルが理解できないように、シングルにだってダブルは理解不能だ。

 藍たちはダブルの二倍の時間を自己として過ごしている。日付で区切られた、二種類の世界を知っているのだ。同じ身体という殻を被って、別人が動いているという事実が気味悪い。

 二つあるべきに一つしかない人格は、欠落しているのか。それとも、欠落しているのは一人で生きていけないダブルのほうか。

 ダブルの勝手にシングルに同情することがあるように、シングルにだってダブルを哀れんだり蔑んだりすることがある。

 ダブルは、『閉じている』と思う。自分の中で完結してしまっているのだ。

「人格分離っていうのは、病気なんだよ」

 藍が言い放つと、沙希は顔を曇らせた。

「それは問題発言じゃないの」
「本当のことだよ。ダブルが増えすぎて、存在否定できなくなってしまっているけれど、世界は病んでるってもっと自覚するべきなんだ」
「自覚したってどうしようもないじゃない」

 かつて人々はこの症状が広がるのを食い止めることができなかった。いまや、シングルは極少数派で、人格分離が疾患であるという見方は時代遅れとさえされている。藍の発言は全世界で人口のほとんどを占めるダブルを敵に回すことなのだ。

「……シングルの数はどんどん減ってる。これ以上世界のバランスが崩れれば、社会が立ち行かなくなるんだよ」

 藍は窓の外に視線を移して、愚痴るようにつぶやいた。

「誰かが止めなきゃいけないんだ」


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