0.現実  世界、すなわち在るがまま在る世界

『朝だよ、起きて起きて起きて起きて! 朝だよ、起きて起きて起きて起きて! 朝だよ、起きて起きて起きて起きて!』


 エンドレスで続く音声が寝起きの頭に響いて、嫌々身体を起こした。目覚ましの音声は、いつも前日に録音している。つまり毎日微妙に違う声色なわけだが、昨日の里奈はとりわけ元気が有り余っていたらしい。朝に弱い私は苛々してしまう。
 文句を言いたくても、まずは黙ってもらうしかない。ベッドから降りて、少し離れたところに置いてある音源を止めた。
 『おはよう、奈子』
 里奈の声が嘘みたいに優しく私を包んだ。……反則だ。文句も飲み込んでしまうじゃないか。
 彼女は里奈、私のいとしい半身だ。

 ――かつて「解離性同一性障害」「多重人格障害」と呼ばれていた疾患に似た病が、世界規模で騒がれるようになったのは歴史の授業で習うような話だ。
 いまや、世界は単一ではない。何重にも重なり合っている。
 その現象は俗に「人格分離」と呼ばれる。一つの身体にいくつもの人格が同居している状態だ。人口の殆どが『二重人格者(ダブル)』、もしくは三つ以上の人格を持つ『多重人格者(マルチ)』で、『単一人格者(シングル)』は今や人口の0.02%以下といわれている。
 『自分は一人しかいない』という、数世紀前には当たり前だったらしいことが、現在は異端とさえされているのだ。

 私は同い年の女の子の人格を有するダブル(二重人格者)である。どちらが主人格ということはない。アナザー(別人格)である里奈とは、物心付いたときから同じ身体にいて、毎日眠りにつくたびに入れ替わる、対等な関係だ。おとといと今日とあさっては私が、昨日と明日は里奈が起きているというわけだ。カウンセリングに通い、定時で眠ることを心がけて、その対等な関係を維持している。

 仕返しに、目覚ましを録音モードにして、腹の底から声を出して「起きなさい!」と叫んだ。……ああでも、なんか違う。と思って、消去する。今日一日使って一番効果のある方法を考えよう。

 心に決めて、今度はケータイを開く。未開封メールは約二百件。いつもどおり、ほとんどのタイトルは『奈子へ』で、送信主は里奈だ。長い通学中に全て返信しよう。
 面と向かってコミュニケーションを取れない分、話すことは尽きない。私は一日の殆どを里奈に費やしている。

 階段を下りて、弟の藍がすでに登校したことを知る。
 藍はシングル(単一人格者)だ。全学年でたった三人しかいない生徒会役員は、何かと忙しい。なんたってシングルは0.02%しかいない。将来を約束される代わりに、『普通』の人とは違う種類の人生を歩むことが義務付けられている。たとえば管理職、たとえば政治家、たとえば医療関係、たとえば高級官僚。藍は、この荒んだ世界の中で一人でも生きていけると神様に選ばれた特別な存在、超エリートなのだ。

 大変ね、と同情しながら、私は席について悠々と朝食を取った。


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