大正時代。あるところに姉弟がいた。
早くに両親を亡くした二人は茶屋に奉公へ出された。
姉の蛍は美人で気だてがよく、
弟の泉は清廉で勤勉、剣道の稽古も欠かさず、姉をよく敬った。
二人きりの姉弟は互いに支え合って生きていた。
斉藤は奉公先の常連で、姉弟が初めて暖簾をくぐったときからの知り合いだ。
一見無骨で強面な男だが、姉弟の懸命さを庇い、飯を奢ってやるようなこともある。
その職業は不明だが、無礼を働いた客を黙らせるだけの威圧を持ち合わせている。
蛍は一回りも違うこの無骨な男に恋情を抱いていた。
「斉藤様は女がお嫌いなのですか?」
蛍は茶を運んだ折、積年の問いかけをした。
斉藤は町の女によく声を掛けられているが、つれない態度であしらっている。
情婦もなく、許された身分であるのに女遊びをしない。
色香を漂わせて近づいてくる女性を嫌悪さえ混じった目で見ていた。
斉藤はいつも通りの低い声で「ああ」と肯定した。
「女には悪夢の記憶があってな」
「では結婚はなさらないの?」
「しない」
「幸せに、ならないのですか」
蛍は斉藤にいつでも身を捧げられるほど愛していたが、
自分と結ばれることはないだろうと弁えてもいた。
それよりも斉藤の背中がいつも孤独に見えたので、
情婦でもかまわない、どこかで人肌に癒されてほしいと願った。
斉藤は機嫌を損ねたようで、返事をせずに視線を逸らす。
「……男の方はいかがですか?」
念のため、他の可能性を当たった。
蛍は男色にも偏見はない。泉など、その手の客に目をつけられることもある。
できるなら彼の孤独を癒したかった。いかなる手段を用いても。
斉藤は「女よりはマシだ」と答え、幾分か沈黙してから続けた。
「泉を見て、アリだと思った」
「……そう、なんですか」
すっと心が冷えていくのを感じた。
愛する人が、けっして届かぬ人が、想い人の名を挙げた。
その衝撃は思いのほか大きく、蛍を嫉妬に狂わせた。
てのひらが食い込むほど強く握ったが、
他の女のモノになるよりはよいのかも知れないと目を閉じて、心を鬼にした。
「それなら、私が協力して差し上げます」
「――何?」
「斉藤様が思いを遂げる手助けをして差し上げるといっているのです」
「泉にそのケはないだろう?」
「ええ、ですから……――」
*
*
*
「きゃっ」
転んだ拍子に斉藤の高価な着物にお茶を掛けてしまい、蛍は平伏して詫びる。
「申し訳ありませんっ!」
とんでもない事態に店中が慌てるが、
普段の蛍と斉藤の様子を知っている者はそれほど心配していなかった。
斉藤が地を這うような声で「ふざけるな」と断じるとは、まさか誰も思わなかったのだ。
「懐に入っていた手帳まで濡れた。これはお前らには到底弁償できない代物だ」
「はい」
「境遇を哀れと思い、あれこれ世話を焼いてやったつもりだったが、恩を仇で返されるとはな……」
まずい事態のようだとようやく気づき、店の者が一緒に謝りにくるが、怒り心頭の様子の斉藤には通じない。
仕事の機密事項の記された手帳だというので、大金をふっかてきた。
そんな額は払えないと言えば、蛍を売ればいいと返す。
茶屋はそのような用途に使う者もいるが、蛍はこれまで他の仕事を率先して行うことで純潔を守っていた。
茶屋の主人は、斉藤をまるで人が変わったようだと思った。
「どうしたんですか」
騒ぎを聞きつけて、泉が店に入ってきた。
店主が説明すると、泉は顔を青くして斉藤の前に土下座した。
「姉の失態は私の失態。
斉藤様におかれましては、大変申し訳なく、伏してお詫び申し上げます。
ですがどうか、どうかご勘弁していただきたけないでしょうか。
その手帳の御代は、どんなことをしてもいつか必ず私が弁償致します」
「どんなことをしても?」
斉藤は泉を嘲った。
これまでに見たことがない、まるで鷹が獲物を狩るがごとき眼にぞっとした。
斉藤はヤケになっていた。
「はい。どんなことをしても」
「ではその覚悟を俺に示してみるか」
泉の腕を取り、邪悪な笑みを浮かべたまま顎で奥の部屋を示す。
「え」
泉は理解できない という困惑の表情を浮かべた。
「意味がわからないのか?」と問われ、ゆるゆると察する。
「できないなら蛍ひとりを試すまでだが」と脅され、
泉は震えながら「自分が」と名乗りを上げた。
「上等だな。いいか、主人」
「は、はい! かまいません、どうぞ奥へ」
蛍は泉を案じるように声をかけ、
「大丈夫」という気丈な返答を受け取り、
弟には気付かれぬように小さく笑んだ。
彼らを見送り、零した茶の片付けをしてから、店主に休憩を願った。