機械仕掛けとパラドクス

「おはようございます、ドロシーお嬢様。
お目覚めの時間です。朝の紅茶をお持ちしました」
「入っていいわ」

許可を得て、ワゴンと共に執事風の青年がドロシーの部屋に入ってくる。彼の名はエドワード。
ドロシーはベッドから身を起こして渡されたカップを受け取り、
口付けるふりをしてから、またワゴンに置いた。

「本日のお召し物はこちらを用意致しました」
「それでいいわ」
「かしこまりました。今お着替えになりますか?」
「ええ」
「ではお手伝いを」

この隠れ処に他に召使いはいないので、身の回りのことはすべてエドワードが行っている。
エドワードは立ち上がったドロシーの背後に回り、ネグリジェのリボンを緩める。
ネグリジェがストンと落ち、ドロシーのブリキの肢体が露になった。
恥じらうほうが恥と心得て、ドロシーは何も言わない。
首の区別もない機械の体では、表情の機微など伝わらないはずだ。
針のように尖って伸びた腕のパーツを、着替えの邪魔になるからと外す。
エドワードがドロシーの身体に腕を回すが、彼の吐息や体温を感じることはない。

「こんなときに 笑顔を浮かべるなんて、とんだ変態ね」
「お好きなようにおっしゃいませ」

エドワードは微笑を崩さない。
着替えが終わり、エドワードに「お似合いです」と言われる。
そんなわけがないとわかりつつも鏡がないのでそんな気もしてくる。

ちらりとワゴンを見る。
白いティーカップには違う色合いの液体が入っていることはわかったし、
湯気が立ち上っていたのでそれは温かかったはずだ。
味覚もなく、色彩の制限された世界だ。柔らかさも数値でしかわからない。

「本日は数学の続きをなさいますか? チェス盤と新しい詩集も用意しておりますが」
「チェスはお前が弱いからつまらないわ」
「申し訳ございません」
「昨日の続きと詩集だけ持ってきてちょうだい」
「かしこまりました」

エドワードが一礼して去った部屋で、ドロシーは息を吐く。
ベッドに腰掛けたまま、懐かしい記憶を夢想した。

――かつてドロシーは公爵の娘だった。
木漏れ日に揺られて、母と妹と笑う穏やかな日々があった。
父は厳しく尊敬に値し、兄も優しく、使用人も行き届いていた。
すべて過ぎた話。二度と還らない。

悪夢を振り払うように、ドロシーは数式に向かった。
ベッドの隣の棚を机代わりにして、
あまり行儀がいいとはいえない。

数学の問題というのは解けば報酬の出るそれである。
エドワードがどのように生活費をまかなっているのかはわからないが、
少しの足しにはなるだろう。どうせ有り余った時間だ。
徒花の寿命を惜しむことはない。






「お嬢様、休憩になさいませんか?」
「入ってもいいわ」

ベッドに散らばった計算紙を拾って揃え、
居住まいを正したところでエドワードが入ってきた。
ワゴンには紅茶と菓子、そしてもう一つ何かドロシーを喜ばせるためのものが乗っている。
今日の"何か"は花のようだ。
部屋に飾ってあるものを取り替えるためだろう。

「これを売ってきて」

証明の終わった数式をドロシーはエドワードに渡した。
買い物も取引も、外に出る用事はすべて彼が行う。
外の用事だけでなく、料理も掃除も彼の仕事だ。

「かしこまりました。さすがお嬢様は賢くいらっしゃいますね。私の自慢です」
「……そう」

エドワードは顔を綻ばせた。
見目は悪くない。
街に出れば年頃の娘から声をかけられることもあるだろう。

「ええ。賢くて可憐でお美しくて、私の誇りです」

――美しい? こんなつぎはぎだらけの、機械の体が?
趣向の捻曲がったエドワードだ、おべっかを言っているわけじゃないのはドロシーにもわかった。
けれど、聞きたくなかった。
とっくに瘡蓋になったはずの傷口も、塩を塗られれば痛むらしい。
近くにあった紙の束を投げつける。

「私は好きでこんな体になったわけじゃない!」
「失礼致しました、お嬢様。失言を――」
「なあ、誰のせいだと思ってる!!」

泣きそうな声が出た。
私はまだ泣くことができるのだろうか。
それとも人工声帯からノイズが生じただけだろうか。

――戦争がすべてを奪っていった。
執事のエドワードは敵国の間者で、彼の裏切りのためにドロシーは家族を失い、国を失い、身体を損なった。
しかし死にかけたドロシーを救ったのもまた、そのエドワードだった。
エドワードは手柄をなげうってドロシーを彼の祖国に匿った。
脳みそ・骨髄以外のパーツがほとんどが損なわれている状態で、
人間としての機能を確保するのが精一杯だったという。
義手・義足というにはあまりにもお粗末な針と車輪。
人工皮膚など外面への配慮も後回しとなった。

最初にこの様態を見たときの少女の絶望は筆舌に尽くしがたい。
今際の怨み言さえ唱えたはず憎い男が、以前のように跪いて「お嬢様」と呼ぶ。
許せるわけがなかった。

一方で、公爵の娘として生まれた誇りがあった。
それはすべてを失った今でも損なうわけにはいかなかった。
生きている以上、ひとりでも生きていかなければならないと思った。

ただでさえ他人に世話を任せていきてきた。
世話係でもいなければ不自由すぎる身体だ。
みてくれも悪く、敵国の貴族が今更地上に出るわけにもいかない。
――少なくともドロシーは一族を滅した国民と同じ空気を吸いたくなかった。

たから罪滅ぼしを望むエドワードを飼い殺すことにした。
罪を償いたいというので、仕えさせている。
日常が円滑に進むように、昔の態度を模すことにした。
暇にまかせて、もう二度と必要がないと思われる知識も学んだ。

けれど、すべてがなかったことになったわけではない。
エドワードには言っていいことと悪いことがある。
彼は償いを望む限り、けっしてドロシーを不快にさせてはいけないのだ。

「私のせいでございます」

顔色を変えない、冷静な態度に腹が立つ。
ドロシーがあらゆるものを失ったのに、エドワードの端麗さは昔のままだ。
まるでよくできた人形のようだと思う。
多くの色を映す彼の目に、ドロシーがどう映っているのかわからない。
"許せない"という感情が彷彿した。

「お前の目も、潰してやろうか」

低めの声で脅し、文字通り針のように細い腕先を彼の目玉へ差し向ける。
美麗な青年は抵抗せずまっすぐドロシーを見た。

「お気に召すまま」

その皮膚。その眼球。人間のパーツ。ひとの 血の通った 健康な 肉体。
もうドロシーがどれだけ欲しいと願っても手に入らないもの。
それをあっさりと手放そうとするエドワードがまた憎かった。
ドロシーはその価値を知っている。
みすみす損なってしまうにはどうしても惜しかった。

「もういい」

腕を下ろして、そっぽ向く。
こうしてドロシーとエドワードの奇妙な暮らしは続いていく。


 
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