奈落のみなしご


裸足で襤褸を纏った少年が、阿鼻叫喚の地獄を歩んでいた。
灼熱の業火の海が人を焼く、その傍らを。
引き込まれたりなどはしない。彼は熱や苦しみをも超越していた。
五つの世界での経験が彼を無類の存在と為らしめたのだった。

此処は地獄の中でも最下層。
六道を巡る旅はこれでついに終わる。

熱によって空気が揺らめき、爛れて崩れる肉塊。
そんな光景が醜く感じられるが、彼にとっては人の世のほうが醜かった。
眼球のない無数の節穴が救いを求めるように手を伸ばす。
それを、手に持つ三叉槍で切り裂いて、振り払う。
少年は凄惨な光景を前に、嘲笑を浮かべた。
四方八方で響くのは悲鳴か呻き声か、それとも断末魔の苦しみか。
耳を劈くそれらにさえも顔を顰めず、ただ淡々と先へ進んでいた。

魂の旅を終えて、次に目を覚ますとき、彼の瞳には力の証が宿っているだろう。
その力は、狂った世界を壊すため以外の何物でもない。
彼には当然の決意があった。
だからこそ、この地獄の醜さからも目を逸らさないどころか、焼き付けて、すべてを背負って、
意識はどのような順序でその腐敗した組織を破壊するかということにだけ向けられていた。

彼は地獄を歩んでいた。
そこには色彩など、在って無いものだった。
眩しい漆黒は、獣のように襲い来る烈火。混沌とした闇は幾億もの彩を飲み込む。
蠢く生命は、永久の贖罪に堕ちた異形。意思を持たぬ有象無象の集まり。


そのとき、唄が聞こえた。


まるで唄のようだった、というのが正しい。
隙間風かと錯覚するほど 脆弱なソプラノが、音を紡いでいる。
賛美歌のような……しかし よく聴けば、その"歌詞"は少年の母国語で怨嗟を紡いでいた。

彼は音源を捜し、
――その双眸と視線を交えた。少女はヒトの形を保ってはいなかった。
だが、長い髪のせいだけではなく、彼には不思議とそれが少女であるとわかった。
そして誰であるのかということにも、およそ見当がついた。

彼女はきっと、少年と同じく『界巡り』の実験体だ。
そしてこの地獄から出られなくなった失敗例なのだろう。
身体は朽ちて、既に研究者たちに廃棄されたかもしれない。
魂だけがこの牢獄に閉じ込められ、いずれ正気を失うのだろう。
もしくは、とうに失っているのかもしれない。

少年は惹き寄せられるように立ち止まった。
轟音に慣れた耳には、繊細な歌声が珍しかったのかもしれない。
そこに宿る憎悪が自分に重なり、すべてを理解できた。

もはやヒトとは呼べないかもしれない。
それでも、少女が他のモノと混ざりきらずに個を保っているのは、
彼女がこの場所に辿り着くほどの精神力を有しているからに他ならない。
少年は知っていた。
彼の成功はあまたの失敗作の上に成り立っているということを。

うああ。
少女が少年を招くように呻いた。
彼は目を細め、少女に手を差し伸べた。

すると、炎が波を打ち、少女の塊を吐き出した。
そこから手が伸びて、彼に触れた。
少年は少女を掴み、彼女に呪い(まじない)をかけた。
それはこの地獄道で習得した、幻術という能力だった。

少女は彼の力を借りてかつての姿を形成する。
まがいの姿でも、出来損ないにはふさわしいと思った。
――そう、"思った"。

「あなたは何を求め、何を得るの」

一糸纏わぬ少女が問うた。
永劫ぶりの対話だった。
彼はその瞳が理知に煌いたことに驚いてから、それに応えた。

「貴方の望みに等しい全てを」

少女の望みが、平凡な幸せでなどあるはずはなかった。
端麗な顔立ちが歪んで、瞳を揺らす。
己を支える少年の手をぎゅっと握った。使命を託したのだった。

「貴方も一緒に来ますか」

少年が問う。少女は首を振る。
この世界ならばこれほどの幻術も許された。
しかし、人間界ではそうもいかないだろう。
彼女はすでに異形の身。
地上に身体を持ち合わせていないのだ。

彼も、そんなことはわかっていた。
もしも死というのが肉体が果てることをいうのならば、彼女は死んでいるだろう。
もしも死というのが天国か地獄に落ちることをいうのならば、彼も彼女も死んでいるだろう。

だが少年は、彼女が『生きている』と思った。彼は笑う。

「宿る身体がないのなら、僕に棲めばいい」

少女は目を瞠って、彼の眼を見た。
澄んだ蒼の、その対が血のように紅く閃いて、うっすらと『六』の字を宿していた。
冗談でもごまかしでもあるはずがなかった。

少女は思う。
此処に辿り着いた彼は、自分に劣らない憎しみを抱えているだろう。
その彼の精神が平穏であるはずがない。
もしかしたらこの地獄のように煮えくり返っているかもしれない。
そこに住むというのは、火に身を投じるようなものだった。

けれど。
身を焼かれ正気を壊される苦痛を知っている。
悲鳴を上げ、もしくは声を出すことも叶わずに斃れた仲間を知っている。
地獄よりも醜い世界も知っている。

これ以上何を恐れることがあろうか。
少なくとも、もう独りで久遠の責め苦に耐える必要はないのだ。
地の果てから、届かない恨みを唄うこともないのだ。

少女が頷くと、彼はクフフ、と独特に微笑する。

「名は?」
「――――」
「ああ、組織での番号を聞いたんじゃありません。これから生きていくのなら、名がいるでしょう?」

少女は曖昧に頷いた。
どれほど価値があるのか、実感できなかったのだ。

「僕は六道骸と名乗ろうと思っているんです。
お前は…そうですね、『ティア』なんていうのはどうでしょう」
「『ティア』」
「不満ですか?」

彼女は首を振った。
彼は微笑して、先を指し示した。

「共に往きましょう。輪廻の果てに」



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