《転》三年、梅雨


後悔はしていない。
ただ、苦しいだけだ。


それから、藤森とはたまに話をするようになった。
限りなく友人という位置に近かったと思う。
恋愛対象かはともかく、俺が藤森のことを気に入っていたのは事実だ。
そういうとき周囲の目はあまり気にならない。気にする価値がないからだ。
困っていて、俺に簡単に出来ることなら手を貸してやってもいいと思えた。
未来を見通す能力を明かすことはできないけれど。

成績が危ないという藤森に、勉強を教えてやることになった。
どうせ俺は暇が余っているから、一日くらい潰れてもかまわない。
要領の良い頭を持ったことを幸運に思った。
外には雨が降り続いている。

勝手に決まった話だったから、藤森は申し訳なさそうに何度も謝り続けた。
それを微笑ましく思う。俺は予想以上に彼女に好感を抱いていた。
謝らなくていいのだと、どうしたら伝わるだろう?
平然とした態度を取る以外に思いつかない。
笑いを噛み殺しながら、話しかける。

「そんなんで大丈夫か?」
「だ、ダメかもしれない……」

小さなミスを指摘すると、不安そうに肩を落とした。
俺がからかい半分の気持ちで臨んでいても、本人にとっては死活問題だ。
教え方は上手いつもりだけど、どれだけ役に立つかはわからない。
せっかくだからちゃんと役に立ってやりたい、と思った。

親切心の軽い気持ちで、『未来』を調べてやることに決めた。
追試の問題を見通す。反則技だ。
けれど、あくまで問題をそのまま教えるのではなくて、対策の参考にするだけだ。
能力については隠し通すつもりだった。知られるわけにはいかないから。

「心配しなくても、俺が教えたとこは絶対出ると思えよ」

『見る』のは疲れる作業だが、少しくらいなら平気だ。
慣れているから、見たいものを見ようとすることも出来る。
何気なくを装いつつ、藤森の頭に掌を乗せると、
なにか強い力にぐわんと意識が引っ張られるのを感じた。
それは俺が見たかったものとは違っていた。
なにかがおかしい。
そんなことを思う前に、視界に悲惨な光景が映る。


 悲鳴が聞こえた。藤森の。断末魔とも言える。恐怖と苦痛に顔を歪ませていた。
 腹に突き刺された包丁のせいで服が赤く滲む。絶叫を上げている。
 黒いレインコートを纏った不審な男がフードの下で醜く哂う。
 声が途切れて、雨が降り続ける道路に倒れる。青白い顔に容赦なく雨粒が打った。
 とめどなく流れる鮮やかで赤黒い血液。


時間的には一瞬だったのだろうが、状況を把握するには十分で、
瞼に焼きついた光景に震え上がった。

「そんな……嘘だろ?」

嘘だと信じたい。嘘であってほしい。
けれど、自分が見たものの信憑性は自分が一番良くわかっていた。

藤森の顔を見て、どうしてこいつなんだ、と思った。
事情などは知らないけれど、いいやつだと知っている。わかっている。
心を許せたのに。どうして殺されなきゃいけない?
――死ぬと決まったわけではないが、死を連想させるのに十分な『未来』だった。

そんなことさせるか!
絶対にそんな未来にはさせない。強く思った。
防ぐために、情報を求めて、手を掴む。説明している暇はなかった。
震える両手で藤森の両手を包んで目を瞑る。祈りに近かった。祈っていた。
もう一度未来を見て、わかったのは、それが今日である可能性が高いということ。

出来る限りの対策を打ち出す。
そのために、自宅の住所を聞き出した。
あれは帰宅する直前のようだったから。

正確な時間はわからないけれど、辺りは薄暗く、
雨が降っていたことだけは鮮明に記憶している。
今も雨は降り続いている。晴れれば少しは安心できるけれど。
だから、「雨が止むまで帰るな」と命令した。
わけのわからないまま腕を掴まれて気圧されて、藤森は涙目にまでなっていた。
でも、ここで引くわけにはいかないから、反論を聞くのは後回しにした。
「お前の為なんだ」という言葉が喉元まで出掛かったけれど理性で引っ込めた。
エゴイストを承知していた。

犯人である男を警察に捕らえさせるために匿名で電話を入れる。
毎晩近所に不審な男がうろついている、と言って。
藤森が普段家に帰るという時間を指定して。
言いたいことだけ言って電話を切った。

「ねえ、どうしたの? どういうことなの?」

廊下から戻ると、藤森は一番に事情を尋ねた。
混乱して取り乱していた。何も知らせていないのだから、当然のことだ。
けれど、俺の能力は容易く受け入れられることじゃないとわかっているから、
不用意に混乱させている場合じゃなかった。

「頼む。今は何も聞かないで言うこと聞いてくれ!」
「どうして並木君が頼むの? そりゃあ、ちゃんと事情を教えてくれれば協力できるけど」
「今日が終われば、何をしてもいい。なんでもする。だから!」

死んだらそれで終わりだ。
生きていればどうにでもしようがある。
弁明も謝罪も後でいくらでもできる。

迷惑そうな藤森の視線に胸が痛んだ。
あるいは、事情を話さずとも無条件で信用されるような関係が築けていたらよかったのだろうか。
もっと俺が自分のことを話して、もっとまともなタイミングですべてを明かせたらよかったのだろうか。
どうしてこんなに傷つき傷つけなくてはいけないのか。

――けれど、嫌われる拒絶されるとかそういうことよりも、命の方が何倍も大切に決まっている。
だから、腕から血が吹き出るような思いでありながら希望に手を伸ばした。
なりふりかまわないそれは、懇願とも言えたかもしれない。失いたくない、その一心だった。

そしてついに藤森は困り果てた様子で頷いた。
これで救うことが出来る、と安堵の溜息をついた。

気まずさをかき消すべく、勉強会は再開された。
雨はなかなか止まない。
ちゃんと説明を聞きながらも、藤森は何度も時計や窓の外を見ては、密かに不安げな顔をした。
次第に夜になる。連絡を入れてはいたようだが、心配は耐えないだろう。
俺はそれが目に入らないふりをした。

ようやく雨が弱まったのは時計の針が九時半をさしてからだった。
勉強にもきりがついて、藤森は再び「いつまで此処にいればいいの?」と聞いた。
諦めて、家まで送ると申し出た。一人で帰すつもりは毛頭なかった。
断られる可能性もあったが、夜遅いということもあり、お礼を言われてまで快く承諾された。
こんなふうでなければ、藤森は俺に悪い気持ちを抱いていないはずだった。惜しい気持ちはある。
ほぼ無言で、二つの傘を並べて歩いた。


藤森の自宅であるアパート周辺には何台ものパトカーが出入りしていた。
通報が効いたのだろう。
アパートの前をうろうろしていた警察官に藤森は恐る恐る事情を尋ねた。

そして、自分が殺されていたかもしれないという事実を知った。

目を見開いたまま、血の気が引いていくようにどんどん顔を青くした。
そんな横顔が心配になりながら、俺はただ判決を待っていた。
彼女はきっと理解するだろう。誤魔化したり、隠蔽する余裕などはなかったのだから。
どんなふうに思うだろう?  そんなのは、予想が出来た。
希望なんて一握りで、他は絶望に染まっている。
それでもいいと思っての行動だったはずだ。後悔するなと自分に命じる。
けれど、糾弾の時を待つような心臓の高鳴りは消せなかった。

そしてついに、彼女は俺の方を振り返った。
目が合ったとき、一瞬で悟った。
顔面蒼白の彼女は、驚愕の表情で、理解できない奇怪なものを見る目つきで、瞳を揺らして、
崩れ落ちてしまいそうな弱弱しい声で、唇を震わせて、ただ一言だけ零したから。

「――なんで?」

簡潔な質問が胸をえぐった。
これ以上ないほど純粋な言葉だった。
そこに、俺を救った強さや光はなく、壊したのは自分だと気づいた。

怯えないでほしい。
それは身勝手だろうか。
どうやったら慰められる?
どうやったら怖がらなくていいと、わかってもらえるだろう?

あまりにも小さく弱弱しい彼女を、抱きしめたいと思った。手を伸ばした。
震えていたのは俺でもあった。触れられればいいって思って。
これ以上未来を見たかったわけじゃない。

ただ、ただ。

藤森はさらに恐れ戦いた顔で、必死に俺の手を払いのけた。
明確な『拒絶』だった。

お袋、淳也――同じく拒絶された過去が脳裏を巡る。
真実は現在だけではないのだ。

状況を正しく理解させられた。
もう、駄目なんだと。
認められなかった。受け入れられなかった。俺は。
すべてが終わる。

藤森ははっと我に返ったように俺を見た。
何か言い繕おうと口を開き、言葉にならない声を出す。
けれど、知っている。無意識の行動こそが本心だ。
責めようとは思わない。正常な反応だとわかっているから。
偽ったまま、笑っていられればそれでよかったのになあと苦笑した。

「無事でよかった」

安心させたくて、それだけを音声に搾り出した。
もうそれだけでいい。
傍にいることはできないけれど、近づくことはしないけど、君はどこかで笑ってくれるだろう。
じゃあな、と心の中で別れを唱える。
人形になったみたいに立ち尽くす藤森に背を向けた。


やみかけた雨が視界に滲んだ。




――十五年以上も経ってから、久しぶりにその夢を見た。
最悪の寝覚めだ。
唇を噛むと血が滲んだ。

後悔はしていない。ただ、苦しいだけだ。



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