(下書き原文)


「そういえばさっきバス停のところで恭弥くんと会ったわよ。相変わらず無口な子ね。でも会釈してくれたから私だってわかったみたい」
夕食のさなかに母からその名前が出て一瞬ほうけてしまったのは、母の言う「恭弥くん」が並中の恐怖の代名詞「ヒバリ」と同一の存在だと咄嗟に結びつかなかったからだ。
「制服着てたけど、部活の帰りだったのかしら」
「部活じゃなくて、委員会じゃないかな。たぶん」
彼が風紀委員長だというのはあまりにも有名で、喋る機会がなくても知っている。
「あんたたち昔はよく遊んでたのに、今はあんまり交流ないの?」
「ないよ。クラスも違うし、そんなもんだよ」
そもそも昔のことだって、ろくに話しもせず、同じゲームをするでもなく、ただ同じ空間にいただけで『遊んだ』と定義してよいのかどうか。

ーーあれは言わば延長保育のさらに延長だったのだ。
小学校を卒業するまで、夕方を近所の恭弥くんのうちで過ごしていた。
共働きの親同士が、子どもを一人にしておくよりは二人のほうが安心できるからと合意したらしいが、私たちは二人きりにされても一人と一人にすぎなかった。
きっと無人島で二人きりになったって、二人を残して人類が滅亡したって、特別親密になることはないように思う。
家族同然という言葉があるように、他人でも家族のように親しみを覚えることがあるのだとして、逆に家族でも他人のように疎遠のこともあるだろう。我々はまるで他人同然の家族のような他人だった。
性別差もあり、性格が合うわけでもなく、趣味趣向が合うわけでもなく。
門限の5時までは外で過ごしてよく、そこから母が仕事を終えて迎えにくる7時頃までを恭弥くんのうちで過ごした。
幼心に、その提案を承諾することが忙しい両親の心的負担を減らすと察したから、拒否するような我儘は言わなかった。
実際、自宅で一人で過ごすのと、恭弥くんと一人と一人で過ごすことに大きな違いはなかったので。

恭弥くんは、たとえば私が盛大に転んだって、犬に追いかけられてたって、終わらない夏休みの宿題に途方に暮れてたって、手を貸してはくれなかった。
あ。テレビゲームでマップの中を迷子になってたら口を出された記憶ならある。

町内会の行事でも、同学年というだけでペア扱いされた。
協調性はないくせに、恭弥くんは行事自体は嫌いではないようだった。

案外覚えているものだ。
彼の家の中が、部屋がどんなだったか。
宿題していた彼の字が子どもながら綺麗だったこと。
彼がどんな本を読み、何をして時間を過ごしていたか。

小学五年生のときだっただろうか。
授業参観で、赤ちゃんの頃の写真を持ち寄って、それが誰だか当てるクイズが出された。
赤ん坊というのは案外面影が掴みにくいのだけど、被写体よりも背景に写り込んでいた箪笥が恭弥くんの家のものだとすぐわかって、ずるい正解をしてしまった。
どうしてわかったのかと聞かれて答えられなかった。
見るからに美しい赤ん坊だったからとでも言えばよかったんだろうか。

あの頃から、恭弥くんは周囲に恐れられていて、彼に対し学校で対等を気取った幼馴染として話しかけることはなかった。
背が伸びるのが遅くて、私より小さい期間も長かったのに、喧嘩をすれば自分より体の大きい相手や上級生でも、容赦なく沈めた。無愛想で先生に対しても不機嫌を隠さないから怖かった。
家では親に合わせて「恭弥くん」と呼ぶが、学校ではみんなに合わせて「ヒバリくん」と呼んでいた。

うちじゃなくて、恭弥くんのうちに集っていたのは、恭弥くんのお母さんの帰りのほうが早いことが多かったのもあるし、立地のせいもある。
うちは少し奥まったところにあるので、帰りに寄るのは恭弥くんのうちのほうが向いていた。
近所ということで授業参観とPTA会議の出席、運動会や学芸会の送迎も分担していたようだ。

……嫌なことを思い出した。
過ごした時間が長いと、恥もたくさん晒している。

小学四年生の学芸会で、私は町娘Bという大役を仰せつかったのだが、あまりの緊張で、ただ一言しかない台詞をど忘れして舞台の上で立ち尽くしてしまった。
幸い飛ばしても劇の進行に大きな影響はなかったが、それはもう長らく落ち込んだ。
特に帰り道の車の中でぐずぐず泣いている私を、恭弥くんはうざったそうに視線を外し、後部座席の窓から外を見ていた。
その恭弥くんは劇では通行人Aの役で、文字通り舞台の上手から下手に歩いてはけるだけの役だった。協調性の欠片も見当たらない生徒に参加の体を保たせたのはひとえに担任のはるな先生の努力あってこそだろう。Aといっても台詞のない通行人役は恭弥くんだけだった。
私は嗚咽を飲むので精一杯だし、母は気を使って恭弥くんに話しかけるが、いつものように「まあ」とか「うん」とか、会話しようという意思の存在しない相槌だった。
母の中では恭弥くんは無口な子というカテゴリーだったので、会話自体が面倒だという無言のメッセージを受け取らずにあれやこれやと話しかけ続けていた。

サンタクロースははなから信じていなかったし、そんな茶番を行わない親だったが、プレゼントはリクエストどおりの欲しいものをくれた。
逆に恭弥くんちは、息子のためにとサンタクロースを演出するが、プレゼントはサプライズ制なので私の知る限りいつだって対象年齢を5つほど間違えた的外れな贈り物だった。
もちろん恭弥くんはそれを用意したのが誰だか知っていた。

あの頃、私にとって大人はなんでも知っていてなんでもできてなんでも決めてしまう神様のような存在だったが、だとするなら恭弥くんはまるで無神論者だった。

一度だけ、恭弥くんがうちに泊まりにきたことがある。
急な法事でおばさんとおじさんが家を空け、うちに預けられたのだ。
その日のおやつは麦茶のゼリーだった。
缶詰のみかんとシロップを載せても甘さが足りなくて、私は無糖のおやつという存在に不条理を感じていたのだが、
恭弥くんは何も入れぬ無糖麦茶ゼリーがお気に召したらしく、やっぱり自分とは違う生き物だと思った記憶がある。

客間で就寝した恭弥くんは、翌朝目を赤く腫らして、ニワトリの声がうるさくて眠れなかったと苦情を漏らした。
うちの斜向かいに鶏小屋があって早朝に鳴くのだが、毎朝のことなので体に馴染んでいて気づかなかった。
枕が変わると眠れないなんて繊細なことだと思ったものだが、あれは「弱った恭弥くん」という珍しい存在だった。

門限違反を咎められたことも何度かある。
そもそも5時に帰らなきゃいけないのだと言っても、大人の目はないのだ。
共犯として見逃してくれればいいのに、20分も遅くなれば嫌味を言われた。
告げ口されたことはないけど、恭弥くんだって、とっくに門限なんて守ってはいなかったのに。
でも、まあ、怖かったし、私は善良な小市民なのでおとなしく従った。

そもそも高学年になってから「保育」なんて不要なはずで、帰り道に彼のうちに吸い込まれるのはほぼ惰性だった。
決まりにだけ口うるさかったと思えば、風紀委員になったのも似合っているかもしれない。実態が不良の溜まり場だとしても。

中学に上がり、標準的な帰宅時間が延び、門限が撤廃されて、私と恭弥くんの交流は絶えた。
今は知り合いぶることさえない。
恐怖の風紀委員長に怯える一般生徒なのだ。

恭弥くん、という呼び名を久々に聞いただけで、こんなにいろいろ思い出せる。
まったくの他人と言うには、共有した時間が少しだけ長い存在だ。

翌朝。
久しぶりに目が合った。
目が合うというのは偶然彼がこちらを向くまで、あるいは視線を感じ取られるまで、彼を見てしまっていたことに起因する。
久しぶりに挨拶くらいするかと口を開いた。
「おはよう、恭弥くん」
間違えた。

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