鉛の王国(下書き原文)


>https://ja.wikipedia.org/wiki/迷い家
>金沢村は白望の麓、上閉伊郡の内にても殊に山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前此村より栃内村の山崎なる某かゝが家に娘の聟を取りたり。此聟実家に行かんとして山路に迷ひ、又このマヨヒガに行き当たりぬ。家の有様、牛馬鶏の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとする所のやうに見え、どこか便所などのあたりに人が立ちて在るやうにも思はれたり。茫然として後には段々恐ろしくなり、引返して終に小国の村里に出でたり。小国にては此話を聞きて實とする者も無かりしが、山崎の方にてはそはマヨヒガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来り長者にならんとて 、聟殿を先に立てゝ人あまた之を求めに山の奥に入り、こゝに門ありきと云ふ処に来れども、眼にかゝるものも無く空しく帰り来りぬ。その聟も終に金持になりたりと云ふことを聞かず。
(遠野物語 六四)

>土手→山間部のコンビニ→峠→橋→軽井沢のロッジ


***


 先日、十年ぶりとも言われる大雨が降った。
 幸いにして雲雀の家がある並盛町は大した被害もなく済んだが、隣町では軽い土砂崩れが起こったとも聞く。屋根を殴るようにして降る雨を感じながらも、雲雀は特に不安を覚えることはなかった。父母の揃った居間の隅で雲雀は絵本を読み、時折ブラウン管のなかで四角四面に気取った男の言葉に耳を澄ませる。男の言う通り、その大雨は二日で止んだ。

 それから数日、暇を持て余していた雲雀は増水したとかいう川を見に行こうと思いついた。
 雲雀は普段からフラっとどこかへ行ってしまうような子どもだったから、母親はある種諦めに近い感情から放任主義に甘んじている。幼いながら癇の強い子どもを無理に抑えつけるよりかは、幾つかの条件を設けた上で好きにさせたほうが損益が少ない。物心ついた頃にはもう雲雀は同伴者なしで並盛町を歩き回っていたが、中学に上がるまでは必ず「どこへ行くか」そして「何時に帰ってくるか」親に伝えるのが、両親から課された“単独行動を認める条件”だった。
 疾うに河川敷から水が引いていることを知っていた母親は渋々ながらも外出許可を出し、腕時計と緊急用のPHSを持たせた。雲雀はほんの五歳ではあるものの、自宅の電話番号を覚えているし、PHSを使うことが出来る。それも単独行動を許される理由の一つだった。

 雲雀の家から栄川までは、そう遠くない。
 自宅前の大通りを通れば幼児の足でも五分で着くが、雲雀は専ら勝手口側の路地を抜けていくことが多い。細々と家が寄り集まった路地は辛うじて車一台分の幅があるものの、昼日中でもどことなく薄暗い。雲雀は、裏路地に漂うヒンヤリとした静謐が好きだった。
 時折通る車に注意を払いながら、雲雀は栄川を目指す。時間にして七分近く歩き続けると、土手に行きあたる。誰が作ったのか、見るからにお手製と言った感じのコンクリートブロックで出来た階段を通って斜面を上ると、視界が拓けて、街中の喧噪が一気に押し寄せる。
 橋を行き来する車の駆動音をボンヤリ受け流しながら、雲雀は眼下に広がる栄川を眺めた。母親から水は引いたと聞いていたが、普段広々とした川の真ん中にある島――中洲は水に呑まれているようだった。ゴウゴウと音を立てて勢いよく流れる川は水位も倍に膨れ上がり、河川敷の下に設けられた親水空間に立ち入り禁止のコーンが設置されている。
 雲雀の記憶が確かなら、遊歩道に転がっている椅子は親水空間に設置されていたはずだ。石で出来た椅子が河川敷まで押し流されてきたのだろう。河川敷に敷かれた芝生のあちこちに、川底の砂がへばりついていた。雲雀は遠方から迫る人影を認めると、河川敷に移動した。

 栄川の親水空間は半円形にくりぬかれる形で、地表が川面と同等に揃えられている。
 濁った水の底に、辛うじて難を逃れた椅子が数脚残っていた。如何にも安っぽい警告を発するコーンを無視して、雲雀は親水空間に続く階段の中ほどに腰かける。二段下に川面が迫っていた。
 今雲雀がいる地点は遊歩道の終点まで数百メートル、町民の憩いのスペースとして設けられた河川敷の端にあたる。それ故、このあたりは人通りが少ない。向こう岸に交通量の多い道路が引かれているため、決して静謐ではないものの、長閑と言って良い穏やかさがあった。雲雀はよくここに来て、ザリガニを釣ったり、家から持ってきた絵本を読んだりする。
 華奢な膝に頬杖をついて、雲雀はボンヤリと水底の景色を眺めた。ほんの一週間前、あの椅子に座って“かいじゅうたちのいるところ”を読んだ。そう思うと不思議な感覚が湧いてくる。

「……何か面白いものでもあるの」
 背後で鳴った鈴の音に振り向くと、学校帰りと思しき《夢主》が雲雀を見下ろしていた。
 雲雀の母親から様子を見てくるよう頼まれたのだろうか。いや、もしそうならランドセルは下してくるはずだ。学校が引けるなり、真っ直ぐここに来たのだろう。
 特別「川の増水がどんなものだったのか見に行きたい」とか「明日は栄川でザリガニを釣ろうと思う」とか言わなくとも、何故だか《夢主》は雲雀がいつどこにいるのか把握しているのだった。五歳の年の差があるから、行動パターンを掴まれているのはそう不思議なことでもない。
「別に。何となくヒマだっただけだよ」
 ませた口調で答えると、《夢主》がふうんと素っ気ない相槌を返す。
 《夢主》は雲雀同様コーンを無視して、ゆっくり階段を下った。《夢主》が動く度に、ランドセルに括りつけられたお守りが軽やかに揺れる。チリン、チリンと音を立てながら、《夢主》は雲雀の隣まで下りて来た。見下ろされるのは嫌だったので、雲雀も脇に手をついて立ち上がる。
 《夢主》は川面を見下ろすと、ちょっと驚いた風に目を見開いた。その表情を追って視線を俯けても、雲雀には椅子以外何も見えない。ややあってから、夢主が雲雀に流し目をくれる。
「こんなところで遊んでると、連れてかれるわよ」
「何に?」
 子ども騙しの方便でも口にする気だろうとは分かっていたが、一応問い返してみた。
 雲雀と視線が合うなり、《夢主》は顔をあげて向こう岸に目をやった。右手に持った給食袋をぶんと振り回す。
「足をとられて」尤もらしく答えてから、《夢主》は小首を傾げた。「水を飲んだ頭はぼうっとしてきて、そしてそのまま川の底に連れていかれるの。そうなる前に帰るわよ」
 有無を言わさぬ口ぶりとは反対に、要領を得ない答えだった。そもそも、雲雀は“何に”自分が連れていかれるのかと聞いたのだ。《夢主》の台詞からは、“如何やって”連れていかれるかしか分からない。雲雀は、この幼馴染が阿呆でないことを知っている――少なくとも、自分よりは。その自分の問いに対して不明瞭な返事をくれるということは、作為があるはずだった。
「……それは河童じゃないの」
「そんなものがいると思っているの」
 馬鹿ね。ませた声音に畳みかけられて、それでもなお言い返せるほど負けん気が強いわけではなかった。五歳の雲雀にとって、五つの年の差は理不尽なまでに大きい。

 夢主は今年の春、雲雀の家の三軒隣に越してきたばかりだ。
 隣近所に住む“幼馴染”としては未だ浅い仲であるものの、物心ついた時にはもう《夢主》を苦手に思う気持ちが存在していた。雲雀と《夢主》は互いの祖父母がはとこ関係にあるとかで、遠い親戚関係にあたる。のみならず父親同士がごく親しく、《夢主》の父親は毎週末のように雲雀の家を訪ねてくる。二人で書斎にこもって談笑しているのを見るに、所謂“親友同士”なのだろう。当然の成り行き上、父方の法事以外にも私的なホームパーティや小旅行で《夢主》と同席することになる。《夢主》を苦手視する雲雀にとって、次第にそうした時間が苦痛になっていった。
 一口に“苦手”といっても、《夢主》が年齢差を笠に着て雲雀を悪しざまに扱うことはなく、逆にお姉さんぶってチヤホヤすることもない。寧ろ雲雀同様大人びた立ち居振る舞いの《夢主》は雲雀の聡明さに一目置いて、殆ど対等の存在として扱う。“見くびられること”と“過干渉”を嫌う雲雀にとって、《夢主》はそう相性の悪い存在ではないはずだ。まあ、苦手なのだから仕方ない。

 軽度の喘息を患っていた《夢主》のために一家は並盛町を離れ、隣県の山間部に住んでいたが、成長と共に夢主の喘息が緩和してきたのを切っ掛けに、並盛町に戻って来たらしかった。
 《夢主》は雲雀より五つも年上だったけれど、喘息持ちなだけでなく病弱な性質だった。黒々とした長髪は《夢主》の肌の白さを際立たせたし、その整った容姿さえ華奢な体躯を人々に留意させる理由でしかない。一方の雲雀は極めて丈夫な体を持ち、年より大人びてしっかりしている風に思われるのが常だった。だからだろう、五歳の年の差があるにも関わらず、雲雀は両親から「夢主ちゃんに良くしてあげるように」と言いつけられていたし、同時に夢主は極めて我儘だった。

 我儘――そうだ、そもそも雲雀が《夢主》を苦手視するのは、彼女が我儘だからなのだろう。
 幼い子どもにありがちと言えばありがちではあるものの、大抵の場合《夢主》の“我儘”が発揮されるのは雲雀の前でのみだった。大人たちの前では、《夢主》は従順な子どもとして朗らかに振る舞う。それを遠目に眺めて、雲雀は《夢主》という子どもの社交性に感心するのだった。
 《夢主》が我儘な面を見せるのは雲雀だけだったが、その一方で《夢主》は決して雲雀を隷属させることで充足感を得ようとしていたわけではない。自分の隷属を目的としていたなら、雲雀は明確な意思でもって抗っただろう。しかし《夢主》は常に自分より圧倒的に幼い雲雀を同格に扱い、共同作業の折には必ず雲雀の意見を伺った。それが一種の敬意であることは、《夢主》が無能な人間でないことからも明らかだった。《夢主》は自分が両親に大切にされていること、賢い部類の人間であること、そして容姿に恵まれた人間であることをよくよく分かっていた。
 人の多い場所を嫌って隅に陣取る雲雀と違って、《夢主》は常に人の輪のただ中にあって、自分が何と言えば大人たちが喜ぶのか熟知しているのだった。
 そんな《夢主》が何故不愛想な幼児に寄ってくるのか、雲雀には理解出来なかった。

 《夢主》が雲雀に見せる我儘は、殆どが雲雀の持ち物を羨む類のものだった。
 元々雲雀は物に執着する性質ではないから、《夢主》に乞われれば投げ捨てるような気安さで渡すことにしている。それに《夢主》自身、雲雀が安易に他人に譲渡出来るものと出来ない――死んだ祖父から受け継いだ懐中時計とか、ネクタイピンといった高価なものの判別はつくようで、後者を強請られたことはなかった。それを強請れば大人たちに知れて騒ぎになるから我慢しているとかではなく、本心から興味がないようだった。故に、雲雀の所有物を搾取することで優越感を得ているわけではないだろう。単なる物欲かとも思ったが、前述のとおり《夢主》の両親は一人娘のために空気の良い高地に越すことも辞さない人種だ。欲しいものがあるなら親に強請れば良い。
 底の見えない欲からなる横暴は雲雀にとって生理的嫌悪感の対象でしかなかった。
 尤も雲雀は物欲の欠けた子どもだったし、《夢主》が物欲しげな声音で雲雀の持ち物に触れるのも年に一二度のことだ。それは雲雀に“大したことではない”と思わせるのに十分な頻度であり、《夢主》の人心掌握能力は雲雀にとって十分有益なものだった。何せ母親は《夢主》を我が子のように可愛がっていて、まだ幼い息子の協調性のなさを「恭弥は賢いから。中学に上がれば周囲の精神年齢も上がって馴染むと思うの」と肯定されれば丸きり納得してしまうのだ。
 並盛中のみならず町内全体を牛耳って好き勝手しながらも、家庭内に大した不和もなく済んだのは《夢主》の存在に因るところが大きかった。どの道大人しく両親の制約を聞き入れる気が毛頭ないといって、少なからず敬意と情のある父母と無暗に揉めたいわけではない。有難いと言えば有難いものの、年をおう毎にそうした《夢主》の勝手な善意に“癪だ”という気持ちが募る。《夢主》は雲雀の望むにしろ望まないにしろ、常に雲雀を取り巻く環境を明るいものにしようとした。
 《夢主》は雲雀が何を好み、求めるのかよくよく知っていた。
 それ故《夢主》の勝手な善意で不快な目にあったことは一度としてない。便利な存在だ。話していて退屈だと思うこともなく、寧ろ楽しい。多人数で群れることもしない。《夢主》の行動には凡そ雲雀の気に障るものはなかった。それにも関わらず、雲雀は未だに《夢主》が苦手だった。

 並盛町に越してきた《夢主》が独り立ちするまで、十二年もずっと家族も同然に過ごしてきた。
 その十二年で、雲雀は終に《夢主》の真意を掴むことは出来なかった。

(場面転換、山間部のコンビニ)

 雲雀は店員から空の紙コップを受け取ると、レジ脇のコーヒーマシーンの前に移動した。
 我儘な幼馴染は出会ってからの十二年で終に矯正する機会を得ることなく野に放たれてしまった。並盛を出て行った時は心底胸を撫でおろしたものの、五年ぶりに帰ってきたかと思えば実家にも顔を出さず、単なる幼馴染に過ぎない雲雀に「軽井沢に行きたい」などとふざけたメールを寄越す。ふざけた女だと苛立つが、雲雀の両親は息子がごく普通の職に就いたものと思っている。このところめっきり白髪も増えて老けこんだ両親と詰まらない諍いを起こしたくはなかった。
 この帰省ラッシュに何が悲しくて実家のある並盛町を出て、軽井沢に行かなくてはならないのか――そう思いつつ、結局従う形になってしまったのが腹立たしい。
 雲雀はため息を漏らしながら、コーヒーマシーンの隣に並んだ棚からシュガーとミルクを一つずつ取り出した。この山を越えれば長野県。軽井沢についたら「あなたの気まぐれに振り回されるのは二度とごめんだ」と言わねばなるまい。そんなことを考えていると、不意に視線を感じた。

「兄ちゃん、一人?」
 店内に作りつけのフードコートでホットドッグを齧っていた男が、上半身を捩るようにして雲雀に話しかけていた。
「……一応連れはいるけど、何か?」
「ああ、寝ちまったか」
 男は日に灼けた顔をクシャリと歪めて苦笑した。

「このあたりじゃ珍しいなと思ってよ。真夏だってのに、キチッとスーツ着こんで」
「これ以外服がなくてね。それに、このあたりだと夜は寒いぐらいじゃないの」
「そりゃ、オレは慣れてるから。高地でも夏は暑いし、冬は冬で死ぬほど寒い」
 そう冗談めかしてから、不意に男が肩を竦めた。
「この先のS字カーブの真ん中に掛かってる橋からよく見えるんだけど、その川の上流にある橋がちょっとした自殺スポットみたいになっててさ。変わった人がいたら声掛けるようにしてんだ」
「ああ、そう。なるほどね」
「でもツレがいるってなら余計なお世話だったな」
 くしゃりとホットドックの袋を丸めると、男は席を立った。ラフに片手だけ挙げて去っていく様子からも、人の良さがにじみ出ている。
 男が雲雀の脇を抜けると同時に、コーヒーマシーンがビーッビーッと音を立てて、コーヒーが淹れ終わったことを告げる。雲雀はプラスチック製の扉を開けた。

 車に戻ると、《夢主》が前かがみに頭を垂れるようにして助手席に座っていた。
 体勢から見て、眠っているのだろう。他人に軽井沢くんだりまで車を出させて、いい気なものだ。雲雀は後部座席のドアを開けて、ヒバードのケージの脇にあるブランケットを取り出した。
 運転席に乗り込むと同時に《夢主》にブランケットを掛けて、車のキーを回す。バックさせるためにあたりを見渡すと、コンビニ脇に停めたバイクに跨ってiPhoneを弄っていた男がきょとんとした風に雲雀を見つめていた。その表情が如何いった理由で引き起こされたものなのか考えるほど、雲雀は他人に興味関心があるわけではない。体面的に軽い会釈を返すと、雲雀は車を出した。
 コンビニから出て左折した途端に後輪が縁石を擦って車体が揺れる。運転免許を取ってから随分経つものの、未だに車よりバイクで行動する機会のほうが多い。運転センスは悪いほうではないと思うが、やはり腕が鈍っているのだろう。雲雀は顰め面で《夢主》の様子を伺った。
 《夢主》は目を覚ました様子はなかったが、ブランケットがフロアマットに落ちていた。拾って掛けなおそうかと思ったものの、速度が遅いということなのか後続車がクラクションを鳴らして急かしてくる。ほとほと不愉快な気持ちのまま速度を上げようとした瞬間、速度を上げた後続車が反対車線にはみ出す形で追い越していった。こんなド田舎で何を急ぐことがあるのだろう。

☆山間部を通る。回想でも、雲雀さんの現在の夢主観でも適当に。
 そうこうする内に夢主が目を覚ますが、眠いのか膝に頬杖をついたまま俯きがちで表情は見えない。

「なんで、帰って来たの」
「あなたを連れてこうと思って」

「……どこへ」

☆返答はない。
 それでも五年近くも会いにこなかった幼馴染が未だ自分に関心にあると知って、悪い気はしなかった。並盛を離れるつもりは毛頭ないものの、双方の両親も年老いたことだし、夢主も故郷に腰を落ち着ける流れに持っていくのは容易なことではなかろうか?とぼんやり考える。脳裏に夢主の恋人の存在が浮かんだが、元々夢主は欠陥の多い人間で上手くいかなかったのに違いないと自分を納得させる。そこまで考えて、苦手に思っていたはずの夢主とまた並盛で暮らしたいと望んでいる自分に気付く。

 二人の車が自殺スポットと目される橋に差し掛かる。
 コンビニを出てすぐ追い抜いて行った車は、まだ少し先を走っている。自分たちと同じくした道を通って長野県へ抜けるつもりなのだろう。


「少し、遠回りしてこうか」
「こんなところで遊んでいると、連れてかれるわよ」
 チリンと、どこかで鈴の音がした気がした。
「何に?」
「……足をとられて」

「水を飲んだ頭はぼうっとしてきて」

 と、夢主が雲雀の膝に身を乗り出し、上目遣いに見つめていた。その顔は――顔があるはずの場所は絵具を塗りたくった真っ黒で、表情どころか面立ちさえ伺うことは出来ない。
「川の底に゛ 連れえでがれるの゛」
 生理的嫌悪感に背筋が泡立った。それと同時に、背後から並中校歌が聞こえてくる。バサバサと、ヒバードがケージのなかで暴れているようだった。音程が狂った並中校歌の合間にピイと怯えたような鳴き声が混じる。ぴくと足の小指が動いたのを理解するや否や、雲雀は思いっきりブレーキを踏みぬいた。ゴムがコンクリートの上を横滑りする耳障りな音があたりに響く。少し前を走っていた車のテールランプが凄まじい勢いで遠ざかっていった。
 橋の欄干に食い込んだボンネットを眺めて、雲雀は茫然と背もたれに身をゆだねた。フロントガラスの向こうに、女の姿がある。ぼんやりと雲雀を見つめ返してから、フッと消えた。

(場面転換、軽井沢のロッジ)

☆自損事故の処理をしてから、結局電車で軽井沢まで移動する。
 目的地であるロッジには《夢主》と、彼女の恋人であるディーノが待っていた。

「災難だったな」
「そう思うなら、婚約者の馬鹿げた我儘ぐらい諌めてくれる」
「悪い悪い、俺も久々にお前の顔が見たくなっちまってな」

「恭弥、やっと来たの」
 憤然と出迎える夢主に、雲雀は世にも不愉快そうに顔を歪めた。
「これ、ナミモリーヌのロールケーキ。食べれるか如何かは保証しないけどね」
「だから高速で来てねって言ったのに」
「帰省ラッシュでぎゅうぎゅうになった高速を走るなんて考えるだけで嫌だ。これであなたの“一生のお願い”は五度も叶えてるんだけど、いつ死ぬの? 早くしてくれる」
「下道通って来たって、どのあたりだ?」
 ディーノがテーブルに地図を広げる。
「並盛を出て……八王子で高速から降りて、そこからずっと下道だったから、20号線を真っ直ぐ長野まで突っ切ってきた形になるんじゃないの」
「ああ、じゃあ私が昔住んでたあたりね。あのあたりには、面白い昔話があるのよ」
「自殺スポットの話なら聞き飽きたよ」

「川の底にはとても美しいお屋敷があって、とても寂しがり屋なんですって。だから水辺に近づいた人を連れて帰ろうとするのだけど、何人連れて帰っても屋敷のなかには誰も入れないの。だからその屋敷は永遠に満たされることなく、ずっと川の底でひとを待っているのよ」

「一人で水辺に近づいたらいけないって、よく言われたわ」

☆二人で近所のコンビニにちょっとした食料の買い出しに行く。

「結婚おめでとう」

「昔からあなたは他人のものをとるのが好きだったけど、ここまでとはね」
「ディーノがあなたのものだったなんて知らなかったわ。恭弥、そういう趣味があったのね」

「なんで帰って来たの」

「恭弥、今いくつ?」
「幾ら年増と言えど、そんなことも忘れるなら病院に掛かったら? 二十三だよ」
「そう。私、二十七よ」「あんまり年が違う感じがしないわね」

「ねえ、僕の質問に答えてくれる」
「ディーノ、よそに女がいるの」
「ああ、そう……でも、マフィアでは浮気はご法度のはずじゃなかった」
 雲雀は苛立ちまぎれに吐き捨てた。
「まだ結婚前だもの。それに、大した問題じゃないのよ。私は知らないふり、ディーノはしていないふり。元々あの人は多情だし、よそに女がいるからって私を愛していないわけじゃない」

「それに、私たちは結婚するんですもの」
 勝気に言い放って、挑発的な視線で雲雀を捉える。その口元が皮肉っぽく弧を描いて微笑した。

私は欲しい椅子を手に入れたわ

「あなたはボンゴレの雲の守護者、私はボンゴレの最も強力な同盟相手であるキャバッローネのボスの妻。ボンゴレがある限り、私たちは永遠に顔を突き合わせるのよ」
「……あなたは、」

『あなたを連れてこうと思って』
「あなたには、僕を連れていくことも出来たんじゃないの」

「私はあなたと一夜を共にしたいわけじゃない。あなたと離れたくなかったのよ」

「でも、あなたは“そういう人”ではなかったし、私が素直に『一緒に来て』と言ったところで結局並盛町に帰ったでしょうね。父さんがそうだったわ。馬鹿馬鹿しいと思わない」

「私は私のやり方で、あなたと添い遂げるわ」
 背を向けたまま、夢主はそう絞り出した。

「……《夢主》」

「嘘よ」
「何、本気にしたの?」
 顔を逸らしたまま、終に夢主の表情は伺えなかった。


「はるばる来たのに買い出しありがとな、せめてコーヒーぐらいは俺に淹れさせてくれよ」
「良いけど……馬鹿みたいな失敗する前に大人しくしててくれない」
「ひっでえな相変わらず」
 ディーノが快活に笑って、ぶすっと不愉快そうな雲雀の肩を抱いた。
「私が一緒だから、大丈夫よ」
 かつて大人たちの前でそうだったように、夢主は朗らかに笑っている。何が大丈夫なのかと雲雀が疑問に思う間もなく、ディーノは慣れた手つきでコーヒーを淹れる。ほんの半年前雲雀の前でケトルをぶちまけ、コーヒーの粉まみれになって絨毯に転がっていたのが嘘のようだ。

「夢主、シュガーとミルク一つずつで良かったよな?」
「ええ」軽やかに頷いてから、含みのある視線を雲雀にくれる。「胃に悪いから、ブラックはやめたの」
「ああ、そう」

「……そう、そういうこと」

☆幼い頃、自分の無聊を慰めた絵本や玩具の全てを《夢主》は保管しているだろうと、雲雀は憶測する。夢主が草壁ではなくディーノを選んだのは、実直な草壁を利用されれば相手が夢主であろうと許せなくなると知っていたからだ。
 一見して恵まれている夢主だが、父親は娘のためと田舎に越しておきながら住み慣れた並盛町が忘れられずに雲雀の父親に毎週のように会いに来た。家を留守にすることが多ければ当然夫婦仲が良いはずもなく、夢主は夫婦仲を取り繕うために必死で大人の顔色を読んで“良い子”として振る舞ってきた。夢主にとって、自分より父親と一緒にいる時間が長い雲雀は妬ましい存在だっただろう。じきに父親への思慕が薄れるに従って、雲雀への妬みは雲雀が“円満な家庭で暮らしている”ことへの羨望に変わり、夢主は雲雀に成り変わりたいという気持ちから雲雀の物を欲しがるようになる。夢主にとっての雲雀は“自分が望んだ全て”であり、同時に“自分に手に入らない全て”だったからこそ、雲雀が自 分に恋愛感情を持っていることを察していながら応えようとしなかった。
 幼い頃から他人の顔色を読んで生きて来た夢主は雲雀以外の人間に本心を晒すことは出来ず、また本心から信頼することも出来なくなっていた。夢主は雲雀に固執するあまり雲雀以外の人間に価値を見出せなくなっており、また自分にとって理想であり憧れの存在である“雲雀”を侵すことを避けるために、雲雀を求めることも出来ない。
 夢主にとっての慰めは雲雀の存在や繋がりを感じさせる物品・地位を得ることだけ。
 雲雀の傍にいながら決して雲雀自身を見てくれない。夢主が愛しているのは雲雀ではなく、“誰の顔色も窺うことなく屈託なく愛される子供時代”だったのだと、雲雀は察する。
 それはあたかも水面に映る虚像に恋するドバカのようだ。そう苦笑しながら、そんな女を好きな自分に対する呆れと虚しさが体の奥底から湧き上がってくる。


 川の底には美しい屋敷があって、その黒塗りの立派な門を潜ると紅白の花が咲き乱れて歓待し、青々とした庭草の果てにある厩舎は十分に肥えた家畜に満ちている。
 屋敷のなかで一人無聊を紛らわしている夢主の姿を思い浮かべて、雲雀は目を伏せた。


「鉛の王国」


***


>コンビニで買ったのは一人分のコーヒーだけ
>「単なる幼馴染に過ぎない雲雀に「軽井沢に行きたい」などとふざけたメールを寄越す」「軽井沢についたら『あなたの気まぐれに振り回されるのは二度とごめんだ』と言わねばなるまい」→軽井沢に連れて行ってと言ったわけではない。その場に夢主がいないから、軽井沢に行ってからでないと文句が言えない。
>「……一応連れはいるけど、何か?」→連れ(ヒバード)
>コンビニ脇に停めたバイクに跨ってiPhoneを弄っていた男がきょとんとした風に雲雀を見つめていた→ツレがいるとかいって、一人やんけ!
>《夢主》は目を覚ました様子はなかったが、ブランケットがフロアマットに落ちていた。→誰も座ってないからフロアマットに落ちた

>回想(川)→コンビニで一人分のコーヒーを買う→地元住民に話しかけられる→車に戻ると夢主が助手席に、後部座席にはヒバードのケージがある→話をしながら幾つかの回想→川に落ちそうになる→夢主が消える→軽井沢で夢主とディーノに出迎えられる→夢主と二人でちょっとした買い出し→帰ってきた二人にディーノがコーヒーを淹れる

>夢主と一緒に居る時のディーノは馬鹿げた失敗をしない→ビジネスパートナーという意識が強い

>鉛の王国
 鉛=水に沈む
 王国=誰もいない屋敷を皮肉ったもの

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