鉛の王国


【2】
 恭弥はコンビニ店員から空の紙コップを受け取ると、レジ脇のコーヒーマシーンの前に移動した。並盛町にない系列店だが、様式は同じらしい。

 真珠は五歳年上の幼馴染だ。 並盛町に越してきた真珠が独り立ちするまで、十二年もずっと家族も同然に過ごしてきた。その十二年で真珠は我儘を矯正する機会を得ることなく、五年前、野に放たれてしまった。
 真珠が並盛を出て行った時は心底胸を撫でおろしたものの、数年ぶりに日本に帰ってきたかと思えば実家にも顔を出さず、単なる幼馴染に過ぎない恭弥に「軽井沢に行きたい」などとふざけたメールを寄越すから進歩がない。勝手に行けばいいと返しても譲らなかった。昔からそうだ、恭弥の持つのが簡単に買える量産品でも「これがいい」と言って聞かない。何が一生のお願いだ。ふざけた女だと苛立つが、その有能さは折り紙付きで、我儘を押し通すために手段を選ばなくなっては面倒だ。
 恭弥の両親は息子がごく普通の職に就いたものと思っている。このところめっきり白髪も増えて老けこんだ両親と詰まらない諍いを起こしたくはなかった。
 この帰省ラッシュに何が悲しくて実家のある並盛町を出て、軽井沢に行かなくてはならないのか――そう思いつつ、結局従う形になってしまったのが腹立たしい。

 恭弥はため息を漏らしながら、コーヒーマシーンの隣に並んだ棚からシュガーとミルクを一つずつ取り出した。この山を越えれば長野県。軽井沢についたら「あなたの気まぐれに振り回されるのは二度とごめんだ」と言わねばなるまい。そんなことを考えていると、不意に視線を感じた。

「兄ちゃん、一人?」
 店内に作りつけのフードコートでホットドッグを齧っていた男が、上半身を捩るようにして恭弥に話しかけていた。
「……一応連れはいるけど、何か?」
「ああ、寝ちまったか」
 男は日に灼けた顔をクシャリと歪めて苦笑した。

「このあたりじゃ珍しいなと思ってよ。真夏だってのに、キチッとスーツ着こんで」
「これ以外服がなくてね。それに、このあたりだと夜は寒いぐらいじゃないの」
「そりゃ、オレは慣れてるから。高地でも夏は暑いし、冬は冬で死ぬほど寒い」
 そう冗談めかしてから、男は手の内を明かす。
「この先のS字カーブの真ん中に掛かってる橋からよく見えるんだけど、その川の上流にある橋がちょっとした自殺スポットみたいになっててさ。変わった人がいたら声掛けるようにしてんだ」
「ああ、そう。なるほどね」
「でもツレがいるってなら余計なお世話だったな」
 くしゃりとホットドックの袋を丸めると、男は席を立った。ラフに片手だけ挙げて去っていく様子からも、人の良さがにじみ出ている。
 男が恭弥の脇を抜けると同時に、コーヒーマシーンがビーッビーッと音を立てて、コーヒーが淹れ終わったことを告げる。恭弥はプラスチック製の扉を開けた。

 車に戻ると、真珠が前かがみに頭を垂れるようにして助手席に座っていた。
 体勢から見て、眠っているのだろう。他人に軽井沢くんだりまで車を出させて、いい気なものだ。恭弥は後部座席のドアを開けて、ヒバードのケージの脇にあるブランケットを取り出した。
 運転席に乗り込むと同時に真珠にブランケットを掛けて、車のキーを回す。バックさせるためにあたりを見渡すと、コンビニ脇に停めたバイクに跨ってiPhoneを弄っていた男がきょとんとした風に恭弥を見つめていた。その表情が如何いった理由で引き起こされたものなのか考えるほど、恭弥は他人に興味関心があるわけではない。体面的に軽い会釈を返すと、恭弥は車を出した。
 コンビニから出て左折した途端に後輪が縁石を擦って車体が揺れる。運転免許を取ってから随分経つものの、未だに車よりバイクで行動する機会のほうが多い。運転センスは悪いほうではないと思うが、久びさで腕が鈍っている。恭弥は顰め面で真珠の様子を伺った。
 真珠は目を覚ました様子はなかったが、ブランケットがフロアマットに落ちていた。拾って掛けなおそうかと思ったものの、速度が遅いということなのか後続車がクラクションを鳴らして急かしてくる。苦々しい気持ちのまま速度を上げようとした瞬間、速度を上げた後続車が反対車線にはみ出す形で追い越していった。こんなド田舎で何を急ぐことがあるのだろう。

 眠る真珠を横目で見る。眠っていれば我儘を言い出すおそれがないだけ平和でもあり、退屈でもある。
 十二年間、真珠の悪癖は幾度となく発揮されたが、恭弥は物欲の欠けた子どもだったし、真珠が物欲しげな声音で恭弥の持ち物に触れるのも年に一二度のことだった。それは恭弥に“大したことではない”と思わせるのに十分な頻度であり、余りあるほど真珠の人心掌握能力は恭弥にとって十分有益なものだった。
 何せ母親は真珠を我が子のように可愛がっていて、幼かった息子の協調性のなさを真珠に「恭弥は賢いから。中学に上がれば周囲の精神年齢も上がって馴染むと思うの」と肯定されれば丸きり納得してしまうのだ。
 物心ついた頃にはもう恭弥は同伴者なしで並盛町を歩き回っていたが、必ず「どこへ行くか」そして「何時に帰ってくるか」親に伝えるのが、両親から課された“単独行動を認める条件”だった。中学に上がったときにそれを緩和させたのも真珠だった。

 並盛中のみならず町内全体を牛耳って好き勝手しながらも、家庭内に大した不和もなく済んだのは真珠の存在に因るところが大きかった。どの道大人しく両親の制約を聞き入れる気が毛頭ないといって、少なからず敬意と情のある父母と無暗に揉めたいわけではない。有難いと言えば有難いものの、年を追う毎にそうした真珠の勝手な善意に“癪だ”という気持ちが募る。真珠は恭弥の望むにしろ望まないにしろ、常に恭弥を取り巻く環境を明るいものにしようとした。
 真珠は恭弥が何を好み、求めるのかよくよく知っていた。
 それ故真珠の勝手な善意で不快な目にあったことは一度としてない。便利な存在だ。

 恭弥が子どもでなくなり、やがてふつうの人間よりも遥かに多くの権限を動かせるようになっても、真珠は高価なものや越権した要求をねだったりはしなかった。
 出会った頃から恭弥同様大人びた立ち振舞いだった真珠とは、話していて退屈だと思うこともなく、寧ろ楽しかった。多人数で群れることもしない。真珠の行動には凡そ恭弥の気に障るものはなかった。
 にも拘らず、真珠への得体のしれない苦手意識は長年を経ても拭い去れていない。

 五歳の年の差など、比率を言えば年々縮まっているし、中学に上がる頃にはすっかり年上を恫喝することにも慣れた恭弥には些細なことのはずだが、刷り込みだろうか。本人には口が裂けても言わないが、真珠にはどこか頭が上がらない。もちろん物理的に頭を下げたことはないし、真珠も隷属させようとしたわけではないとわかっているが、伸ばされた手が鬱陶しければいくらでも振り払えるはずなのにそうしなかった。
 思えば物を譲り渡すことは、真珠が有能であり便利であることの対価を払っているようで楽だった。利益を齎し合う関係にあってもそうでなくとも、恩があると感じることは居心地が悪かった。

 山間部は道路の舗装が甘い。揺れに耐えかねたのか真珠が目を覚ますが、眠いのか膝に頬杖をついたまま俯きがちで表情は見えない。退屈まぎれに問う。
「なんで、帰って来たの」
「あなたを連れてこうと思って」
 無機質な声に、こんな喋り方の女だったかとふと思うが、年月は人を変える。
「……どこへ」
 車を運転し連れていってやってるのは恭弥だと文句を言いたくなるが、それでも五年近くも会いにこなかった幼馴染が未だ自分に関心にあると知って、悪い気はしなかった。並盛を離れるつもりは毛頭ないものの、双方の両親も年老いたことだし、真珠も故郷に腰を落ち着くことを勧めるのは容易なことのように思えた。脳裏に真珠の恋人の存在が浮かんだが、元々真珠は欠陥の多い人間なのだから上手くいかなかったのに違いないと自分を納得させる。そこまで考えて、苦手に思っていたはずの真珠とまた並盛で暮らしたいと望んでいる自分に気付く。

 二人の車が自殺スポットと目される橋に差し掛かる。
 コンビニを出てすぐ追い抜いて行った車は、まだ少し先を走っている。自分たちと同じく下道を通って長野県へ抜けるつもりなのだろう。
「少し、遠回りしてこうか」
 このまま話をしたい気分だった。思えば五年の空白があるのだから、話し足りないのも当然だ。しかし真珠は味気なく答える。
「こんなところで遊んでいると、連れてかれるわよ」
 チリンと、どこかで鈴の音がした気がした。
「何に?」
「……足をとられて」
 急に車内の空調が壊れたような寒気がする。夜というには早過ぎる。ドライアイスでも敷いたかのような急速な冷え方だ。
「水を飲んだ頭はぼうっとしてきて」
 と、真珠が恭弥の膝に身を乗り出し、上目遣いに見つめていた。その顔は――顔があるはずの場所は絵具を塗りたくった真っ黒で、表情どころか面立ちさえ伺うことは出来ない。
「川の底に゙ 連れえでがれるの゙」
 生理的嫌悪感に背筋が粟立った。それと同時に、背後から並中校歌が聞こえてくる。バサバサと、ヒバードがケージのなかで暴れているようだった。音程が狂った並中校歌の合間にピイと怯えたような鳴き声が混じる。ぴくと足の小指が動いたのを理解するや否や、恭弥は思いっきりブレーキを踏みぬいた。ゴムがコンクリートの上を横滑りする耳障りな音があたりに響く。少し前を走っていた車のテールランプが凄まじい勢いで遠ざかっていった。
 橋の欄干に食い込んだボンネットを眺めて、恭弥は茫然と背もたれに身をゆだねた。フロントガラスの向こうに、女の姿がある。ぼんやりと恭弥を見つめ返してから、フッと消えた。

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