婿入り鼠と恩返しの鶴1.



イワン・カレリンにとって恋とは薄暗い憧れだった。
幼稚園の先生。隣の家のお姉さん。同じクラスのマドンナ。
初恋の延長として高嶺の花に焦がれては積極的に話しかけるわけでもなく遠巻きに眺めて、やりすごすだけの感情、だった。

――そのときまでは。

* * *


くだらないことで悩んで時間ギリギリになってしまったことを、イワンは後悔した。
全力で走ってきて、息を整えながら待ち合わせ場所を見渡していると、背後から声をかけられた。鈴の鳴るような、声。

「”手裏剣”さん、ですか?」

びくっと肩を揺らし、振り返る。
”手裏剣(SHURIKEN)”というのはイワンがSNS『WANIA-和ニア-』で使っているハンドルネームだ。オリエンタル文化に魅せられた者の集うネット空間であり、折紙サイクロンとして書いているブログとは完全に切り離して、ただの一オタクとして参加している。今日はそのオフ会なのだ。

「はじめまして、"折り鶴"こと藤森真珠ですわ」

その人は大和撫子を体現しているような振袖姿で、淑やかに微笑んだ。
瞳は菖蒲、肌は雪、髪は烏の濡羽色。まるで理想から抜け出てきたような女の子だった。
一瞬見とれてしまったことに気づき、慌てて返事を返す。

「はっ、はじめまして! "手裏剣"ことイワン・カレリン、です……」

“折り鶴(ORIZURU)”たる彼女も和ニアの一員で、イワン同様ステレオタイプな和文化のマニアであり、また、ハンドルネームに”折”の字を取り入れていることからもわかるとおり、折紙サイクロンのコアなファンである。
そのことが、親しくなったきっかけだった。

初めてメッセージのやりとりをしたのは折り鶴の着物コレクションの写真が見事だとコメントしたのがきっかけだった。
折紙サイクロンのファンだと聞いたときは純粋に嬉しくて、HERO TVの感想を語るのを聞いていた。
良好な反応が返ってきたことで折り鶴は語る相手を得たとばかりに白熱した。
彼女は細やかなメディア露出まで網羅しており、指摘も的を射ていていた。
イワンが折紙サイクロン本人なのだから、詳しさではひけをとらず、知識としては応えることができる。
今更本人だとも言い出せず、手裏剣もまた折紙サイクロンのコアなファン、同志であるとして認識されたのだ。
熱心に応援してくれる存在から日々の活躍や見切れ方について感想・講評を聞くのが楽しみになっていた。

そんな折り鶴がファンイベントのチケットが取れなかったと嘆いていれば、
取れたけど行けなくなったと言い訳して席を融通することくらい許されるだろう。
そんなことが何度かあり、お返しにと折り鶴が二席取れたイベントに誘われたこともあるが、折紙サイクロン本人であるイワンがファンイベントを観覧できるはずもなく、スケジュールの都合と断っていた。

『お忙しいのはわかりましたけど、空いている日は無いのでしょうか?
イベントの日じゃなくとも、何かお礼がしたいんです。していただくばかりでは私の気が済みません。
行きつけの和食のお店があるので今度ご一緒しませんか?
近くにマニアックな日本グッズを扱う骨董屋さんもありますし、少し歩けば銭湯も……。手裏剣さんが好きそうな……。ほら、前に行きたいと仰っていたでしょう?』

行きたい、と思った。
折り鶴に一度会ってみたかったのはたしかで、直接和文化の熱さについて直接語り合ってみたかった。連れていきたい場所もたくさん思い浮かんだ。

『日程は手裏剣さんに合わせます。
時間が短くても、一度会って話してみたかったんです。
それともご迷惑でしょうか……』

そうまで食い下がられれば、断るわけにもいかない。
せっかく仲良くなれたのに勘違いだったのかと落ち込まれると、それは違うと声を大にしたい。

オフ会が決まった直後はどこに行って何を話すか考えるのが楽しくて楽しみで、段取りを考えるために夜更けまでネットの海を彷徨っていたのだが、当日が近づくにつれて顔色が悪くなった。

イワン・カレリンは元来内向的な男だ。
HEROとして折紙サイクロンというキャラクターで活躍している間は成りきって高いテンションを保っているが、
ヒーロースーツを脱げば、ただの根暗オタクに戻る。
何年も一緒に活動している仲間でも二人きりになると緊張するというのに初対面、しかも女性と二人きりで出かけるなんてデートということになるのではないだろうか。
いわゆるネット弁慶で、画面に向かって文字のやりとりなら気楽だが、直接会うとなるとまともに会話できる気がしない。
風貌や目付きの悪さで誤解されたことは数え切れないし、向こうから言い寄ってきた女性にもうまく反応を返せず「イメージと違う」と切り捨てられたことも一度や二度ではない。
こんな自分がオフ会なんてできるのだろうか、と。

前日から今朝にかけて不安が頂点に達し、緊張とネガティブで死にそうなほどだった。
よっぽどドタキャンしようかと悩んだのだが、すでに仕事の忙しさにより日程調整では散々迷惑をかけている。
徐々に約束の時間が近づき、待たせるわけにもいかないと、急いで支度して駆けてきたのだ。

「すみません、僕こんな格好で」

普段どおりのスカジャンで来てしまったことを悔いる。
真珠は見事な振り袖姿に手の込んだ髪型で、和ニアのオフ会にふさわしいと思った。
隣に並んでも不自然でないように、袴でも着てくればよかった。
服装についても、ちゃんとしたものを着て行こうか、張り切りすぎても痛々しいだろうか等々、余計なことを悩みすぎて堂々巡りし、結局時間がなくなったこともあって着慣れた普段着にしたのだった。

「気にしないでください、私はいつもこんな格好ですから」

着物コレクターは伊達ではないようだ。
草履でも歩き慣れているようだし、振る舞いも板について似合っている。

「手裏剣さんもいつもどおりのござる口調でいいんですよ?  折紙サイクロンと話してるみたいで好きなんです」
「いや、ええと……」

文章と実際に喋るのは違う。
普段、ヒーロースーツを着ていないときにあの口調になることはない。
それに折紙サイクロンのように喋ると声で本人だとわかってしまうのではないだろうか。

その躊躇いをどう解釈したのか、真珠は
「ネットとリアルは違いますものね……」と、さみしそうな顔をした。
早速悲しませてしまい、イワンはますます自己嫌悪に襲われる。

「イワンさんとお呼びしたほうが? それともカレリンさん、でしょうか」

少し距離を取るような言葉に、
あなたを遠ざけたいわけじゃないのだと叫びたくなる。

「イワン、で……」

せめて二択のうち、距離の近い方を選んだ。
この時点で折り鶴が不機嫌そうでないことが奇跡のように思える。なんて心が広いのか、それに比べて……とまた暗い荷が増える。

「ではイワンさん。私のことは真珠とお呼びください」
「真珠さん……」

今こそ渡すタイミングかもしれない。
ミニブーケを昨日のうちに買っておいて、そしてちゃんと持ってきてよかった。
デートなら女の子に花を贈るものだろう。
花の色もちょうど彼女の着物に合っている。

「あの、これ、どうぞ」
「まあ花束……! ありがとうございます。男の人に花を貰うのなんて初めてです。なんだか照れますわ。手裏剣さんが同じくらいの歳の、こんな美男子だったなんて意外です。もっと渋い方かと思っていましたの」

普段は散々「年の割に爺臭い」だの「日本かぶれ」だのと言われているので、正反対の評価に戸惑う。
和ニアのオフ会なのだから、同じ花でも椿か牡丹、それとも簪(かんざし)でも贈ったほうがよかったかもしれない。
簪を贈って普段使いしてくれそうな知人が希少な存在だ。

「僕も、折り鶴さんが、その……日系人だとは思わなかったです」

“こんなに可愛らしい人だとは思わなかった。”
そんなふうにまっすぐ言える自分であればよかったのに、とイワンは思う。

折り鶴が日本人だと思っていなかった というのも嘘ではない。
自分と同じように、白人の和文化ファンだと思っていた。

「日本やオリエンタルタウンに住んだことはないんですけどね。祖母が日本人なんです」

目も髪も黒く、その姿や振る舞いは堂に入っており、本場という感じがする。
それに年上だと思っていたが、顔立ちや背丈からして、同年代か年下だろう。

「ふふっ、来てくださっただけでも嬉しいのに、頂き物まで。
正直、手裏剣さん……イワンさんは乗り気じゃないのだと思っていました。
来られないようなことを仰っていたので、予定が駄目になることも覚悟していましたから」
「心配かけて、すみません」
「いいんですよ。今日は楽しみましょうね」

小さなブーケを大事そうに胸に受け止めるこのひとに、まっすぐ向き合えるようになれたらいいと思う。


 main 
- ナノ -