香らぬ残滓


夕闇の中で一番星が瞬き、表には松明が焚かれる。
入り口の飾りが鳴って、天幕へ入ってきたのは馴染みの客だ。

「ジャーファルさん! お久しぶりです」
「今日の予約は空いてますか?」
「ええ。さっき最後の人が終わりましたから、この後はずっといいですよ」

ずっと贔屓にしてもらっているお客さんなので、特別待遇だ。店を閉め、貸し切りにする。

「ではいつもの、お願いします」

快諾して、奥の台座へ招く。ジャーファルさんの「いつもの」はオプションを全部付けたフルコースだ。
若く優秀な政務官の貴重な休日の楽しみ方がこれでいいのかと聞かれると甚だ疑問だけれど、この方、働きすぎで普段全身が鉛のようになっているので、もっと頻繁に通ってほしいくらいだ。
布とお湯の準備をしている間に、ジャーファルさんは上衣を抜いで台に座っていた。
素敵な背中。彼にここまで薄着になってもらうのには苦労したなぁ。
服を着ていると華奢に見えるのに、弛みない。疲れが溜まっていても、姿勢はいい。

「最初はうつ伏せでお願いします」

その背を押し上げるように指を這わせる。
感嘆のような呻きが漏れるのを微笑んで聞く。
暗く鍛えられたこの背中に触れることを許されるなんて、なんとも光栄なことだ。
掌の温度で溜まった疲れを溶かすように、凝り固まった筋肉に指を埋める。
骨格に歪みがないので肩が凝りにくい体質なはずだが、それを上回る過労ぶりが伝わってくる。

「ジャーファルさんは、明日はお休みで?」

話しかけると、夢心地の声で、ええ、と頷かれる。
じゃあ今晩はここで過ごしてもかまわないのだろう。
トロトロに気が抜けて熟睡してしまうくらい、全力で癒してもかまわないということだ。

温めた石の板を脚の下に敷く。
リラックス効果のある香油を使いたいところだけど、匂いの強いものは好まないそうで、香も焚くことができない。
汗の臭いも極端に薄い人だ。匂いが移った分も後で清めるのだろう。それが習慣だというなら逆らわない。

リラクゼーションは正解探しだ。
的確な場所を、的確な方法で、強さで、方向で、刺激する。
押した感触・骨や筋肉の付き方・相手の反応を材料に、知恵の輪を解く。
五本の指に神経を通わせて余さず使い、解き明かされることを待っている身体の鎧を、浅瀬から丁寧に一枚一枚剥いでいくのだ。
痛みは身を強張らせるから、あくまでも心地よく。繊細な力加減が要求される。

戦闘訓練で動の筋肉を使うことと、日常で静の筋肉を酷使することはまったく別のことだ。
椅子に座り、両手を机の上に置いて作業する。これだけで、自然体ときよりも肩は持ち上がり、力が入る。その上文字を書いたり本を手に持って読んだりそれが長時間続けば、相当な負担を強いられる。動かなければ血も巡りにくく、重力で下へ下へと溜まり、滞る。

ジャーファルさんの肩は、凝りが深層筋にまで達し、芯まで固い。
薄い背中は鉄板のような堅さになっている。
腕の付け根を征服すれば、圧倒的な肩の軽さを感じるだろうし、稼働域も広がる。
首周りの血行がよくなれば、頭痛も消える。

最初は刺激するというよりも、温めて血行を良くし、全体をほぐす。
徐々に凝りに指が入る綻びが見えてきたら、ツボを刺激し始める。

力任せではなく、押す感覚としては浅く指を固定。だけど、凍えた筋肉の氷が溶けて神経が通う感覚は、場所によっては、ビリビリと電撃が流れるほどの衝撃があるはずだ。
……実際に電気治療を行えたらそれもよいのだけど、この時代では無理だからしかたない。

肩甲骨、腕の付け根、二の腕、掌、指先、指の付け根。
――手首のあたりは「触られたくないゾーン」なので、触れない。彼が警戒するから。
背中、腰、臀部、太腿、ふくらはぎ、足裏。

贅肉のない、腰の細さには毎回驚く。このアンバランスさが原因の一つでもあるのだろう。
腰、は、立っていても座っていても上半身の自重を一身に受けている。
背骨の隣に手を置き、外側に向けて、掌底で押し広げる。

椅子に座り続けていることで、臀部を軸した下半身の血行は滞り、筋肉も強張らせる。
だから押すだけで、あられもない声を上げたくなるくらい、外せないポイントだ。
触れて押すとき、同世代の異性、とは意識しない。これはビジネス。施術台に載ったからには、老若男女関係なく、ヒトであり、私の患者だ。
ジャーファルさんだって私のことを信頼して任せてくれているのだ。
いや、ほんとうに、老人顔負けだ。

足の裏は臓器と直結している。
初めて彼に施術したとき、あまりに内臓がボロボロのようで驚いた覚えがある。
食が細く、お酒も勧められなければ飲まない人なのに、と。
散々心配したけれど、今は、寝不足と過労以外の問題は少しずつ解消しているようでよかった。

安堵しきって身も心も投げ出しているような吐息を聞く。
プライドも政務官としての仮面も全部脱いで、心地よさに身を委ねてくれているかな。
不落の城を攻略しているような征服感に笑みを隠せない。
この時間をどう使うかすべて任されているのだ。
私の持てる技術のすべてでこの人を癒したい。
幸福に笑うような、くすぐったがるささやきにときめきを隠せない。

リンパを刺激し、流れを促進することで老廃物を排出させていく。
こちらは押すよりもさすることがメインになる。

しばらくすると話しかけても返事がなく、静かになった。
寝息は耳を寄せないと聞こえないほど小さく、死んだように眠る人だ。
施術中に眠りに落ちるようになったのも気を許された証拠だから、
起こさないように、心地よい刺激を心がける。

休憩に水を飲み、続きを行う。
身体が冷えないようにもう一枚布をかける。

しばらくすると目が覚めたようなので、仰向けになってもらう。
頭を抱き上げるようにして、首と後頭部に触れていく。いわゆる、ヘッドマッサージ
首周りにも、仰向けでは触りにくかった角度から触れる。

五回目に時計の砂が落ちきると、終了の時間だ。
名残惜しい気がしつつ、最後に台座に腰掛けてもらい、軽く肩を叩く。


「お疲れ様です」
「ありがとうございました」

ジャーファルさんはぼーっとした様子で立ち上がったが、水を一杯飲み、身支度を整える頃には、肩が回る! 身体が軽い! 頭痛が消えた!とお喜びの様子だ。
無駄な引き攣りがなくなって姿勢も自然体になった。

「今日はもう一つお願いがありまして」
「はい、なんでしょう」

財布袋から貨幣を支払い、ジャーファルさんは私を見据えた。
他のお客さんを紹介されるにしても、出張を依頼されるにしても、彼によるものなら悪い話じゃないはずだと思って、微笑む。

「私の愛人になってほしいんです」
「ーーは?」

ジャーファルさんは毒気の抜けた、ツヤツヤした笑顔で宣った。
なんて色気のない口説き文句だろう、とぼんやり思う。
こんな徹底した友人関係の上では、舞い上がるほうが無理だった。

「……詳しく説明して頂けますか」

話を聞いてみると、ようするに、上司に女性を紹介されるのが煩わしいので、愛人がいるということにしたいらしい。ジャーファルさんに女っ気がないので心配して世話を焼かれるのだとか。
上司って、この国の王だよねぇ? 彼は八人将の一人なのだから。ここでは仕事のことは忘れてほしいので話題には出さないが、国民なら誰でも知っている。
ジャーファルさんの女性人気は知っているし、そろそろ適齢だと思うので、実に勿体無いことだと思うけれど、さすがに私が言うのは余計なお節介だろう。
本人がいらないと言っているのに押し付けてもしょうがない。
幸い私は噂が立っても困るようなことはない。友人としての、古馴染を見込んでの、頼み。

「いいですよ、私でよければ」
「よかった、では今度王に会ってくださいますね」
「えっ」



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