トーミュ



愛することとはほとんど信じることである。(ユゴー)


目を閉じて呼吸を繰り返す。肉体の回復を妨げないよう、予備動作は一切行わない。体感時間にして一か月(地上の時間に置き換えて計測すればの話だが)ネウロの肉体はこの状態を維持している。

目を開く。見知った天井と電球。背にはよく知るソファの革の感触。殊更ゆっくりと右腕を伸ばし、はめたままの革手袋を曲げ伸ばしして状態を確認する。まだ平常通りに動き回る段階にはないと判断し、身を起こすことはしない。代わりに首を動かし、周囲の様子を確認する。反対側のソファに投げ出したままの上着と、壁際の見慣れたホワイトボード。だが、ここに忠実な秘書はいない。目を凝らしても、美しい三つ編みが紅茶を入れている姿を見ることはできない。

視線を移す。トロイと、その上に置かれたノートパソコン。最後に見たときと寸分違わない位置だ。当然だろう。ネウロの脳は一度見たものを決して忘れない。

頬に触れ、自分が人間に擬態した姿を維持していることを知る。手袋越しの感触は、くちばしのかたく冷たいそれではなく、皮膚の柔らかなそれだった。本来の姿に戻った方が楽であることは理解しているが、戻りたいとは思わない。このままでいい。

目を閉じる。することもないので、取りとめもなく脳裏に浮かぶ映像を捕えてはつなぎ合わせようと試みた。分かっている。どの道、浮かんでくるのは化け物じみた食欲をした華奢な少女の姿なのだ。地上に残してきた、ヤコの。

足りない、足りない、足りない。

欲しいものはすべて手に入れてきた。ネウロにはそれができるだけの頭脳と、力があった。魔界の謎を喰いつくし、それでも足りずに地上へと降りた。降りた地上で少女と出会った。無力に泣いていた少女は、ネウロのもとで少しずつ成長し、ついには胸を張ってネウロを送り出した。


地上に戻ったとき、そこに弥子がいない可能性を恐れていた。

二つの世界の時空は一定ではない。こちらの世界の一秒が、あちらの世界の十年になる可能性もある。逆ならばいい。何百年が経とうと魔人の体は問題にしない。だが、人間の寿命はとても短いのだ。一度戻って再び地上に帰ったとき、そこに弥子がいてくれるとは限らない。

その不安を口に出した時、笑ってネウロを馬鹿だと言ったのは弥子だった。待っていると言った。帰って来いと言った。それができると、必ず会えると信じているからこそ弥子は笑ったのだ。


目を閉じる。少しでも早く、少しでも多くの力を取り戻してネウロのいるべき世界へと戻るために。

地上に戻ったとき、弥子がどれほど歳を重ねているかは分からない。まったく変わらないのなら僥倖だが、恐らくそれはないだろう。不完全な状態で地上に帰っても本末転倒だが、ひと月たっても肉体は完全に回復しない。状態を鑑みると、すぐには地上に戻れそうにもない。待っている弥子に恋人ができている可能性もある。

隠しきれない焦燥感が、じりじりと身を焦がす。

会えると信じている。だがそれとは全く違う部分で、恐れる感情を抑えられない。どうしようもない焦燥感が、脳髄を支配している。足りない。傍にいないことがこれほど苦痛を生むとは思ってもいなかった。

分かっている。この空間が馴染んだ事務所と同じ姿をしているのは、ネウロの無意識がそこに戻ることを望んでいるからだ。魔界は住むものによってその姿を変える。無意識のうちに望みが投影されているのだろう。

だが、見知った場所に身を置いてもネウロの心は充足しない。むしろどうしようもない寒々しさを感じている。決定的なもの、ネウロが最も欲しいと望むものが、ここにはないからだ。かつてはどんな人間の恋人たちよりも近くにいたというのに。今は触れることはおろか、声を聞くこともできない。

目を閉じたまま呼吸を繰り返す。
肉体の回復を早く、ほんの一瞬でも早く。

今は、弥子の傍にはいられない。どれほど欲しいと願っても言葉さえ届かない。だが、戻ったときには容赦しない。もしも恋人ができていたら、必ず別れさせてやる。弥子の過去も現在も未来も全てネウロのものなのだと解らせてやろう。

炎のように身を焦がす、どうしようもない焦りと苛立ち。
脳髄の空腹とは種類を異にする、その正体など当に知っている。欲しくてたまらないのは、空腹を満たす“謎”と、そして。







あとがき

Tómur……「空っぽ」

以前携帯に書きなぐってたジャンクに手を入れてみました。
ごくごく短い落書きですが。
たまには弥子ちゃんを好きで好きでたまらないネウロを書きたかった!

コウヤ




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