マリンスノウ


 身体が沈む。深い海の底へ……ゆっくりと、ゆっくりと沈んでいく。孤独の海へと放り出され、青から黒、次第に景色はどんどん闇に包まれていく。あぁ、このまま俺は溺れてしまうのだろうか。這い上がる事もできずに、ただじっと、動けないまま、沈んでいく身体に身を任せて。
 どうせ堕ちるなら、このまま朽ち果てて深海魚のエサにでもなってしまえばいい。

  こんなときに限って、浮かんでくるのはあいつの顔ばかりだ。
 あいつの無邪気に笑う顔。ゲームに勝った得意気な顔。名前を呼んだときに見せる怒った顔。不貞腐れた顔。拗ねた顔。
 ――その顔が俺だけのものではなくなったのはいつからだ?
 
 八田美咲は俺の世界のすべてだった。
 同じように、お前の世界にも俺しか居なかった……俺とお前の世界はいつだって二人きりで、それ以外の者は誰も存在しない。
 小さくて、ちっぽけで、狭い――それでも嫌いじゃなかった。
 空気のように当たり前に、お前は俺の隣に居て、それはこれからもずっと続くものだと、あの頃の俺は信じて疑わなかった。
……お前の世界が俺以外を映し出す前までは。








 俺にとって美咲は、そこに居ることが当たり前な、空気のような存在で、お前を失った俺は、息が苦しくて仕方がないんだ。
 今までどうやって息を吸っていたっけ、どうやってお前と会話をしていたっけ、どんな目でお前を見つめていたっけ、当たり前だったはずのことが、手の平を返したように、急に分からなくなる。
 こうしている間にも、身体はゆっくり、ゆっくり沈んでいく。闇はどこまでも深くなる。いったい、どれだけ沈んだか、それすらも分からない。そして、やがて感覚は鈍っていく。何も聴こえない。目を閉じているのかさえも分からない。あぁ、俺はいったい何処に向かっているのだろう。急に押し寄せる不安。それに同調するように恐怖が心を支配していく。
 このまま沈み続けて、本当に俺は溺れてしまうのか?  
 そんなのは嫌だ。だって俺は、まだお前に――

 精一杯の力を体中に込めて、藻掻く。じたばたと手足をばたつかせて、馬鹿みたいに必死で藻掻く。死にたくない。死にたくない。どうせ死んでしまうなら俺は――




「なぁ、猿。吠舞羅って知ってっか?」
 美咲の声が、頭の中で響く。その言葉に胸が締め付けられるように苦しくなる。
 ――行くなよ、美咲。
「オレ、そこに入ろうと思ってさ。どうだ、猿。オマエも一緒に入んねぇか?」
 体中の傷を抉るようにして、ナイフのような言葉は鋭くあちこちに突き刺さる。
 ――なぁ、聞けよ美咲。そっちは駄目だ。
 触れようと手を伸ばせば虚しく指先をすり抜けて、美咲の像は消えてしまう。
「すげえっす、尊さんッ!」
 ――なぁ、美咲。
 そしてその笑顔は、もう俺に向けられることはなくなった。
「やっぱ、尊さんはすげえや!」
 ――こっち見ろよ。
 その表情もその声もその視線も、全部、ぜんぶ、もう俺だけのものではなくなった。お前の世界は俺だけではなくなった。
 お前の世界から俺が消えていく。お前がどんどん遠くなる。
「……尊さんッ!」
 ――俺を見ろよ、美咲。
 伸ばした手は、もう触れることさえ出来ない。届くことさえ、もう叶わない。気づけばこんなにもお前と俺は離れてしまった。
 このまま時間を巻き戻せたら。あの人と美咲が出会わなければ、そしたら何かが変わっていたのだろうか。ふいに、そんなことを考える。考えて馬鹿らしくなる。

 孤独の海の中で、暗闇の淵で、ひたすら沈む身体を拒もうと藻掻き続ける。藻掻けば藻掻くほど、景色は絶望に染まっていく。走馬灯のように、色々な残像が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返し、現実と幻想の狭間へ堕ちて行く。


 あの人の名前を呼んで、ヘラヘラだらしない笑みを浮かべるお前を見ると、腹の真ん中の辺りがじりじりと疼くような、妙な感じがした。お前が、あの人の名前を呼ぶだけで、嬉しそうに目を輝かせて、まるで自分のことのように得意気にあの人の自慢話をするだけで、俺の心は決まってざわついた。それが一体、なんなのか。ずっと知らないふりをしてきた。と言うよりも、知るのが怖かった。
 ――俺は、お前のそのヘラヘラとした笑顔が嫌いだった。


 あの人と出会って、お前の世界は変わった。二人だけのちっぽけな世界は、吠舞羅という大きな世界になった。だけれど、俺の世界は変わらなかった。いつまでたっても、俺の世界には、ただ一人、美咲しか存在しなかった。他のものなんて必要ない。他のものなんて何もいらない。俺は美咲が居ればそれでいい。昔も今も、その思いだけはずっと変わらない。
 だから、美咲。お前も俺を見てればいいんだよ。
 ……俺はただ、お前の世界が広がっていくことが許せない。お前の世界に居るのは俺だけでいい。

「こんな世界、ぶっ壊れちまえばいいのにな」
 そんなふうに、幼稚染みた馬鹿げたことを平気で言ってみせる。お前の横顔が好きだった。
「そうだな」
 それに短い相槌を打つのが好きだった。
 何でもない退屈な日常。刺激なんて何もなくていい。

 狭いバスの中、小さな世界の中で二人閉じこもって、その世界をイヤホンのLとRで塞いで、逃げ道を閉じ込めて、そうすることで俺は満たされていた。
 あの頃のお前は……あの頃の俺たちは、もう戻ってこないのか? 俺はあの頃のまま、ずっと変わらずに燻っているのに、お前はいつの間にか遠くに居て、手を伸ばしても、もう届かない。



 世界は今、断ち切られて、藻掻いた身体はやがて絡まり、絶望に染まっていく。愚かな俺は、深海から逃げる術を見失ってしまった――昔の記憶なんて思い出したくもないんだ。
 俺がちゃんと、美咲の目を見ていられたら……離れていく背中を掴んでいたら、何かが変わっていたって言うのか? そんなはずがないだろう。どう足掻いたって待っているのは絶望だけだ。
一度乱れたリズムは、もう元には戻らない。


 誰も居ない深海の闇は、記憶だけを残して、俺の中からすべてを奪い去っていく。
 お前は変わって行くのに、俺はずっと変わらないままだ。狭い世界の中で一人燻っている。

 八田美咲は俺の唯一の光だった。
 手を伸ばせばすぐ傍に光はあったはずなのに、
 今はもう手を伸ばしても、その光には届かない。
 お前を失って、俺の世界は、また一人きりの何もない暗闇に戻ってきてしまった。



「テメー、今なんつった!」
「聞こえなかったのか? 俺はセプター4に入ったんだ」
 手を伸ばせば届く距離だったはずなのに、光へはもう届かない。 ……手を伸ばすには、もう遅すぎる。手を伸ばすには、もう離れすぎてしまった。
「これは、この徴は俺たちの誇りだろうが!」
 違う。違うよ美咲。俺はそんなもの、どうでもいい。俺はそんなものに興味はない。こんなもの、いらない。この徴は、俺の世界から美咲を奪った。
「これを胸に刻んでいるくせに、どうしてお前は」
 これを胸に刻んでいることにいったい何の意味があるんだよ。誇り? なんだそれ。お前の誇りは、こんなくだらねぇものだったのかよ! そうか。そうだよなあ。お前の考えることなんてだいたい予想がつく。つまり、お前の言いたいのは、あの馬鹿馬鹿しくて聞いただけでも虫唾が走るあの言葉、だろ?
 『仲間』――その言葉に果たして、何の意味がある? お前はどうしてそれにこだわる? 俺にはさっぱりわからない。理解しようとも思わない。なぁ、仲間ってなんだ、美咲。それはそんなに大事なものなのか? 俺は吠舞羅の連中(あいつら)とは違う。お前がいつもいつも固執するその単語に、俺はもう、うんざりなんだよ! だからこそ俺は、俺は吠舞羅を――
「誇り? あぁあ、お前の言う誇りが潰れちゃったなあ」
 吠舞羅の力で、吠舞羅の誇りを穢した。
 そのときの美咲の呆然とした顔は脳裏にこびりついて離れない。
 思い出すだけでも、たまらなくゾクゾクして、心臓がうるさい。
 
 俺を心の底から憎めよ、美咲。
 大嫌いだ……俺はお前が大嫌いだよ美咲。俺はお前が心の底から憎い。だからこそ、お前も俺を憎むべきだ。


 お前の見るべきなのは『仲間』じゃない。お前の憧れる周防尊でもない。お前の見るべきなのは――この俺だ! 
 お前の敵である、この俺だ! 






 笑みを浮かべたその刹那、再び意識は深海の底へ引き摺り下ろされる。身体は相変わらず沈み続けている。おいおい、まだまだこれからだろう? 一番愉しいのはこの後からじゃないか。
 こんな最期は望みじゃない。だって俺には唯一の願いがあったのだから。これからがいいところじゃないか! どうして、肝心なところで引き戻されちまうんだよ。苛立ちを隠せない。
 きっとこの命も、もうすぐ尽きるだろう。まだ微かに残っていた本能がそう告げている。深海の奥底へ沈んでいく。空はどんどん遠ざかって、気づけば闇しか見えなくなっていた。目を閉じているのか開いているのかさえ分からない、暗い海の底は、お前の鋭く吠える声さえも遮って、俺はもう、お前を感じることすらできない。





 なぁ、美咲……俺を憎んでくれよ。
 お前の大事な誇りが穢されて、悔しくないのかよ、美咲。

 それでも身体は沈み続ける。息が苦しい……朦朧とする意識の中で、それでも俺は、お前を求め続ける。お前の憎しみを、お前の鋭い眼光を、俺は……この目で感じ取ることのできないまま、朽ち果てて行くのか?

 必死で手を伸ばす。落ちてゆく身体に、必死で抗おうとする。

 嫌だ、嫌だよ、美咲。置いていかないで――
 俺を、ひとりにしないで――
 暗闇の中でひとりぼっちなのは、もう嫌だ。
 


 
 なぁ、美咲。俺を殺してくれよ。
 俺は……俺はね、お前に殺されることが一番の望みなんだ。

 お前のその手で、この息の根を止めてくれよ。
 ――美咲。
 身体がただ、沈んでいく。涙も、叫びも深海がさらっていく。







「猿比古」

 ふと、深海の彼方から、その向こうに広がる青空から、懐かしい声が、俺の名前を呼ぶのを感じた。
 これは幻聴か、それとも…… 



image song マリンスノウ/スキマスイッチ



「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -