舌に蜂蜜
人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わねば危険である。そういう名言を残したのは、私がうんと昔にいた世界の偉人である、芥川龍之介。
私の人生がマッチだとしたら、お隣には爆弾があるようなものだと思う。つまり火をつけようものなら導火線に燃え移って爆破オチで人生が終幕してしまいそうってこと。重大に扱うのはばかばかしいなんて台詞、とてもじゃないけど言えない。私は常に細心の注意を払いながら生きていなくてはならないのです。



昔の夢を見た。あれは、前世っていうのだろうか。とても幸福な世界の中で、安全で確固たる私の居場所が存在した。お父さんとお母さんの遺伝子を半分ずつ受け継いだ娘である私という存在。生年月日と戸籍がきちんと整備されて、私が生まれ育った軌跡があった。それじゃあ、今は?

「なまえ、」

低温に連ねられる私の名前に意識を引っ張られる。幻想の世界があっさりと白くぼやけて、どんどん視界がクリアになっていく。龍之介の顔が近くにあって、ほんの少しの驚きに目を瞬かせると目尻から熱い涙が落ちて、そのまま頬を滑った。硬めの黒い革張りのソファ、緩くカーブする肘置きの上に手をついていつの間にか傾いでいた上体を持ち上げるともう一筋、雫がこぼれる。ああ、なんてこと。懐かしい夢だったとはいえ、泣いてしまうなんてまるで子供だ。肌を急速にピリピリと乾燥させていく涙の跡をぬぐおうとしたら、なぜ、という無機質な声と一緒に龍之介の指先が私のよりも先に塩辛い涙を持ち上げて、払っていく。骨ばった冷たい指が頬に触れる直前、反射的に肩を縮こめて体を固くすると、どうしてだか彼の表情が苦しそうに歪んだ気がした。

「?」
「いいえ・・・なまえ、土産だ。」
「・・・!・・・、『ありがとう、嬉しい。』」

みやげ、と言われて古びた小説を渡された。手垢や薄茶色の染みで少し汚れてはいるけれど、装丁され直された表紙やどこも破れていないページはそれがとっても大切にされてきた歴史を私に伝えてくれる。あんまり家にいない龍之介に代わって私にたくさんのことを語り掛けてくれるのはもっぱら書籍ばかりだ。知ってる本を繰り返して読むのも好きだけど、やっぱり新しい本を読むのはとっても面白くてわくわくするからもっと好き。ポケットに仕舞ってある四角いメモとペンを取り出して素直に龍之介にありがとうを伝えると彼の表情も緩和していく。ここ最近は怒った龍之介に噛みつかれることもなく、比較的穏やかな日々を過ごせている。

『龍之介は、もう読んだの?』
「ええ、古書は好きなので。それに、あなたが僕にくれたものを劣らせるわけにはいかぬ。」
「?」
「文字を読み書きする技能のこと。」
「、」

そうだっ、け。小さい時、彼に教えたことがあった。地面の上の土埃をノートに、木の棒と人差し指を鉛筆代わりにしての青空教室。というか、家庭教師。私の居た世界の文字とこの世界の文字は大変似ていて、だというのに教育制度や社会体制は全く違うものだから、貧しい弟妹たちには私しかそれらを教える人がいなかった。あんまり上手く私の知ってることを教えられたか自信なかったんだけど、どうやら今の龍之介を見るに上手く指導できてたのかな。まあ私のおかげっていうか9割は龍之介の頑張りの賜物だと思うけど。

「かつて・・・ある人、が僕に珍しいと言ったのを覚えている。」
「・・・?」
「貧民街ではおおよそ得られることはないものだと。」

おそらく、教養のことを言ってるのだろう。ある人、と一拍置いた後で含みを持たせて発された言葉には、何か深い感情が滲んでいてあまり触れない方がいいのだろうと思った。龍之介の言うその人は随分と勘の鋭い人みたい。ああ、何だかとっても嫌な流れになってきた。

「誰に教わったのかと問われ、姉に、と。」
「・・・。」
「では、あなたは一体どこから。」

顔が引き攣りそうになるのを必死にこらえる。その問いは、いずれ来るって思ってた。でもいくら心の準備をしててもやっぱり駄目みたいだ。だってこんなにも息が詰まって胸が苦しくなる。頭の芯が冷たくなっていく感じは、まるで親に叱られた幼子のようだ。でも似てるけど、今のこれはきっとどうしようもないっていう諦めと恐怖からきてるんだと思う。手からメモとペンが滑って低反発のソファを転がった。
どうすればいいんだろう。まさか、そんなところからボロを出していたとは思ってもなかった。本当のことを洗い浚い龍之介に言ったところで、きっと信じてはもらえない。それはフィクションよりもずっと突拍子もなくて嘘くさいから。でも、彼に適当なでっち上げを話したくないとも思う。
もうどうしようもないよ。だって、私の出生は、原点はここじゃない別の場所にある。ここにいる私は一体何なんだろう。トラックが迫って来て全身から力がごっそり奪われていく感覚と、今の自分の体温と鼓動、どっちを信じたらいいんだろう。もしかしたら、私はこの世界でたった一人、幽霊みたいなものなんじゃないかって思ってしまうことがある。あやふやで、居場所がないの。空いた両手で自分の腕を抱え、自分で自分を守るみたいにして沈黙した。

「下らぬ問答だ。」

どれだけか重苦しい沈黙があって、龍之介がそう吐き捨てる。隠しきれてない憤りを滲ませたその言葉にびくりと肩を揺らす。どうしよう、また怒らせちゃったのかも。

「あなたが何処から来たかなど、」
「っ、」
「なぜ、あんな掃き溜めにいたのかなど、この際どうでもいいのだ。なまえ、」

言葉を区切るたびに、一歩一歩こちらに詰め寄ってくる。私もじりじりと後退って、やがて背中に冷たい壁がぶつかるまでそれは続いた。逆光のせいで私を追いつめる彼の顔には幽々たる影が差し込み圧迫感を増す。

「過去は僕にとっては些末な事。」
「。」

唇を手の平、というより揃えられた指の腹に柔らかく押さえつけられる。メモを落として、口パクも封じられた今、私に出来ることはただ高いところにある龍之介の暗い目を見つめることだけ。私の唇に触れる指先は冷たくて、近付いた顔は血の気が薄らとしかなくて人形みたいに白い。

「だが、この先は違う。あなたはずっと、未来永劫、僕と在れ。」
「・・・。」
「反論など聞かぬ。もはやあなたの意思など関係ない。」

彼の顔がゆっくり押し迫って来て、指で遮られたままに龍之介の薄い唇が寄せられた。私と彼の距離は、彼自身の厚みのない骨ばった手のひらの分しかない。色素の淡くなった彼の毛先が頬をするりと柔く擽る。別に力いっぱい腕を握られたわけでもないし、指輪の時のような威圧感もなかった、けれど。どうにもその緩慢な動作から逃げることはできなかった。じっと彼を見つめる。人形みたいって思った。なのに、どうして龍之介の射干玉の瞳の奥は陰鬱で物悲しく、顰められた眉は泣きそうな子供のようにも見える。なぜそんな顔をするの。支配するような言い方をしながら、行動そのものは下手くそな懇願のようでもある。
離れていく龍之介の手を握って引き止めなきゃ。でも、何て言えばいいんだろう。たくさんの情動によって突き動かされた私の手は、後から生まれた迷いや葛藤に押しつぶされそうになってしまう。それでも龍之介の指先、中指と薬指をほんの少し抓むようにして引き止めると、彼は驚いた表情を作って足を止めてくれた。

「・・・まだ何か。」
「・・・・・・。」

先日、彼に食まれた指先の付け根はもう傷が塞がって赤い痕とかさぶたが残ってるだけ。今日はやけにその部分がじくじくと熱を孕んでる。むず痒い痛みで私をくすぐり感覚を虚ろにする。
彼の手を開いて人差し指を置く。彼の手をメモ帳に、私の指をペンの代わりにして私はたくさんの感情の中から最も大切で伝えたいことを厳選し、彼に贈る。

『ありがとう。』
「・・・?」

龍之介は無言のまま、首をひねった。きっと、分かってない。さっきの言葉が私にとってとても嬉しくて安心に足るものだってことを。
過去は関係ない、未来に居場所をくれると言ってくれた。例え彼にとっての小さな口約束であっても、その場限りの嘘だとしても、私には得難いものをくれると言ってくれたことが嬉しかったの。じわじわ心が熱くなる。まだちょっと怖い彼の手を引き寄せられたのは、きっとその優しい心の熱量がエネルギーになって勇気に変換したからだろう。かゆい、とぼそり。彼が居心地悪そうに呟いて私は開かれた龍之介の手のひらを優しく握らせ、久々に安心して笑った。
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