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▼ 布団

 さて床に就こうかと寝室の襖を開くと必ず、綺麗に整えられた布団が敷いてある。それもほぼ毎日、天気の悪い日で無ければ、太陽の香りも纏わせて。
始めの頃こそ一体誰が、と不可思議に思ったものだが、よくよく考えればそんな気遣いをしてくれそうな人が一人居たのだ。


ふわぁと口から欠伸が漏れ出る。今日は短刀達の練度を上げるためにあちこち奔走したからか、普段より疲労しているようだった。目の端に滲んだ涙を手の甲でぐい、と拭いながら、必死に眠気を振り払おうとするが、一度で始めた欠伸は止まらない。
これだけは仕上げねば、と必死でペンを握りなおすが効果は無く。今日の戦果を用紙にまとめながらも、堪え切れない眠気に負けた名前はゆっくりと夢の世界に落ちて行った。


ふらふらと頼りなく揺れる頭部と手に握られた今にも転がり落ちそうなペンに、お茶とお茶請けを乗せた盆を手にした前田藤四郎は小さく目を見張った。
名前さんが仕事をしながら寝てるなんて珍しい。それにいつもなら書類関連は早めに済ませ、今頃ならゆっくりとお茶を楽しむ時間のはずなのに、仕事が今の時間まで長引いていることにも驚きだ。
出来るだけ足音をたてぬよう、そっと忍び足で歩み寄る。するとそこには、普段ならとうに終わっているであろう報告書が真っ白のまま、こっくりこっくりと船をこぐ名前の姿があった。ふらふらと左右に揺れる頭は頼りなく、握られているペンは白い報告書に意味の無い一本筋を何本も刻んでいる。
もはや落書き帳と化しているそれが、政府から支給された特殊な用紙であると理解していた前田は、申し訳ないとは思いながらも船をこぐ名前の肩を左右に揺らした。

「名前さん、用紙が一つ駄目になってしまいます!」
「ん…あれ…前田くん?あ、お茶を用意してくれたんだね、ありがとう」

ふわぁと欠伸を噛み殺しながら、眠たげに目を擦る名前には疲労が色濃く見える。
いつにもまして疲れた様子の名前に、大丈夫なのだろうかと不安を覚える前田を余所に、前田の横に置かれた盆に目敏く気が付いた名前は、いつものように慣れた手つきで自分の湯呑を持ち上げた。
寝起きだけあって、ややふらふらとした覚束ない動作のまま、湯呑をゆっくりと傾ける名前に前田の胸中に一抹の不安がよぎる。

「ちゃんと目を開けて飲まないと零れますよ…あ、」

前田が忠告を言い終わるが早いか、名前の手から湯呑がするりと滑り落ちた。そのまま湯呑は報告書が広げられた机にごとりと転がると、報告書を薄緑色に染める。
おおよそ緑茶を飲みきっていたため零れた量は少なかったが、なにせ落ちた場所が悪かった。
机の真ん中に落ちてくれれば床に零れる事もなかったのだが、残念な事に名前が湯呑をひっくり返してしまったのは机の端の方。例の報告用紙に吸いきれなかった、淹れたばかりのお茶は、重力のまま座布団に正座していた太ももにパタパタと零れ落ちた。
その様を目にした前田はサッと顔色を青くさせた。自身が先ほど淹れたばかりのお茶は、100℃を超す熱湯でないが、緑茶の適正温度―――つまり、50℃は越えているはず。普通の人間である名前がそんな温度の湯をかぶればどうなるか、想像に難くない。
そこまでを一瞬で判断した前田は、すぐさま用意してあったタオルで名前の腿に零れたお茶を拭った。

「火傷はありませんか!?今すぐ水を…」
「だっ大丈夫!大丈夫、服が濡れただけだから!不注意で、ごめんね」

流石にお茶が零れては眠気も吹き飛ぶのか、先程まで寝ぼけ眼だった名前の瞳は、今やしっかりと開かれていた。
机から零れ落ちたお茶はほんの少量だ。幾ら熱い湯であると言えど、皮膚まで到達しなければ火傷の心配はほぼない。それに早めに前田くんが対処してくれたおかげで、服もそんなに濡れていないようだし。
今度からは寝ぼけたままお茶飲むのはやめよう、とひっそり後悔しながら、名前は未だ心配そうに己を見上げる前田に目をやった。
先ほどは本当に驚いた。何せいつも穏やかに、それこそ戦闘中もそう声を荒げる様な事のない前田くんが、珍しく大声を上げた上に危機迫る勢いでタオルを持って駆けてきたのだから。それだけ心配してくれていたのか、それともよほどぼんやりしていた私が目に余ったか。
どちらにせよ心配させた事に変わりはない。ごめんね、ともう一度謝罪を繰り返すと、前田くんは目に見えてホッとした表情を浮かべた。

「いえ、お怪我が無いのであれば安心です。…今日はどうもお疲れのようですし、早めにお休み下さい」

床は整えますから、と心配そうに、しかし有無を言わせぬ物言いで寝間の扉を開け放った前田くんは、慣れた手つきでいそいそと布団を準備し始める。ものの一瞬で仕上がった小奇麗に整えられた床に、何処となく既視感を覚えた。
そうだ、布団の位置といい、枕元に添えられた水差しといい、いつもいつのまにか整えられている布団のそれとそっくりじゃないか。
さあどうぞ、とゆっくり手を引き布団に誘導してくれる前田くんに目をやると、きょとんとした表情を浮かべたまま、何か不備でもありましたか、と小首を傾げた。

「この布団…いつも前田くんが用意してくれてたんだね」
「これはその、これくらいの事しかできませんので」

少しでも名前さんの助けになればと思ったのですが、不快でしたかと困った表情を浮かべた前田くん。まさかこんな可愛らしい気遣いが不快な訳がない。むしろ日々の癒しともいえるのに、と薄く微笑んだ名前は、手持無沙汰に揺れる前田の反対側の手を取ると、その小さな手をゆるりと握り、口を開いた。

「こういった気遣い、とてもうれしいよ」

絶えず戦場に出陣し続ける日々に、心も体も疲弊しているのは刀も人も同じだ。
そんな忙しい中で、自身も疲れがあるだろうに寝床を整えてくれたり、仕事に区切りが付く頃合いに適温のお茶を差し入れてくれたりする、気遣いのある短刀を悪く思えるはずが無い。
それはよかったです、と微笑む前田の手を握ったまま、するりと布団にもぐりこんだ名前は、太陽の光を浴びてふかふかになっている布団を口もとまでずりあげ、チラリと前田に視線をやった。

「今夜はどうも疲れて…前田くん、お願いできる?」

外の守りが打刀以上の勤めならば、寝床の守りは短刀の勤め。その約束事は、この本丸に就いてから破られぬ守り事の一つだ。
その日の番は刀達自身の体調もあるため一任しているが、番の日課は一度とて欠かされたことがなかった。恐らくそれは今日も違いない。だから恐らく、今日は前田藤四郎ではない、他の短刀が寝床の番をするはずなのだろう。なぜなら彼は昨日番をしていてくれたのだから。
それでもなぜか、今日は彼に番をしてもらいたい。そんな我儘から、つい無理なお願いを口にしてしまった。疲労もあるだろうにと内心は分かっているのだが、どうしても今晩だけは。
私のそんな我儘を聞いた前田くんは、持ち前の柔らかな笑顔を浮かべるとゆっくりと頷き、口を開いた。

「勿論です。あなたが穏やかに過ごせるよう、今夜一晩懐刀を務めさせていただきます」

どうぞ心安らかにお休みください、と穏やかに微笑む姿は、幼い見た目にそぐわぬほど落ちついている。この後訪れる短刀に対する言い訳だとか、色々面倒事はあるだろうに。
そういえば幼い見た目と言えど、前田藤四郎は700歳をゆうに超えている刀だったか。ならばここの落ちつき振りも納得できるなと思いなおして、そろりと頭に乗せるられた小さな手から伝わる温もりを感じながら、迫りくる睡魔に抗えずゆっくりと瞼を閉じた。


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