血煙記念 | ナノ


ある雨上がりの日、畑から帰る畦道の途中に、手が落ちていた。
もう動かない手だった。人間のものだった。手首から先だけが拳を握ろうとしたのか、握られたのを開いたのか分からないが、中途半端に指を曲げた形でぽつねんと落ちていた。
新鮮、というと言葉が違うかもしれないが、まだ新しいものだと思われた。血は雨で流されたのか、周囲にも傷口からも綺麗さっぱりなく、ただ標本のようにそこにある。
昨日だか一昨日だか、この辺りにいるというヤクザが何やら事件…もしくは事故を起こしたのは知っている。直後の場は騒然としていたが、警察などは来ず、そのヤクザの組の人達が後片付けなどしていったのだが如何せん数が多かった。皆斬られていたのだ。一様に、身体のどこかしらを斬られるか斬り落とされるかしていた。それが五十人ほどいた。だから腕や手の一つや二つ拾い損ねることもあるかもしれない。全く人知を超えていて理解しがたい出来事なのだが。
人の腕から離れた単体の手を見るということは、そうあることではない。これがグロテスクな様であればまだ混乱もしたかもしれないが、血もなく傷口もすっぱりと美しい(この美しいという言葉も外れているかもしれないが、とにかく目にするとそうとしか言えないほど乱れがない)ので、おもちゃか何かのようにまるで現実味がないのだ。だから、しばらくぼうっと眺めてしまった。これをどう処理すべきか誰に告げればいいのか、何も考えないままにただただ道端の手を見つめていた。
どれくらい経ったのか。まだ陽もさほど位置を変えていなかったのでそれほど長くはなかったと思うが、ある程度経っただろう頃、畦道の遠く向こうから微かに足音が聞こえてきた。ザリザリと土を擦る足音だ。
私は手から目線を外して、足音の方に振り返った。人次第ではこの手のことで助けてもらえるかもしれない。



「………、………、………」



足音の主は、およそ普通とは思えない格好をしていた。長めの黒髪は雨に晒されたままに散らばり、包帯らしきものを巻いた裸の上半身に白い羽織だけをかけている。その両肩は鮮やかな赤に染まっていた。ところどころが擦れた灰色の袴の裾は水溜りの泥でも吸ったのか、濃く滲んでいる。靴、格好からすると下駄か雪駄かもしれないが、そういったものは履いておらず、裸足をズルズルと引き摺っている。
その足元に、花が落ちた。いや、落とされたのだ。その人がだらりと下げた両手いっぱいに持つ花の束から一輪、ぽとりと落とされたのだ。
言葉を失ってしまった。猟奇を見たと思った。人の形をした、戦慄だ。



「……左手、……顔一閃、……両手、……右手」



近付いてくるにつれ何か呟きながら花を落としているのだと分かった。声は人の部位を延々と吐いていた。
もしかして、と一瞬にして閃く。道端の手を落とした張本人は、あの人なのではないかと。もちろんあの人自身の手ではない。何十人もの人間を斬りつけていった人、ヤクザと争ったろう人だ。
人間は恐怖すると本当に動けなくなるようだ。私はもうすっかり恐ろしさに足を掴まれてしまい、花落とす主を一直線に見つめるばかりだった。目線を外せなかった。外して、見失いでもすれば自分の身も危うくなるのではないかと思われた。しかし目線を外さずにいてもこのままではぶつかってしまう。もはや向こうの視界に入っているかもしれない。何の反応もないが、ないことにまた血の気が引いた。見えているのに見ていない、不気味すぎる。



「……右手、……」

「あ……」



また一つ花が落とされ、目と目が合うた。私が逸らせなかった目線に、ぶつかってきた。真向かうと、澄んだ目だった。それが、いよいよ恐ろしかった。確かめるまでもなくこの人がここで大勢の者を斬りつけただろうに、そんなことをした人間の目がこんなに濁りがないなんて寒気がする。
そうして、目が合ったというのに、その人はまるで私など見なかったというような顔をして横をすり抜けていく。強い血の臭いがした。血どころか、生の肉の臭いすらした。危うく胃がひっくり返るところだった。
口を手の平で押さえながらすり抜けていった後ろ姿を見ると、何か棒状の物が花の隙間から飛び出ていた。今やもう束とは呼べない本数まで落とされた花と共に手に握っている物は木でできているようだった。そんな物を堂々と持ち歩いていていいはずがない、と否定したかったが、あれは恐らく刀だ。きっと、何本もの腕を落とした業物だ。



「……左肩、……右肩、……ここまで」



最後の一本が静かに落とされた。
今や刀を手に提げ持つ猟奇、その人となった。そうして、次はとでも言うようにゆっくりとした動きで私の方を振り返った。笑っているわけでもなく、怒っているわけでもなく、ましてや悲しんでいるわけでもない、喜怒哀楽を全く削いだ顔をしていた。私の顔はどうだったろうか。人の感情は喜怒哀楽だけではないのだ。もっと歪んだものがあり、私はそれを表す顔をしていたに違いない。
それでも問わねばならないと思った。私は私の信念の為に、猟奇たる人が一体何をしているのか知りたかった。何をして、どうして花など散らしたのか。今を盛りに生きていた花を、土中から引き裂いてまですることとは一体何なのか。



「あなたは、何をなさってるんです」



先ほど口から出た音のままの出だしで問うた。予想していた以上に芯の通った声になった。それが良かったのかもしれない。猟奇の人は、今度は体を真正面にして私と向かい合った。私にとっては良くないこととなった。真っ直ぐ向き合えば勝ち目のない圧力がぐっと空気を圧している。怯みきってしまったが、目を逸らすわけにもいかない。私は余所見をする余裕があるほど蛇に睨まれ慣れた蛙ではない。
ただ聞かねばならないという強い想いにだけ駆られていた。



「供養だ」



ああ、そうか。供養だったか。
それで得心がいった。供養、そうか。では間違いなくこの人がここで大勢の者を斬り、血の煙を燻らせたのか。
だから、花だったのか。あちらの世へは線香と花の香しか届かないのだという。だから花を供えていたのか。



「そうでしたか」

「組の縁者か」

「いいえ、全く。すぐそこの家に住む者です。この腕とも、その…組の人とも、もちろんあなたとも何の関係もない者です」

「…ならば、何故涙する」



自分でも気付かぬ内に頬が濡れていた。一滴、顎から滴った涙が雨上がりの地面に染み込む音を聞いてから、私はすっかり力が抜けて服の汚れるのも構わず湿った地面の上にへたり込んでしまった。
指摘された通り涙の膜の張った目では視界がきかず、呑まれゆく蛙になれと俯く。元々表情のなかった猟奇の人の顔は、もう何も判別できない。



「あなたが手折ったものも、命だったのですよ」



水の張った視界の中で、地面に横たわる花がぼんやりと白く浮かび上がっている。黄色いはずの花序は泥に塗れて色を変え始めている。
人の手に渡った後の花がどのような生き方、あるいは死に方をするか私は知らない。だが、このように野辺の泥に埋まる死に方を目の当たりにしたくはなかった。



「これらは私が育てた花だったのですよ」

「…そうか」



短くそれだけを言うと汚れきった裸足を引き摺って、去っていく。白鞘の端が私のすぐ横を通っていった。白木に囲まれて見えない刃が、ある時にはここを舞っていたのだろう。そんな世界は、もっと遠い場所の話なのだと思っていた。違ったのだ。世の中のどんな隙間にでも存在し、不断は見えないだけなのだ。

完全に気配が消えてしまってから、私はようやく動くことができた。落とされた花々を辿って振り返ると、私の後ろに不揃いな花道ができている。
もうあの猟奇と会うことはないと感じた。しかし置いてけぼりにされた持ち主のない手のことと、今しがたの出来事だけはずっと私の中に残り続けるだろう。
あの猟奇は、生きていれば命を奪う人なのだった。あの剣と共にある限りこれから先も、きっと。






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