血煙記念 | ナノ


血の海に、いた。
だらりと下がる腕には血の筋が生まれ指先を通り滴る。反対の手には剣が握られていた。元の色が分からぬほどに朱に染まった白鞘の端が、血溜まりを吸い上げている。
低く頭を垂れた黒髪もまた、真新しい鮮血を被り異様に照っている。
一見して死んでいるとも見える姿。像の如くに動かぬ姿を見、しかし確かに生きていると承知しているのは己が存在の為だ。それはかつての自分。いつかあった、その時の姿だ。



「しっているぞ、おぬしを」



話しかけても応えがない。応えがあるとも思っていない。ごえもんは溜息を吐いた。よりにもよってこの時の己がこの場に来てしまうとは、弱った。
なまえは今この場にない。起き出してきてすぐ買い物へ行くと小一時間ほど前に家を空けた。留守を預かったごえもんがリビングへ足を運ぶと、辺り一面を血の海にしてかつての己が固まり腐っていた。
なまえが家を出るまでにリビングを通らなかったことは幸いだった。しかしいずれ戻ってくる。この惨状を目にすればいくら呑気な女といえ、事態の異常さに気付くだろう。
なまえは表の世界に生きる女だ。出来ることなら血など、誰かを傷付けて流れた血など知らずにいて欲しい。そうは思うも、ごえもんはこの事態を解決する見込みを立てられずにいる。不可能と分かっていながら、ごえもんは言葉を吐くほかなかった。



「かえれ、あやつがもどるまえに」



ぎ、と骨を軋ませて血濡れた五ェ門が視線をくれた。辿り着こうとする道の端にも立っていないことに気付きもせず、青い刃を手と思い、人の生を断ち切る己の目だ。言葉を持たぬこともまた知っていた。開く口がない故に、睨め付けるのだ。



「みじゅくものめ」



ごえもんの願いは虚しく、玄関先で鍵の開く音がする。帰ってきてしまったのだ、なまえが。買い物袋を両手に提げたなまえは、このリビングへ向かうだろう。そしてこの有様を目にする。今回ばかりは目の色が変わってしまうに違いない。



「なまえ、こちらへくるでない!」

「んー?ごえもんさん、どうかしたんですかー?」



足音は確実に床板を踏んでこちらへ近付いてくる。音が大きくなるにつれ、ごえもんに目をくれていた五ェ門の視線が移っていく。ごえもんは、いよいよ腰のつまようじに手を掛けた。



「何か言っ……ぉぎゃっ!」


いよいよ姿を現したなまえの素足が、血の海を遠慮なく踏んだ。そしてリビング一面に広がる景色を見て短く叫ぶ。手にした買い物の荷物が音を立てて床に転がった。



「あ…あ…」

「おちつけ、なまえ。てだしはさせぬ」

「ト…」

「と…?」

「トマトジュースこぼしちゃったんですか!?」

「は…?とまとじゅーす…?」



どうもなまえの様子がおかしいと思えばこのようなことをのたまい始めた。頭を抱えて騒ぎ立てる様は、恐怖しているというそれではなく、完全に楽しみにしていたものを台無しにされて悔しがっているものだった。これにはごえもん、気勢を削がれて素の声が出る。



「とまとじゅーすなどではない、これは…」

「いいえ分かります!これは私のトマトジュースですよ!ああ…っ、帰ってから飲もうと楽しみにして2リットルも用意したのに…!」



なまえは何とこの血みどろの有様をトマトジュースによるものと思っているらしい。しかしよく見ると五ェ門に程近い床の上に紙パックらしきものが落ちている。はて、勘違いを犯したのは己の方だったかと呆気にとられていると、なまえが事態から立ち直って五ェ門に声をかけた。



「今タオル持ってきますから待ってて下さいね!トマトジュースのことは…気に…しないで…下さい!」



言葉とは裏腹に非常に悔しそうなしょげた顔をしたなまえがリビングを走って出ていく。その後ろ姿に嫌な予感がする。あの様子だと恐らく…。



「タオル、タオ…あだっ!?」

「やはり…」



廊下の方からつるっという冗談のような音を立て、続けざま鈍い音がする。短く上げられた悲鳴の後静かになったところをみると、どうも気絶したらしい。ごえもんが五ェ門の方を振り向くと、うつむく姿がすでに霞み始めている。帰りの時だ。
ごえもんは、ひそめた眉を戻せずにいた。五ェ門の方は、鋭い目付きであるのにぼんやりといった調子でなまえの走り出ていった先を見つめている。
みじゅくものめ、みじゅくものめ。ごえもんは心の中でそう繰り返す。今の己とて、そうかもしれない。しかしこの時の己は、見るも無残な未熟者だった。
そうして五ェ門は完全にこの場から消え失せた。リビングを赤に染め上げた海ごと。なまえはトマトジュースだと言ったが、あれは間違いなく血の海だったのだ。



「う…ん?」

「おきたか」

「あれ?私寝ちゃってました?何かしなくちゃと…タオル…あっ、トマトジュースと五ェ門?さんは!?」

「あやつならかえった」

「あれ、お早いことで…じゃあトマトジュースの後片付けしますか…」

「そのひつようはない。あやつがやってかえった」

「えっ!偉い!五ェ門さんとは思えない!」

「おぬしな…」



半刻ほど経ってから目を覚ましたなまえに、ごえもんはそっくり嘘を吐く。信条としては許しがたい部分があるものの、ごえもんとて嘘の吐きどころくらいは分かっている。
血の海とともに行った五ェ門は、帰り着いた先でもひとり赤に包まれたままだろう。あの頃に感じていた心の歪みを今なら理解できた。己は独りだったのだ。だが今は、奇妙な人間ではあるがそばに自らの孤独を気付かせてくれたなまえがいる。本当に奇妙ではあるが。



「しかし、おぬしがそのようなせいかくでたすかった。かんしゃする」

「えっ!何ですか、ごえもんさんったら!そんな素直な態度を取るなんて、ごえもんさんとは思えない!」

「おぬしな…」

「でも私ごえもんさんに感謝されるようなことしたかなあ…」

「よいのだ、こちらのことゆえきにするな」

「そうですかい…」



釈然としないというなまえに微笑んでみせると、びっくりしたような顔をするので、こぶしをひとつくれた五ェ門だった。



「それにしても、私が転んだのって廊下だった気がするけど…どうしてベッドに寝てるんだろう…」









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