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「効いてないじゃん」
その通り、全く効いていない。自我は私の身体で遊び回っている。
共に昼間の稽古を終えたマスルールはそれに気付き、私の服の裾を掴んだ。
「耐性がついちゃってね。
心まで侵食されなくなったの。肉体強化はされてるけど」
「ああ、やっぱり。最初に来た時より強くなった」
「そうかな?」
「うん。都合良い体質」
「メンタルで薬に打ち勝ったって言って欲しいな。意外としんどいから。
入れられたことある?」
「無いよ。多分ここではエナが初めて」
初めてとは。
荒手まで使って私を手中に収めたかったという事か。そう独り合点して良い気分になった。
*
普段から足を踏み入れているマーデル様の執務室には、今日初めてフェネという貴族の男が招かれていた。
「御機嫌よう。お待ちしておりました、フェネ殿」
「いえ、こちらこそ。手厚い歓迎痛み入ります、商会当主マーデル殿」
「本題に入りましょう、そちらに座って」
男は向かいのソファに腰を下ろした。対面時からずっと笑みを浮かべている。正直なところ気味が悪い。しかし、そんな取引相手にもマーデル様は慈悲深く接して下さるのだ。
「文書に目を通しました。フェネ殿はどのような所がお気に召したのでしょう?」
「闘技場で何度か拝見致しました美しい舞のような戦法につい見惚れてしまって。是非、私の屋敷で雇いたい。
この商会の奴隷のエナさんを」
「…そうですか」
マーデル様は少し納得がいかないようだった。当たり前だ。言う事を聞かず手のかかる娘を見放さないマーデル様の母たらしめる所が、そう簡単に頭を下げさせないんだろう。
ボロい娘は相応しく目の付け所の分からぬ商人に買われていく。
取引はあの一見紳士的で変人な男の都合で、3日後に行われる事になった。
彼が部屋から出て行った後、私はマーデルと向き合うように前に出ると、
「先程入った報告です。お時間宜しいでしょうか?」
昨夜ファティマーが入れたエナの薬が効かなかった。彼女自身に耐性が付いたのだ。何処まで頑固で、マーデル様を悩ませる種になれば気がすむのか。
明日の剣闘試合に間に合わせる為には、更に効き目の強い薬を投与する必要がある。
「如何なさいますか?」
「あなたの言う通りにしましょう」
マーデル様は微笑んで応えて下さった。
*
その頃、当主代理を務めるルルムさんと私は、ラシッド王と会談し後に商会へと戻った。
結果は、今から述べるままだ。
「皆に伝えなくてはなりません。我がシンドリア商会はラシッド王から明確な助言は貰えませんでした」
商会の空気は雪崩れる。しかし、何処にも進めないと諦めるのは間違いだ。
「確かに、今現状の打開策はありません。
万策尽きたと考えても仕方ない…
でも…待って下さい!
何かを諦める前に、自分達にされた事を思い返して下さい…
不当な負債、破産、当主を奪われ…追い込まれ…負けた!
私たちは当主の犠牲のもと平穏無事に商会に残っている。
今では普通に業務をこなしている…
でもそんな間も…シンは奴隷として過ごしているんです。
勿論、エナだって。
彼女に至っては、薬を盛られ剣闘士をやらされている」
全ては、愛しい彼等を救う為だ。
脇目も振らず走る彼に、
恩に執着し自らを貶めた彼女に、
私もならなくては。
「…私は、こんな理不尽を許すなんてできない!
策がないなら真似れば良い!同じ手で報復するんです!」
「それって…奴らを破産に追い込むとでも言うつもりか?」
「マリアデル商会を騙す?そんな事我々ではできませんよ!」
「分かっています。失敗すれば次こそ我々もただでは済まない。それだけ危険な事です。
当主が守ってくれた商会をまた当主のために危険にさらすなんて間違っています。
でも、私は見て見ぬフリして商会にいるなんてできません…
だって、シンのいないシンドリア商会は…やっぱり違うと思うから…」
*
シンドバッドの長い折檻が終わり、奴隷長補佐としてファティマーと働くようになった頃、子供達に変化が現れる。
シンドバッドは彼等の出荷時の商品価値を上げる為「良い子」でいるように説き、鞭の使用を禁じた。
マーデルにも褒められ、次第に周りの評価も良くなっていく彼に、ファティマーは嫉妬の念を抱く。
フェネの来訪から2日後。
明日に引き渡しを控えたエナと剣闘試合を終え、俺達は廊下を歩いていた。
彼女は3日前から服用し始めた強い薬に負け、今では青い目をしている。
言葉を投げると、機械顔負け、無駄ない返事をされたが、構わず続ける。
「聞いた?シンドバッドはあの人の子供になったんだって」
「そう」「興味ないの?」
「堕ちた奴に興味ない」
そう言い放つ段階まで進んじゃったのか。出会った頃と比べ著しく変化を遂げたお前だって、マーデルに負けた癖に。
そう毒づいたら「何のこと?」とお構い無しだ。
彼女に溜め息を吐くと、2人で立ち止まって何、何でもない、と問答を繰り返す。
すると、俺らに気付いたシンドバッドが、此方へ駆け寄ってきた。
「エナ!マスルール!
血だらけじゃないか!大丈夫か!?
全部返り血か…ちょっと待て、今拭いてやるから。
俺の出場以来更に過激になって、今では大型モンスターの試合ばかりになっているとは聞いていたが…これは酷いな」
シンドバッドはタオルを取り出し頭を拭いてくれた。それをエナは手で跳ね返す。
「心配するくらいなら、お前が最初勝っていれば良かっただろ」
「エナ?」
「…はあ、」
「マーデルに呼ばれているから、行く」
「おい!タオルいらないのか!
全く…つれない奴だな」
エナは見向きもせず歩いて行った。
残った俺だけはシンドバッドに謝っておいた。
彼は良いよ、と言って俺に目線を合わせた。その目には何処かやり切れなさがある。
「マスルール、血まみれになる程毎日どちらかが死ぬまで戦わされ、命のやり取りを見せ物にされて…
お前は、確かに強いよ。
でもまだほんの子供だ。こんな事、本当は嫌なんじゃないのか?」
まあ、言えている。こんな場で剣闘士なんてする器で留まっていて良いのか、前から疑問はあった。もし抜け出せるなら、想像した事もあった。
そう思って、俺は頷いた。
「そうか。ならマーデル様にお願いしよう。剣闘士を辞めたいって。
大丈夫、お前もマーデル様の「子供」になればすぐ辞められるさ」
期待外れ、けれど予想は出来ていた。やっぱり。エナが呆れたのも少し分かる。無視してシンドバッドに背を向け歩いた。
剣闘士辞めたくないのか?そう不思議そうに聞いてくる彼を咎められるように、出来るだけ鋭利に。
「俺は…ファナリス。与えられた仕事はする。命令には従う。でも…誇りは捨てない。
俺は、誇り高いファナリスだから!」
俺でも、言葉の剣を取れるなら。
それが、誰かの心を動かすなら。
*
その日の夜、私はマーデルの入浴場を訪れた。
相変わらず偉そうだ。寄り添う子供らを見ても、心動かされなかった。自分がもしマーデルの物に成り果てて居たら、きっと加わりたい、など健気に服を脱いで駆け寄っただろう。
今なら拳ひとつで彼女を。
そんな事を思いながら手に力を込めた。くだらない妄想だった。
負けまい、血が滲む程の悔しさが少し前にあった筈だ。
それは突如、何処かへ飛んでしまった。
何かが私を待っていた気もする。
しかしシンドバッドが堕ちた今、利口でいる意味は無くなったのだ。
この力で動かせるものが全て手に入れば、今は良い。
一緒に風呂に入らないか、マーデルの誘いを結構です。と断った。もう済ませた、その言い訳が無効にならないように自室で血も洗い流したのだ。
キースは鋭い目で私を睨む。多分暴露てるな。まあ、彼なら大丈夫だろう。
せめて此方に寄りなさい、と手招きするマーデルは、私を引き取る人を見つけたらしい。
「2日前、ここへいらした貴族の方よ。覚えがある?」
「えと、クリーム色のハット?」
「ええ」
「その方なら見かけました」
なら話は早いわ。きっと彼女の中の私はすでに用済みなのだろう。
「貴女の試合を見て感銘を受けたそうよ」
「何度かお花とお菓子を頂戴した事があります」
「明日その方がいらっしゃるから、荷物をまとめておきなさい」
「荷など、私にはありませんが」
「そうね、貴女の武具は売ってしまいましたから」
「嫌味ですか」「まあ。そうね」
「たちが悪いですね」
「エナ、もう遅いのだから薬を飲んで部屋に戻りなさい」
つまりはここは卒業、いや、ここだけではない。彼奴とも、あの船ともサヨナラだ。
長い航海だった。
彼は後悔に溺れてるんだろう。航海して来ただけに、後悔に溺れて、、こうやって寒い事を思いつく癖が付いたのも、ぜんぶ彼の所為だ。
餞別に涙を一筋だけこぼして、余計な感情は振り払ってしまおう。
「……失礼しました」
同じ時期、ファティマーもレームの豪商ゼウティウスに買われる。
シンバを嵌めようとしたものの、マーデルに見抜かれてしまったのだ。快い形ではないが、多少残酷な末路でも致し方無い。
翌日。出荷直前もマーデルを盲信し続けるファティマーと、強い意志を持つマスルールに心動かされ、シンバは目を覚ましたようだった。
そして彼は、子供達に現実を突きつけた。マーデルはお前らを母として見ているのではなく、商人として値踏みしているんだよ。所詮商品なんだ。そう絶望は囁いた。
そして、とうとう私も売られて行く。
「こんにちは。
久しぶりだね、エナちゃん」
28.8.17
29.1.18 改訂
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