*中編【眼差し】の後日談。







すきだよ。




たった一言を口から滑らせればよいことなのに、この10年、迅にはそれが出来なかった。







「手なんか繋がなくても、ちゃんと歩けるからさ」



虹はいつも幸せに溺れていた。幸せに溺れるとは想像つかなかったが、理解はできた。



【私、ボーダーに入るよ】



幸せに溺れるとは、盲目になることだ。幸せは人を盲目にする。盲目にして、何が本当の幸せなのかを見極める力を奪う。現に彼女も、盲目になった。盲目になって、平穏に生きられるはずの道を捨て、ボーダーに入ったのだ。

迅はそれを黙認した。それには彼のエゴも少なからず関わっていた。


俺の視える範囲であれば、彼女を守ってやれるだろう。


そう思っていた。今も思っている。小南やレイジさん達には理解されない、些か不合理と思われる守りかたではあったが、迅は虹を今の今まで、立派に守ってきた。

彼女の同情を誘い夜まで付き合わせた時も、自分の我儘で風刃を卑怯な手法で奪い取った時も、彼女は腕を広げるでもなく、ただ和かに彼を赦した。



「迅はさ、強くてズルイね」

「そうか?むしろ狡いのはそっちだと思うけど」

「ははっ、何も知らない私のどこがズルイの」



俺に無理矢理に手を引かれる虹の柳眉はヤルセなく下がっている。遠回しに俺のサイドエフェクトのことを皮肉ってきやがったな。内心毒づきながらも、憎めない。


俺の心を振り回してやまない、可愛い幼馴染よ。狡いのはお前の方だ。昔から、下ばかり見て歩いている俺に、上を向かせたのは。最上さんが居なくなっても、まだこの世界は美しくあるのだと、教えてくれたのは誰でもない、虹じゃないか。



あの頃を回帰すると、いろいろな思い出になんだか可笑しくなってきてしまって、こらえきれない喉がクツクツと鳴る。



「何、バカにしてんの?」

「いや。昔は虹が手え引張ってくれてたのにね」

「え、別にそんなことないよ。前だって私主犯で授業抜け出したじゃん」

「そうだっけえ?」

「ふふ、このジジイが。すっかり忍田さんに似ちゃって」

「それほんとに怒られるやつ」



合わない歩幅を埋めるように、一生懸命大股歩きをしてくれる虹。可笑しい。あの頃は手を引っ張ってくれて居た女の子が、今度は俺に手を引かれて、でも少し不満そうに歩いている。



「迅はさ」

「ん?」

「受験どうする」



高校三年生の冬。何か夢中になれる事があったら大学に行こうと思ってたけど_____迅にとってそれに当たるものは、あいにく今のボーダーと、たった一人の愛してやまない女の子だけだ。



「そういう虹はどうなの?」

「質問を質問で返すの?」

「いいじゃん。先に聞いた方が答えてよ」

「私にボーダー提携校以外の選択肢が残されてると思う?」

「あるんじゃないの?」

「留年宣告されてる身だからね!ない!」

「虹のそういう堂々と言えちゃうところ好きだよ」

「へへ、ありがとう」



「俺はね、行かないかな」


大学に行く前提で話を進めていた虹は、一度驚いたようにくりっと瞠目すると、


「そっか、じゃあ高校までか」


とテンプレのようなセリフと、水面にきらきら差す昼の穏やかな陽のような笑顔を見せた。そこには少女のような幼さも残っていたが、しかし迅はその少女性がまた少なくなってしまったことを憂いている。こうして大人になっていく虹の隣に、いつまで居られるか解らない自分が、たまらない劣情を生み出し心を湿らせた。



「残りのJK生活、楽しもうね」

「JKなのは虹だけだよ」


「そう?でも楽しかったよね。これからも頼むよ。私の大事な、


_____なんて言ったらいいのかな。相棒?」



「さあ。何でもいいんじゃない」



愛しさと虚しさが胸を熱くする。今にもこみ上げそうな熱を厚い氷で蓋をするように隠すと、いつもよりかは大分上手く笑えた。無知であることのどんなに幸せなことか。何も知らずに「そっか」と頷いてしまう虹の何と憎らしいことか。



「本当に、早く気づいてくれって思うよ」

「あんたも大概よね」


玉狛支部に戻ってからも、迅の感情は収まらなかった。テーブルを挟んだ向こうで、変に大人ぶった生意気な中学生が意見する。小南桐絵だ。



「まだ諦めないの?」



虹と同じ血が流れているのに、こちらを見ている分には変な焦燥やら嫉妬やらに駆られないのだから不思議だ。



「無理。諦めらんない」


「何なら私が代わりに言おうか?迅が虹のこと好きだって」

「やめろよ。それ邪魔っていうんだぞ」

「意気地なしがそんなこと言っていいと思ってるの?」

「お前ホントに中学生?」


大きなため息は、先程淹れたばかりのお茶の湯気をざっと吹き飛ばした。へなへなと肩をすぼめる迅に、小南は聞く。

じゃあ何が邪魔して言えないのかと。



「あれだけ酷いことしといて、今更言えない」



てっきり太刀川と虹のくっつく未来でも見えたと言い出すと思っていた小南にとって、迅の過去最高の弱音発言はひどく意外性を持ったものに聞こえる。



「えっ、それって風刃のこと?」

「まあ」

「虹は根に持ってないよ」



「そもそも迅、虹を風刃の試験に参加させてくれって頭下げてたじゃん。虹が風刃争奪戦に参加したのはアンタを救うためだったとか、全部わかってるよね?」



「わかってる。わかってるんだけどさ」





事実上の勝利ではなく、心での勝利を求めて。

そう言えば虹の意味深な行動は容易に理解できた。風刃争奪戦の時、一騎打ちになったトリオンの尽きる最後の瞬間まで、虹は俺と向き合おうとしていた。




「色んな人の想いが詰まってる私の剣なら、
迅を、きっとこのしがらみから救い出せる。


何もない私なら、何にでも変われる」




あの時の虹には、ちいさな翼が見えた。そのちいさな翼はいつか虹をどこか俺の手の届かないところへ連れて行ってしまうような儚さを携えていた。あまりにも儚なくて、それさえも美しく感じさせてしまう虹が恐ろしくて、俺は今にも泣き出しそうになった。



ここで風刃を虹に渡してしまえば、もう二度と戻ってこないかもしれない。



「俺はあの時本当に、虹が最上さんみたく消えちゃうんじゃないかって思ったんだ。そう思ったらもう、どんな手段を使っても勝つしかなかった」


「虹は最後まで言葉で俺を分かろうとしてくれてたのにさ」





あえて形容するならば、人のない荒野をたった一人ぼっちで歩んでいるかのような、いつか誰にも気付かれずに飲み込まれてしまうような。かつてはそんな恐怖がいつも迅の心を蝕んでいた。

それを上手に過去に消化し、今があるのは、ある日から金色のベールをまとって迅の胸を温かくする陽の光である。そして、その感覚のそばにはいつも虹があることを迅は知っている。


だからこそ、苦渋の決断さえ軽く乗り越えられたのかもしれない。

皮肉にも、迅を残酷にしたのは虹のひたむきでしたたかな救済のこころであった。




31.1.14

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