白い声 | ナノ








白い声



 長く続いたレールが途切れようとしていた。行方も知れぬまま、ただ固いアスファルトを蹴り続ける。余計なことは考えない。ただ、背後に迫る姿から逃げることだけで頭を一杯にした。角を曲がる、塀を越える、暗闇をどこまでもどこまでもただ奥へ奥へ。気づけば都会の喧騒も殆ど聞こえなくなっていた。寝静まった夜の中で、お互いの呼吸と駆ける足音だけが響いて、耳の奥に染みていった。
 体勢を変えるついでにちらりと振り向く。思ったよりも静雄の姿が近い。傷んでくすんだ金髪の向こうの眼が、微かに歪んだ。額に青筋を浮かべながら、彼は笑っていた。それを見て背筋が震える。恍惚とした電気は一瞬で全身にめぐり、口元は自然と吊り上がった。傍から見たならきっと笑顔に見えただろう。
 彼が駆ける音を背中に聞きながら、四肢を振り乱す獣のことを考えた。静雄は全身で走る。おおよそ理性的とは呼びがたい動きだ。ただ地面を蹴り、壁を掴む。高校生活の3年間で、彼は身体的には殆ど自分を逃さなくなった。擦り切れてボロボロになった制服には、喧嘩以上に臨也を追いかけた時間が染み付いている。
 目的があるから。上がった息と思考の合間で思う。目的があるから、彼はこうもがむしゃらになれるのだ。折原臨也を追いかける、ただそれだけの目的があったから、彼はここまで大きく育った。使い方を知らず、馬鹿みたいに強靭なだけの身体を操る術を得たのは、間違いなく自分のおかげだろう。二年前はすぐに音を上げた心臓も、今は訓練を積んだ臨也と大差のないレベルまで鍛えられていた。ただレールを敷きながら逃げ続けるだけの日々だ。臨也の前には誰もいない。ただ後ろだけを気にかけながら走り続ける、それだけの毎日が臨也には愛しい。まっすぐ自分に向かう激情に応えるために、自身を律し、策略を巡らせ、ただ何もないはずの虚空へ向かい走り続けていく。いつまでも、この関係は終わらせない。もしこの不毛な追いかけっこが終わる時が来るとしたら、彼が自分という目標物を失ったとき以外はありえない。
 背後の呼吸音を聞きながらタイミングを図る。
 今だ。
 ビルの合間の路地裏、一人分しかスペースのない細い通りで、臨也は急に方向を変える。たった今自分の走ってきた道へ、追いすがる静雄へ向けて一直線に地面を蹴った。一瞬面食らった静雄が怯んだ隙に、彼の脇をすり抜けて、細長いシルエットに足払いをかける。咄嗟に伸ばされた手を避けて、倒れる身体を笑いながら通り過ぎる。
鈍い振動があって、静雄の身体が地面に昏倒した。数歩分の距離をとってから彼のほうを振り返る。仰向けに転がった身体は、目で見てわかるほど激しい呼吸を繰り返している。静雄の肺はそろそろ限界だ。彼が追いかける気力のなくなる瞬間をずっと待っていた。もっとも、自分とてこれ以上逃げ続けられるほどの余力はなかったので、この瞬間が唯一の退路だったと言っていい。

「俺の勝ちだね」

 それは試合終了の合図だった。後は、静雄の悔しげな視線と、怒号が続いて、それでまた次回という塩梅。決まりきったやり取りはどこか小さい子供のようだとも思う。ばいばい、またね。
 臨也の投げた言葉に静雄は答えなかった。上下する胸の動きが徐々に小さくなっていく。呼吸が落ち着いてきたのだろう。もう一度掴みかかってくるかもしれない。そう思っていつでも走り出せるよう身構えた。臨也の用心に反して、静雄は仰向けに横たわったまま、ただ開いた瞳を空へ向けていた。
 夜空を映して色濃く見える瞳は、空っぽに見えた。まるで何も見えないみたいに。その色に臨也の胸はざわついた。気に入らない。

「まったくさあ、馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、成長もしないんじゃ救いようがない
ね。3年間も追いかけっこしてて、未だに自分の限界もわからないの。これじゃいつまでも平行線だよ。俺を殺すたって、一体何年かかるんだか」

「てめえは」

 待ちくたびれちゃったよ。そう続けようとした言葉を突然静雄が遮った。最後に言おうとした、「ま」の口を閉じて彼を見る。

「こんなことしてて虚しくねえのかよ」

 彼の声は落ち着いていた。先程までの怒りは何だったのかと思うぐらい、まっさらで、穏やかな顔だった。

「もっとあっただろ。俺なんかに構うな」

 瞳は相変わらず空を向いている。臨也のほうを少しも見ないまま。
 胸が痛い。心臓がベルトか何かで締められたように。そのくせ、さっきまでの鼓動は静まって、静まり過ぎて、止まっているみたいに冷えていた。こいつは、何を言ってるんだ。 
 漏れでた声は白い息になってすぐ暗闇に散って消える。後には何も残らない。自分を追いかけて上がった息が、人をなぎ倒して吐く熱い息の白が、どんどんそこから漏れていく。

「お互い気に入らなくても、見えないとこにいりゃ少しは我慢できんだろ。」

 近付いても彼はこっちを見ない。ただひたすら、白い声が。
衝動は一瞬だった。もったいない、と。

「もうすぐ毎日会わなくてよくなるしよ、そしたら」

 白いシャツを掴んで、止まらない口を唇で塞ぐ。目を閉じる余裕すらなかったから、ピントの合わない距離で静雄が目を見開くのがよく見えた。
 彼の息は熱かった。あんなに白い色をしてたのに、臨也に触れたそれは火を思わせる。それぐらい、熱かった。もしかしたら、自分の肌が冷えきっていたのかもしれないけれど。
 それほど長い時間をとらずに、臨也は手を離した。静雄の半身が重力のまま再びアスファルトへ落ちる。呆然とした目は臨也を見ていた。ようやく、こっちを向いていた。彼の顔が一瞬の内に赤くなる。それを見て、ようやく我に返った。
 慌てて踵を返して、今度こそ本当に走り去る。「てめえ!」やっと聞こえたまたねの合図を背に、どこまでもどこまでも、走り続けた。呼吸が苦しい。息ができない。もうどこにも逃げ場はなかった。

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某企画さまに提出させて頂いた文章