水際と蜃気楼


 サークル棟の入り口を潜って、管理人のお爺さんに鍵の受付ノートをもらう。MMPの欄を見れば、ノサカと書かれている。どうやら少し前にうちのサークル室の鍵は借りられていたらしい。
 開いてるなら、と受付ノートを返して部屋へと続く階段に足をかける。いや、講義棟からここまでの上り坂で失われた水分を補給しよう。踵をくるりと返して1階ロビーの自販機へ。
 紙コップの自販機で買ったピーチソーダが弾けながら揺れる。ゆらゆらと周りが映るその様子を楽しむ余裕もなく、早くサークル室で一服したいという、それだけ。階段を上らないといけないのがまた面倒だ。仕方ないか、放送サークルMMPの部屋は208号室なんだから。

 運動不足の体に夏の暑さが追い打ちをかける。足取りは重く、頭の奥からズキズキと押されるような痛み。いや、これくらいきっとピーチソーダを飲めば治る。
 ノートに書かれていた通り、サークル室の扉は開いていた。ただ、鍵を開けた張本人の姿はなかった。きっとトイレかどこかに行ってるんだろうと思って深くは気に留めず、ピーチソーダを一口。ああ、冷たくて気持ちいい。

 じーわじーわと蝉の声も聞こえてきそうな熱気。実際には聞こえないんだけど、それくらい蒸し暑い。辺りを見渡せば納得だ、廊下側の窓も何も開いてないのだから。
 風通しを確保したところでさほど変わらないのだけど。汗は滴り、体の中では熱が蠢いている。紙コップに浮かぶ氷をかじってやっと凌いでいるような状態。ああもう、頭が痛い。氷を食べたからではない、さっきからの痛み。

「あー……」

 ある程度原因がわかっている症状だと、それも仕方ないと割り切れる。生理痛だとか、夏風邪に伴う咳だとか。ただ、どんどん間隔が短くなって、強さも増してきたこの原因不明の頭痛だ。どうすればいいんだ。
 弱った姿なんて誰にも見せたくないし、見られたくない。それがうち、奥村菜月のスタンスだ。いつでもあるべき「菜月先輩」の姿でありたいんだ、サークル中は。だからいつでも気を張って、ナメられないように。
 とは言えさすがにこれは辛い。時間を確認すればサークル開始までにはまだもう少し時間がある。少しロビーのソファーで横になって休もうという結論に至るまでに時間はかからず、そこに至る前によろよろと足が動いていた。

 2階ロビーを覗けば、暗くひんやりとした空気でしんと静まり返っていた。時々横になることがあるいつものソファーに、と思ったところに足が生えている。
 そこから覗く濃い色のジーンズからするに、先客がいる。その他に見える部位がないことからすると、どうやら横になっているのだろう。恐る恐る回り込むと、うちのソファーに横になっていたのは他でもないノサカで、眠っているのか、うちが来たのにも気付いていないようだった。

「酷い汗だな……」

 こんな暑いところで寝るから。と言うか、よくこんなところで眠れるな、時季外れの長袖だし。
 ――なんて暢気に感心したけどただ寝ているにしては様子がおかしい。酷い汗なのもそうだし、なんだか息苦しそうな。気の所為か?

「……なつき、せんぱい…?」
「大丈夫かノサカ、随分と辛そうだけど」
「いえ、申し訳ありません……大丈夫ですので……」

 ――と言いながら起き上がろうとして起き上がれなかったことが大丈夫ではないことの証明。本人的には不覚だろう。

「どうした、熱でもあるのか? 目が虚ろだぞ」
「どうやらそのようです……正確な体温はわかりませんが、普段よりも高いのは確かです……」

 おかげで普段は寒くて仕方がない情報知能センターのPC演習室が今日は快適で課題も捗りました、と。こんな時までクソ真面目に勉強の心配をしてるなんて、さすが成績オールSのヘンクツ理系男だな。

「起こして悪かったな」
「いえ……俺も、何となくですが、菜月先輩のような気がしていました。こっちに引き戻して下さって、ありがとうございます……」
「三途の川を渡りかけだったか?」
「いえ、川があるならまだマシです」

 何もない、黒い渦に呑み込まれる夢を見ていたとか。光も何もない、真っ暗闇の渦。随分とミクロで、果てのない宇宙だ。それなら多少熱でだるかろうが現実にいた方がマシだとうちも思う。ノサカは相変わらず起き上がれないまま、熱く、艶のある息を吐いた。

「とにかく、何か飲んだ方がいい。ちょっと待ってろ、買ってくる」

 捕まれた腕からも、熱が相当高いことが伺い知れる。その熱さは当然として、すぐにでも振り解けそうなほどには弱い。

「あ、あの……」
「何だ、放してもらわないと行けないぞ」
「その……それをいただけますか…?」
「それって、これか? ピーチソーダ」

 どうやら、渦に呑み込まれながら感じたこのピーチソーダの匂いでこっちに戻ってくる糸口を掴めた、とのことだった。相変わらず、腕は取られている。
 そのままこの腕でよいしょ、と大きな体を引っ張り起こして紙コップを渡してやれば、一口、そしてまた一口と、液体が喉を降りていく様は扇状的だった。

「申し訳ございません、ごちそうさまでした」
「ちょっとは楽になったか? って言うか、中途半端に飲むくらいなら全部飲め」
「ですが、菜月先輩の分が」
「うちはまた買ってくればいい」

 そろそろ、どうしてここに来たのか、その本題を忘れそうになっていた。自分も頭痛に襲われていたはずだけど、今この時点では何事もなかったかのように。またいつ何時どうなるかはわからないけど、少なくとも今は楽だ。

「菜月先輩は、どうしてここに…?」
「……こんなところでだらしなく寝てる奴に、ローキックの一発でも浴びせてやろうと思って」

 本題を言ってしまえば、この男は自分のことをそっちのけにしてうちの心配をするだろう。そして、そのうちからピーチソーダを奪ってしまったことを大袈裟に悔い、自分を責める。そんな画が見える。
 そうなったらそうなったで、黒い渦に呑み込まれたノサカを誰がこっちに引っ張り上げるんだ。呑まれずに済む渦には呑まれないようにするのが手っとり早いだろう。変に真面目すぎるんだ。

「さ、起き上がれるならサークル室に戻るぞ。扇風機も出したしここよりは居心地がいいだろう」
「先輩、もう1度引っ張り上げてもらえますか」
「バカ言うな、このヘンクツ理系男め」

 そしてソファーから投げ出された脚にローキックをかませば、大袈裟に飛び上がって見せるんだ。そして一言、ありがとうございますと。やっぱりマサフミのMはドMのMじゃないか。そうからかうのがいつもの流れ。

「お前のその長袖が体温調節を出来なくしてると思うぞ」
「確かに、情報知能センター以外は暑いですからね。汗もかきます」

 そして広くて明るいサークル室に戻れば、吹き抜けるさわやかな風は扇風機いらずだ。中途半端に残っていた紙コップの中身を一気に飲み干し、思い出す。うちはこのピーチソーダで一服をしたかったんだ。

「やっぱり、夏は水分がいくらあっても足りないな」
「買いに行ってきましょうか。ロビーの自販にしますか? それとも外の自販にしましょうか」
「いや、今日は自分で行く。ついでだし、お前の分も買って来るけど何がいい?」
「いえ、一緒に行きます」
「それじゃあ、外の自販にしよう」

 いい風が吹いている。きっと、籠もりきった物をすべて浚ってくれる。忘れてしまった物は、なかったということでいい。じっくり見ることも出来なかったあの蜃気楼にも似た情景も。自販機から階段を上ってまた頭が痛くなればそれはきっと、運動不足なんだろう。



(それはきっと、にわか雨の予感。)



end.



++++

運動不足なんだろう、と片付けると後々酷い目に遭うかもしれない

what's wrong提出作
(2013/06/23 ECO)




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