懐に隠し持ったナイフは、護身用とかそういうんじゃない。いざと言うとき、自分の腕を切るための刃だ。
 彩色に使うのは、何も調合師が作った「色」だけじゃない。別に、絵の具だろうが花の絞り汁だろうが、それこそ自分の血だっていい。
 ただ、自分の血を使った彩色は彩色師の中でも禁忌とされている。そりゃそうだろう、普通に考えてリスクが高すぎる。ヘタすりゃ命すら落としかねない。ちなみにこれは、アイクが最も嫌う彩色方法でもある。
 それでも状況が状況なら仕方ねぇだろって思っちまうのが俺という奴で、過去に何度かこの方法で彩色を行ったことがある。そのときの傷はもう消える事はない。

「BJ!」
「遅せぇぞナユ!」

 どうやらこの事態は、繋げたままだった通信を聞いていたらしいユーリからナユに伝わっていたらしい。既に鞭を片手に戦闘モードだ。

「クロ5、だな」
「見えるか?」
「おぼろげに、だな」
「見えないなら、浮かび上がらせるか?」

 握ったナイフは左腕の上に。

「くっ……」
「バカやめろBJ!」

 滲んだ血を刷毛に染み込ませれば、1回分の彩色くらいは出来る。この1回で確実に「影」に彩色が出来れば探索師不在のこの状況でもナユは確実に「影」を捉えられるはずだ。
 彩色師が色を付けられるのは何も無力化された「影」だけじゃない。その気になれば、自分の目じゃ正確に捉えることの出来ない生きた「影」にだって彩色できる。

「お前なら出来るだろ」
「……。」
「そうじゃねぇとこんな賭け、誰がするかよ…! 劣等感だの無力な自分に対する嫌悪感? ――ンなモンにこの俺が負けっかよ!」
「でも、お前の腕が――」
「お前、俺の心配なんかするような女だったか? 随分とヌルくなったモンだな」
「こんな時に何言って…!」
「この「影」は表のマーノ――「野坂」の苦悩だ。普段の俺は裏表を混同しねぇ主義だが、コイツはお前が「奥村菜月」として葬ってやれ」

 血が固まってしまう前に仕掛ける賭け。刷毛を一振り、空を泳ぐ朱。どうやら彩色には成功したようだ。くそっ、深く抉りすぎたか…? 浅く切ったつもりだったんだけどな。

「サンキューBJ! これで見える!」

 見えるようになったことで確かにナユは勢いづいた。だけど確実に「影」との距離が離されてやがる。そうか、ナユも本調子じゃねぇのか。空を見上げても月がない。月がないとナユも本来の力を発揮することが出来ねぇんだ。それと、次元に穴が開いてることによるパワーバランスの崩れ。

「くそっ、すばしっこいヤツだ…!」
「何とか動きが止められねぇか?」
「向こうの意識はマーノに一直線だ。こないだのとは違って、余所見をするようなことはしてないな」
「無理矢理真正面に立って足止めすっか」
「BJ、それ以上したらお前冗談抜きで――」
「この俺がそう簡単に死ぬかよ」

 思った以上に速い「影」。きっとコイツはマーノを攻撃する、というよりは融合したいんじゃないかって。俺にはこの「影」がマーノを求めてるように見える。そう思っちまうのはヒネた考えなのかねぇ、アイラさんよ。

「――うっわ、あぶねぇ」
「BJ!」
「これくらいの散弾なら当たらねぇよ」
「しかしあれだな。敵意みたいなモノは不思議と感じない」

 ナユの言葉が俺には不可解で仕方なかった。日頃から「影」相手に戦っているヤツが敵意を感じないだなんてよほどだろう。ただ、この「表」のマーノの苦悩のようなものが仮にまだ完全にアイラのものになっていなかったとするならあるいは――

「…ナユさん…!」
「マーノ! 大丈夫か!?」
「はい、目が見えない以外は至って――」
「見えないって!」
「あの人に襲われたときに目に何かを吹きかけられました。その効果が切れるまでの一時的な症状だと信じたいです…!」

 意識を取り戻したマーノの声に、ナユの表情が不安に満ちていく。

「ただ、感じる空気でこれだけは断言できます。この「影」がナユさんを攻撃することはありません」
「どうして言い切れる!」
「どんなに俺が自分を嫌いでも、自分の意思で魂を売ったりしませんよ。「表」の俺も、きっとそうです。この「影」はまだ俺が制御できます!」
「マーノ、無力化するぞ」
「はい」

 ナユの目が変わり、一本鞭が空を斬るようにしなる。

「しかしすばしっこいのには変わらないんだよな…!」


「――BJ先輩ナユ先輩、伏せてください!」

 決して速くは無い。だけど、確実に「影」を捉える針は、真っ直ぐ奴に突き刺さる。血の色をした「影」の懐に飛び込んでいたのは、想像もしない奴で。

「「T2!?」」
「ナユ先輩今です! 今ならこの「影」は動けません」

 時空の壁に磔にされた「影」を、あっという間に調律するナユの姿たるや。でも、どうしてここでT2が? それに、この能力は――…あーやべ、血が止まんねぇ。

「BJ先輩、大丈夫ですか?」
「お前に心配されるほどヤワじゃねぇよ」
「とりあえず、今は糸で仮止血しておきますね」
「つーか、あの「影」は――」
「先輩と同じです」
「あ?」
「能力の使い方の幅です。ルイ先輩に新しい武器として、待ち針をもらったんです。これがあれば無力化される前の「影」も固定することが出来る、そう聞きました」
「ははっ…「運用段階までは口外しない」、ね。確かに。針じゃ、俺のじゃねぇわな」

 ふと思い出したユーリの言葉、研究チーム内の暗黙の了解。そして仮の止血を終えたT2の元に降る白いレンガ。コイツはかなりの大物だ。

「T2、「コイツ」を持つべき奴のところまで届けてくれないか? そろそろ腹を空かせてるころだろう」
「はい、お見舞いついでに」
「おいT2」
「はい、何ですかBJ先輩」
「もう「見舞い」じゃなくて「仕事」だぞ。しっかりリッカの面倒見て来いよ」
「はい」

 研究チームのいる施設に向かったT2を見送り、何かを忘れているような気がしつつも、腕の痛みと疲れでそれどころじゃない。つーか、戦闘なんてやっぱやるモンじゃねぇな。

「あの、ナユさんBJさん、俺のことも助けていただけると嬉しいのですが」
「「あ」」

 何か忘れているような気がしたのはコイツだったか。捕らわれのマーノにナユの目つきがまた変わる。

「そう言えば遅刻の仕置きがまだだったな。もうしばらくそこで磔にされておくか?」
「ああ、それでいいんじゃね? コイツの遅刻癖が直らないことには俺ら修復班にも影響が出るからな」
「ちょっ、そんな滅相もない!」
「じゃ、俺ユーリんトコ行って腕の治療してくるわ」
「ああ。気をつけろよ」
「お前もな」

 何だかまだマーノがぎゃあぎゃあ言っている声がしている気がするが、今の俺は自分のことで精一杯だ。きっともうしばらくは説教が続くのだろう。考えるべきことはもっとあるだろう。だけど、そんな余裕はない。脈打つ腕に付けた傷の熱さで何も考えられねぇんだ――


(2010/10/13)
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