▼ 演奏の裏で
お前は、敵の中に立たされることが多いだろう。
そう言われたのは何時もの様に、ニーナが他の船員達の研究成果の話に耳を傾けている時だった。
気象学者と植物学者が、それぞれ偉大なる航路(グランドライン)で起こる異常気象や気候が齎す植物への影響を議論していた。既に三年以上この船に乗るニーナには見慣れた光景だ。
初めは何のことやらさっぱりだった彼等の議論も、漸く難しい単語が聞き取れ、それを組み合わせて大まかな話の内容が解るようになってきた。
ふむふむ、だから高度の高い空島では植物が異常なまでに成長するのか。
などと、実際はその数倍複雑な議論内容を、理解しているのかいないのか解らないほどざっくりと結論付けたニーナが、コクリとジュースを飲み干した時。
唐突にそれまで自室で本を呼んでいた筈のヨークが顔を出した。
「ニーナ、話がある」
「はぁい!」
真剣な顔で呼ばれニーナが駆け寄れば、何時もの様に抱き上げられた。近付いた温もりに嬉しくなり、その首にギュッと抱きつく。
「ちょっと来い」
そのまま抱き上げられながら運ばれた先は、ニーナ達が騒音室と呼ぶ場所だった。
主に研究や実験、または趣味で大きな音を出す必要がある者が使う部屋だ。防音技術を使って作った筈が、部屋を使う者の遠慮も容赦も無い騒音に対抗しきれず音漏れをさせることから、その呼び名がついた。
部屋の床にゆっくりと下ろされたニーナの肩に、ヨークがやんわりと手を置いてこちらを向かせる。
「いいかニーナ。お前はこの先、何かと敵だらけの場所に放り込まれることがあるだろう」
「……それって、私の力の話?」
十というまだ幼い歳だが、ヨークが真剣なこの表情をした時、その話す内容がどんなものか、ニーナは既に嫌という程身に染みていた。
「そうだ。でも、前にも教えたな。敵だからって無闇矢鱈と戦って良い訳じゃない」
「………でも、戦うことも必要って言った。だから、ミホーク兄さんにもたまに戦い方を習ってるんでしょう」
「たしかに、戦うことも必要だ。だがこの先、戦ってはいけない時が必ず来る。俺達が助けてやれない時もある。そんな時、お前はどうする?」
「…………逃げる?」
お前ならどうする?そう問われた時、ヨークは簡単に答えをくれないことを知っている。そんな時は、なんでもいいから自分なりの答えを出すまで彼は正解を教えてくれない。
だから、取り敢えず浮かんだ考えを伝えた。
「そうだな。でもそれが出来ないときは?」
「…………お話して、解って貰うのは?」
「それもいい考えだ。だけどな、人間っていうのは誰も彼もが優しく出来てないもんだ。それじゃ収まらない時もある」
言いながらヨークは、部屋の隅に設けられているピアノへとゆっくり近付いた。その鍵盤を撫でながら、ニーナをチョイチョイと手招く。
「時間を掛ければ理解を示してくれるだろうが、俺が言ってるのはその場限りの話だ。周り中が一瞬で敵になったが、その場で戦うことも逃げることも出来ず、場を納めなきゃならなくなった。味方は居ない。お前一人でなんとかしなきゃいけない。
……さて、そんな時はどうするか」
そこまで言ってヨークに向けられた視線に、ニーナは解らないと首を振って伝えた。
そこでフッとヨークは表情を崩すと、ピアノの鍵盤を一つ指で弾いた。
「その場の空気を味方に付けりゃ良い」
ポンと子気味良い音がして、そのまま空気へ溶けて行った。
「いいか、ニーナ。集団っていうのは残酷だが、裏を返せば単純ってことだ」
嫌うべきものを嫌い、好くべきものを好く。集団と違うものを警戒し、同じものを迎える。
罵るべきか、仲良くすべきか。投げるべきは、嘲笑か、賞賛か、石か、拍手か。
「その場の空気が敵意で固まる前に、それをひっくり返して味方につけろ。それさえ出来れば、余計ないざこざを防げる」
「………解るように、努力します」
これだけ説明されたニーナだが、ヨークの言葉をイマイチ理解出来なかった。言いたいことはなんとなく、ぼんやりとは解るのだが。
しかし、ヨークの言葉に間違いは無い、と素直に頷いた。
どうしてそうなのか、どういう意味か、まだはっきりとは解らないが、ヨークが言うならそうするべきなのだ。
頷くニーナに満足そうな顔をすると、ヨークはよしっ、と手を打った。
「早速だが…… おぉペラン、丁度好いタイミングだ」
「あ、ペランさん。お昼寝してたんじゃないの?」
そこで男が一人部屋に入って来た。名をペラン。音楽研究家であり、楽器職人でもある。様々な島のありとあらゆる音楽を学び、その歴史における発生や発展、心理的にどの曲がどの様な形で人に影響を与えるか。取り敢えず、音楽のことなら何でも知りたい、をモットーに持つ男だ。
寝起きの眼を擦りながら、船長に叩き起こされた、と告げるペランにヨークが悪い悪いと謝る。
「ニーナ。取り敢えず、楽器とダンスを覚えろ」
「「え、ええええ!?」」
目を見開いて声を重ねたのはニーナと呼び出されたペランだ。一体何が起こっているのだ、と事態を把握する前に、ヨーク監督の元、ペランの音楽指導が始まった。
「いいかニーナ。嫌な空気になっても焦るなよ。怯むな。恨むな。怒るな。警戒するな。そういうのは全部捨てろ。その時お前に必要なのは、優雅さと笑顔だ」
音楽指導と平行して、女らしい仕草や作法も覚えさせられた。
優雅な立ち姿から、綺麗な笑顔の作り方。
「空気を味方につけろ。余裕な態度で上品に、軽やかに、相手の警戒を解いていくんだ。動きに気を使え。しなやかさと柔軟性を覚えろ」
浴びせられる言葉に、ただただニーナは頷いた。
一体これらがなんの役に立つのだ。
そんな疑問を挟む前に、彼自身がその力でもって荒くれ者達が威厳しあう海賊の酒場を、それは鮮やかに場を納める場面を目撃させられたのだから。
彼の語る言葉に、今にも乱闘が始まりそうだった場が和んで行くのを感じた。ヨークの言葉通り、その場の空気を味方につけたのだ。
ここまでされてはニーナも納得しない訳にはいかない。
いつもそうだ。ヨークの言葉に、ニーナが理不尽さを感じる前にこうして彼の言葉の正しさを見せられる。だから信じて従うしかない。
「これは絶対、いずれお前の武器になる」
彼の言葉を。
言われた通り、仕草は優雅に。洗練された動きでもって、笑顔を絶やさず。
そして………
ニーナはフゥと息を吐いて鍵盤から腕を下ろした。そのまま淑やかな笑みを浮かべ、丁寧に一礼をして見せる。その視線の先では、マリージョアのパーティーに集まった貴族や政府の役人。
途端に響いた拍手の音に、内心でホッと安堵する。
ニコリ、と最後にもう一度微笑んでみせれば、先ほどまで凍り付いたかのようにピリピリとした空気は、既に和んでいた。
こちらは本編37,38の裏話的な内容になっております
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