トリートと赤いリップ
とある祝祭の三日前、その日を楽しむ仕込みのために、ニーナは狙っていた一人を犠牲にしたあと、放送室の占拠に成功した。
『エーー、お仕事中の海軍の皆さまお疲れ様です。中将以上の将官で、三日後に本部にいらっしゃる方にご連絡します。 三日後のハロウィンを、私ことパスカル・ニーナは全力で楽しむ予定であります。トリック・オア・トリートのイタズラを回避出来ない場合、ドーベルマン中将のように、丸一日何をしても取れないリップのキスマークが顔に着きますので〜』
放送室からそんな声が流れる頃、訓練場でブルブルと怒りに震えるドーベルマン中将をチラリと海兵が覗き見れば、歴戦の勲章とも言える顔の傷跡に並ぶ、真っ赤な口紅。 文字通りのキスマークだ。
先程、鍛錬中に風が過ぎ去るような速さで、それは派手にチュウッとリップ音と共に着けられた代物であり、ニーナにとっての見せしめである。
無駄に高い技術力でどんなことをしても決して24時間は落ちない特殊リップ。 場所はマスクでも髪でも中々に隠しにくい絶妙な位置という計画的犯行に、ドーベルマンもどうしようもない。
『ちなみに、センゴクさんのお許しを得た上でのプランだということも、ここにご報告します』
この作戦のために、億越え賞金首を10、それ以外を20、計30もの悪名高い海賊団の首を取ってセンゴクに差し出したのだ。 当日1日、海兵の仕事の邪魔をしない範囲なら好きにして良いとのお許しは取ってある。
仕事を邪魔する類ではないし、かといって好ましい悪戯でもない。 顔にキスマークを乗せたまま仕事をするなど、恥ずかしい上に迷惑には変わりないのだから、きっと誰もが嫌がって菓子を準備するはずだ。
対象を中将と大将に限定することで、誰にも彼にも声を掛ける事態にもならないので海兵たちの邪魔にもならないし、おやつの時間までには回収も終わる。
なんと完璧な計画か。当日は袋にいっぱいの菓子を手に、優雅にティータイムと洒落込もう。
……と、ニーナは満足気な笑みを浮かべたが、その作戦の大きな欠陥に、まだ気付いていない。
***
待ちに待ったハロウィン当日、担いだ大きな袋がいっぱいになる様を想像しながら、まずは小手調とばかりに大将黄ザルの部屋を訪れたのだが。
「………へ?」 「オー、ごめんねェ〜。忙がしくてねー、用意出来てないんだよ」 「そ、そうですかァ。でも、宣言しちゃったんでイタズラはしますよ。いいんですか?」 「勿論、そういうことになってたからねー。わっしは構わないよォ〜」 「えええ〜〜〜」
まさか、いきなりスカとは。しかもまるで本当に気にしないかのように軽く言われてしまい、ニーナは戸惑った。 誰もが嫌がるだろうとばかり思っていたのに。
「じゃあ失礼します」
チュウッと軽い音と共に赤い唇を頬に押し付ければ、綺麗に乗ったキスマーク。
「うんうん。有言実行は感心だねェ〜」
そう言って上機嫌で頭を撫でてくるボルサリーノに、ニーナはイタズラの威力の低さに若干の不満を覚える。が、まぁ彼はたまに何を考えているか分からない時がある男だ。 きっとキスマークをあまり気にしない質なのだろう。
大将クラスの菓子を若干期待していた分残念ではあるが、まだ序盤だ。これからが本番だろう。
と、気を取り直したニーナだが、その後も予想外の事態は続く。
「スマンな、忙がしくて」 「いえ。ステンレスさんは昨日遠征でしたもんね」
チュウ
「ああ、忘れてたんだらァ」 「バスティーユさん……しょうがないですよね」
チュウ
「好きなだけして構わんぞ」 「別にキスが好きなわけじゃないんですけど……ストロベリーさん」
チュウ
「用意するとでも思ったのか」 「オニグモさんらしいですね。こういう反応なら予想してたんで、遠慮なく」
チュウ
おかしい。何かがおかしい。 オニグモのような数人の堅物な中将が、用意してくれるとは思っていなかった。冷たくされるのはむしろ予想通りなので遠慮なくイタズラを実行できたのだが。
問題はそれ以外の、比較的友好的な将官たちだ。飴玉の一つや二つ、すんなりくれるだろうと予想していたのに。
なぜ皆嫌がる素振りすらなく、さぁコイとばかりに頬を突き出してくるのだ。
結果、ニーナが朝から担いでいる袋の中身は、つるから貰ったクッキーとガープから貰ったせんべいのみ。
キスマークを着けて海軍本部を歩く中将が増えるごとに、ニーナの中で落胆が膨らんでいく。
「あ!モモンガさん!」 「っ!?」
今度こそ、と祈るような気持ちで目に入った人物にニーナは駆け寄った。
「モモンガさん!トリック・オア・トリートです!」 「う、あ、いや……その、だな………ぐっ、うぅ」
途端に冷や汗を流しながら上げた手を、胸ポケットの周りで空回せる姿にニーナは期待が広がる。
もしやこれは、胸ポケットに忍ばせている菓子があるのでは。
「モモンガさん!あるんですか?どうなんですか?」 「あ、あぁ、それは、えぇと…」 「モモンガさん、お菓子くれないと、チュウですよ、チュウ!」
唇を尖らせて強調させる姿に、モモンガの汗は更に増える。
「思いっきりほっぺにチュウってしちゃいますよ。いいんですか?」 「あ……ぐっ!」
ほらほら、とモモンガの肩を掴んで顔を近づけてくるニーナに、モモンガはグラグラと脳内が揺れる。
胸にしっかりと準備した菓子を、出してやりたい気持ちと出したくない気持ちがせめぎ合う。が、その迷いを生むのもニーナなら、止めを刺すのもニーナだった。
「あんまり意地悪するなら、ほっぺだけじゃなくておでこにもしちゃいますよ!チュウって」 「うぐっ……な!な、い」 「へ?」 「スマン!私は何も持ってない!」 「………」
途端、期待させておいて突き落とされた気分にニーナは思い切り眉を下げる。が、すぐに鬱憤をぶつけるべくニーナは頬を膨らませた。
「じゃあ、どうなっても文句言えませんよね!」 「あ、あぁ」 「もう!」
チュウウウ!!と派手な音と共に思い切りモモンガの頬に口紅をなすりつける。ついでとばかりに額にも派手にキスマークを残しておいた。
最後にチュッとまたリップ音をたてて離れれば、顔を真っ赤にさせたモモンガ。 相手が嫌がったり面倒臭そうにしていれば開き直れるものの、照れられると羞恥はニーナにも伝染してしまう。
「モ、モモンガさんが意地悪するからですよ!」
モモンガにつられて若干頬を赤らめたニーナが、フイと目を反らす。 途端、
「ぐぅぅぅぅぅぅ!!!!」 「え!?モ、モモンガさん?」
その場に蹲って顔を手で覆ってしまったモモンガにニーナは目を見開く。 いったいどういう反応なのだろうか、これは。
その後も目立った収穫はなく。半ばヤケクソにも似た気持ちで、大将赤犬の執務室を尋ねた。
「サカズキさ〜ん」 「……おどれに構ってる暇はない。どうせこれが目当てじゃろうが」 「わっ!」
投げて寄越されたものを咄嗟に受け止めれば、そこには可愛らしい飴玉が乗っていた。
「わぁ、わぁあ!ありがとうございます。嬉しい!」 「さっさと出ていけ」 「は〜い」
これまでスカが続いていた分、飴玉一つでも十分に嬉しい。
嬉しいことには変わりないのだが。 「あ、これ塩味だ」 やはり物足りない。コロリ、とサカズキに貰った飴を転がしながら、ニーナはトボトボと廊下を歩いた。
しょっぱさが広がる味覚は、塩飴の所為だけではないだろう。 なんということか。計画がこうも不発に終わるとは。
「なんでかなぁ……」
海軍で中将にまで上り詰めた将校たちが、顔にキスマークをのせたまま業務に勤しむなどというこっぱずかしいことを、全く気にしない筈はないと思ったのだが。
もしくは、本当に誰もかれもが、飴でもクッキーでもせんべいでも、一つも用意できないほど忙がしかったのか。
まさか自分の知らないところで大規模な作戦が動いているのやもしれない。 けれど本部の中の雰囲気はいつもと変わらないもので、ピリピリとした空気は見られず。事件も作戦もあるようには感じられないのだが。
と、考えながらニーナは本日最後になる大将青キジの執務室の前に立った。
「お邪魔しま〜す!」 「あらら、いらっしゃいニーナちゃん」 「クザン、トリック・オア・トリート。お願いします、お菓子ください」
若干意味が違っているが、そう付け足したニーナが期待の目を向けた先では、それまで寝転がっていた床から上半身を起こした男が、苦笑しながら首を傾けた。
「ンン、可愛いおねだりだがなァ。ごめんね、な〜んも持ってないのよ」 「………はい?」 「忙がしくってさァ……」
自分が来るまで明らかに昼寝していた男が、忙がしいわけあるか!と喉元までせり上がった文句を飲み込むと、ニーナはガクッとクザンの横に膝から崩れ落ちた。
「そ、そんな……」 「あららニーナちゃん?いや、そんな落ち込まなくても」
ポンポンと頭を撫でてくるクザンは、まだ崩れ落ちた体制のままのニーナを抱き上げて自分の膝に座らせてやる。 それでも呆然と俯いたままのニーナに、菓子回収の結果が予想通りになったのだろうことを確信し小さな笑いが漏れた。
「ああァ、なに?そんなに貰えなかったの?」 「ええ……なんでだろう?いい作戦だと思ったのに」
いやいや、とクザンは内心で思い切り否定しておく。が、それを言葉にしても根拠を言うのは憚られるため口にはしない。
「まあ、なんだ。がっかりするのは後でもいいでしょ。ほら、悪戯してもいいんだよ」 「……なんでそんなに嬉しそうなんですか。こっちは散々な結果だっていうのに」
未だ不満そうな顔で頬を膨らませるニーナは、悪戯を実行する気配がない。 しかしそれでは意味がない、とクザンはそれを促すように頭を撫でるのだが。
「そうなんだけどさ、まあそれは置いといて。ほら。例の、チュってやつ」 「あ〜ああ。結構高かったんだけどなァ、このリップ」 「へえそうなの。それでさ、ニーナちゃん。悪戯の話…」 「作戦の為に頑張って海賊の首も揃えたのにィ。民間人への被害が大きいのを片っ端から」 「うんうん、なんかやたらはりきってたもんな。それはそうとニーナちゃん……」
まったく聞き入れる様子のないニーナは、一人で首を捻りながら眉を寄せるだけ。
「面白がられちゃったのかなァ。いや、結構派手に色乗ってたし。形もちゃんとキスマークの形にもなってたし。あれで歩き回るの絶対恥ずかしいと思うんだけど」 「………ニーナちゃん」 「わっ!?」
グッと腰を引き寄せられ驚いたニーナが振り返れば、ズイッと頬を突き出してくるクザン。
「それで?俺にはその、皆にやった悪戯、してくれないの?」 「え?いや、もう結局そんなに誰も気にしないみたいなので。クザンで最後ですし、しなくても……」
途端、腰に回った腕に更に力がこもりニーナは言葉に詰まる。
「んで、悪戯は?」 「……はいはい。なんですかクザンまで、面白がって」
やはりこの類は面白がられてしまうのか、と考えながら、そこまで言うなら派手に付けようとリップをもう一度塗り直す。
「では遠慮なく」
そのまま突き出された頬に唇を押し当てれば、バッチリと乗る真っ赤なキスマーク。
「うーん、なんかクザン、それ似合いますね」 「ん?どういうこと?」 「あ、そっか」
彫りの深い顔と余裕気な表情にのる紅色は、どことなく大人の男の色気を引き立てている。それをまじまじと眺めてみれば、ニーナはとある事実に気付いてしまった。 中将と大将は揃いも揃ってあらゆる経験を積んだ大人の男。
「キスマークの一つや二つ、慣れっこってことですね」 「……なんか、すごい誤解があるみたいなんだけど」 「なるほどこれは予想外。次はもっと別方面の悪戯を考えなきゃってことか」 「あのさ、ニーナちゃん?」 「よし!じゃああまりお仕事のお邪魔しないというセンゴクさんとの約束なので、私はこれで退散しま〜す。あー、謎が解けてスッキリしたァ」
カラカラと朗らかに笑って退室してしまったニーナの誤解を解く暇がなく、クザンは不本意な勘違いにポリポリと頭を掻いた。
「あらら…折角用意したってのに」
そういったクザンが視線を向けた執務机の中には、大きなチョコの箱が入っている。 先に渡しては目当ての悪戯をしてもらえない、とすぐに出すことはしなかったが。
「じゃあま、あとでサボりがてら渡しに行くか」
予想通り菓子が貰えずがっかりしているニーナを、そのままにしておくつもりはない。頬にキスさえ貰えれば、これを渡して喜ばせる予定だった。
と、考えていたのはクザンだけでなく。
ニーナが回収を終え自室に戻ったことを確認した数人の海兵が、上司達の元へと走った。
「モモンガ中将!ニーナ嬢は先程全員を回った様子です」 「なっ!?なんの話を…」 「ですので、昨日から用意されている、美食の街プッチで人気の限定“あま〜いカボチャのカップケーキ”をお渡ししても良いかと」 「ぐっ!?」
言われてモモンガは思わず自分の頬に指を乗せた。そこにある紅色を思えば、胸を擽られるような感覚が走る。
欲望に負け、悪戯を甘んじて受けるためニーナの来訪の後で用意した体を装ってしまった証だ。
「……と、届けておいてくれるか」 「はっ!かしこまりました」
それと似たような会話が、本部のあちこちで交わされた数分後。
ニーナは自室に戻ってからすぐに届きはじめた大量の菓子達に目を丸くしていた。 大きなケーキから美しい飴細工。プリンにスコーンにブリオッシュと。豪華な品々が中将の名で届くのだ。
「これは、やっぱりちょっとは威力があったということかな?」
多少ニーナの予定とは違うが、結果は大満足だ。
「じゃあお礼言うついでに、ちゃんとリップ落としてこないとね」
そう言ったニーナが棚から取り出したのは、24時間絶対に落ちないリップとセットで売られている、どんな化粧でも絶対に落とすクレンジング液。 元々、何か問題が起こった時はキチンと後始末するつもりで用意していたのだ。
こうなるとは予想外だが、菓子を貰ったならあのキスマークも消した方が良いだろう。
そうして新たな使命を帯びてニーナは部屋を出たのだが。
「ちょ!ボルサリーノさん、もう落としていいんですってば。抵抗しないでください」 「いやいやニーナちゃん。そんなことしなくていいよ〜。わっし割とこれ気に入ってるし」 「だから私が恥ずかしいんですってば。なんなんですか皆さん!キスマーク付ける時より落とす時に嫌がるなんて」
またしても不可解な事態に遭遇したニーナだが、部屋で待つハロウィンの菓子達を思い、さっさと終わらせようと気合を入れてキスマークを消して回った。
≫≫Back |
|