消えゆく残香


足音もなく静かな動きで私の足元まで来たその子はその場で腰を下ろした。フローリングの床を長い尻尾で撫で上げている。その尻尾の動きが三往復目を迎えようとした頃、突然軽快な動きで飛び上がったかと思えば、座っていた私の膝の上へと着地した。

「どうしたの?」

居心地のいい姿勢を探しているのか、前足を小刻みに動かしているその子の背中へと手を伸ばす。灰色の毛並みを撫でていると落ち着く姿勢が見つかったのか、その子は微かに髭を揺らし、やがてまん丸の瞳をぎゅっと閉じた。
気を許してくれているこの子の様子を飼い主が見たらまた嫉妬するのだろう。なんたって本当に飼い主なのかと疑うほどに懐かれていなかったもんだから。おそらくいつも彼がまとわせていた煙草の香りが、敏感なこの子の鼻には刺激が強かったのだろう。本来は人懐っこい子のようで、普段煙草を嗜まわない私には好意的に接してくれていた。けれども彼とスキンシップを交わした後は香りが映ってしまっているのか、驚くほど冷たくなる。動物好きの私にはそれが少なからずショックで、それを理由に冗談で彼からのスキンシップを拒んだりしていたこともあった。

「そんなこともあったね」

もはや懐かしいとすら感じる記憶。この子から拒まれることはもうなくなった。それは嬉しいことのはずなのに、擦り寄ってくれる度に胸に微かな痛みを伴う。

「君の飼い主はどこに行ったんだろうね?」

家主のいない部屋に残されていた一匹の猫。途絶えた連絡。姿を表さない彼。この子が私の部屋で生活するようになってどれくらいの時が経っただろう。

「どこにいるのよ、ホルマジオ」

はやく帰ってきなさいよ、私があなたの香りを忘れてしまう前に。



2023.04.02


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