その日。
その服を着ていたのはたまたまで、その時間に帰ったのはたまたまで、その公園に立ち寄ったのはたまたまで、その駄菓子を食べていたのもたまたまで。
唯一、そのぽっぺんで遊んでいたことだけが私の意志と選択のみに因るものであったから、その厄災の降りかかった由縁が私自身の過失にあるとしたら、それは間違いなく、ぽっぺんのせいなのだ。





「おねーさん大丈夫?すげー薄着してますけど」


夜の公園でそう声をかけられたとき、私は即座に反応できなかった。

お、おおお、なんだ、私か。私に言ったのか。どうしよう。なんてアグレッシブなんだ、少年。見ず知らずの人間に声を掛けるとか。ましてや私は、別に目の前で盛大に転んで声を掛けざるを得ない状況を作ったわけでもないのに。ただブランコに座って、大入りヨーグル袋を膝に置いてぽっぺん鳴らしてただけなのに。

なんて、一瞬で考えて、私に声を掛けてきた少年をまじまじと見遣る。

黒縁の眼鏡を掛けて、鬱陶しくない程度に黒い髪を切りそろえた、爽やか系男子。おおお。着ているのは白いブレザーだから、これはきっと箱庭学園の生徒だ。おおお。

いや、箱庭学園だからってみんな一概にすごいわけでもないんだろうけど、でもやっぱり私みたいな小市民からしたら、みんな学問か芸術か身体能力かに勝れているに違いないのだ。

すごいね、爽やかで箱学生でアグレッシブ!
きっとこの少年はとてもモテるに違いない。まあ、学内では箱学生というセールスポイントは何の意味も持たないけど、外部生からはきっとモテにモテるに違いない。

そんなことを考えていたら、何だかナンパでもされている気分になってきた。ヒューッやるねえこのこのー。

しかしこの場合、やるねえはどうにも私自身を持ち上げすぎているので適切ではない。というか、少年の好意を勝手にナンパに変換して盛り上がってる私にドン引きだ。自分で自分にドン引きだ。ほうら、目の前の爽やか少年も、無言で固まっている私にドン引いている気配がする。ヒューッやっちまったぜ。

だが何というか、少年は私よりも魂の格が上であった。


「あ、すみません突然声を掛けたりして。あんまり遅い時間にひとりで公園にいるものだから、勝手に心配してしまって……迷惑だったら、無視してくれていいんですけど、そうでないなら、上着、受け取ってください」


などとのたまって、箱学の象徴、白いブレザーを脱いで私に差し出してきた。
こっ、これはすごいぞ。まるで絵に描いた三文芝居のようだ。この少年は一体何者だ。すごいぞ、こんな今時ドラマでも見ない台詞をさらりと言ってのけたぞ。さすが爽やか社交的箱学生、言うこともやることも違うぜ……!

ハイスピードで脳内展開されている独り評議のために放心した状態で手を伸ばしてブレザーを受け取ると、少年は驚いた顔をした。おお、そうか。無言というのは些か失礼に当たるなあ。


「あ、の、有難うございます。別に深い意味はなくて、たまたま時計が止まってしまって寝坊して天気予報も見る時間がなくて急いで掴んだ服がこれで、たまたま教授の手伝いに駆り出されて遅くなって、そのお駄賃に駄菓子を貰ったものだから小学生にでもあげようと思ったけど当然の如く夜だし、公園には誰もいないし、がっくり落込んだからぽっぺんで気分を切り替えていただけなのです」

「……おねーさん、騙されやすいでしょ」


な、何だと。貴様初対面のくせに馴れ馴れしくも知ったような口を……!

しかし、今のは確かに不必要なことを口走りすぎていた。少年が呆れて思わずそう呟くのも仕方ないだろう。反省。


「いやはや、お見苦しい真似を……」

「え、いやいや、別にそこまで謝らなくても……こっちこそ変なこと言ってすみません」


深々と頭を下げれば慌てて首を振る少年。ちくしょー、お前はどれだけ訓練されてるのだ。絶対彼女五人くらいいるだろ。


「でも、やっぱり心配だから、もし良かったら送らせてもらえませんか」


お…おおお…。寒気がしたぞ。ぞわっと鳥肌立ったぞ。こんな歯の浮くような台詞、生まれて初めて投げかけられた。ひょっとしてこれは、本当にナンパだろうか。いやいやいや、それはこれが純粋な好意であった場合、少年に対し失礼極まりない思い込みだ。いやしかし、仮にナンパだとしたら人生初ナンパだ。

時間にしておよそ二秒、脳内会議で私Aと私Bと私C辺りが大荒れの議論を繰り広げた結果、全私は降臨した好奇心の元にひれ伏した。


「あ、の、じゃあ、お願いしても、いいですか」

「……俺、本当に心配です」


呆れたように笑った少年が、すっと片手を差し出してくれる。こいつぁとことん訓練されていやがるぜ。


「ま、行きましょうか」

「ど、どうも」


恐縮しながらその手をとれば、ぐっと腕を引いて立ち上げられる。慣れてやがるぜ。が、立った途端、膝の上に置いたままだったヨーグルの袋ががしゃりと地面に落ちてしまった。おお、うっかり忘れていた。

やってしまったなあ、と、すぐに屈んで拾おうとした、のだけど。

少年は私を引き上げた手を離さず、そのまま更にぐいっと引っ張った。

意識も視線もヨーグルに行っていたから、私は見事にバランスを崩して、少年の足下に這い蹲ることになってしまった。

なんだと。っていうか、これはあれだ。あれだ。ちょっとまずいぞ。いくらナンパされたことがなくたって、大学生にもなれば知識だけは腐るほどあるんだ。まずいぞ。これは危ない中でも危険極まりない類のナンパだった。


「ほんと、おねーさん騙されやすくって心配だよ、俺」


お、おおお。声のトーンが下がっているぞ。下がっているのに喜色満面なのがわかる、いやーな声だぞ。すごい変わり身だ。


「あ、あのですね、自慢じゃないけど、私は結構、寸胴なのですよ」


慌てて起き上がろうとしたら、逆効果。浮いた腰を捉えて反転させられて、仰向けになった体を地面に押さえ付けられた。う、うおお、すごく鮮やかだ。


「あのさあ、別に付き合う女選んでるわけじゃねーんだから、顔とか体とかどうでもいいんだよ」


あ、暗に穴があればなんでもいいと言ってやがるぞ。こ、こいつプロだ。あらゆる意味で女の敵だ。


「あんたみたいなさあ、適当にヤり捨てられる、面識も接点もない間抜けな女が丁度いいんだよ。精々泣き喚いて俺を興奮させてよ」

「か、勘弁してください!」


流石にここまで来ると、私だってぼけぼけとはしていられない。好奇心を満たすためには何事もチャレンジだ経験だとか言っていられない。でもどうしよう。こういう時ってどう抵抗すれば良いんだろう。既に私は、押し倒されて馬乗りになられてる状態だ。

股間を蹴り上げることは出来ないから、鷲掴みにでもすればいいのか。しかしそれは、この状況では逆効果じゃないのか。運動もろくにしてない文系女子大生の握力なんてたかが知れているし。

だらだらと冷や汗が流れ出して、汗臭さで萎えてくれないかなとか考えてしまって、あ、まずいぞこれは思考を放棄し出している現実から逃避しようとしているまずいぞこのままだと流されてヤり捨てされてしまうぞ、なんてますます焦っていたら。


「おーいおいおい、そこのお前、なーに学園の品位を落とすようなことしてくれやがってんの?」


第三者の声。た、助かった。パニックに陥っている頭はそれしか考えられなかったけど、少ししてから、爽やかそうな皮を被った非行少年を弾劾するような言葉であったことに気が付いて、更に安堵した。

非行少年は身を震わせて声の方を見て、それから声まで震わせて「風紀……!」と叫んで私の腹から転げ落ちた。

体の自由を得た私は、急いで体を起こし、正体は分からないけどこの場では確実に私の味方であろう声の方に逃げた。

しかし、あれ、あれ、何かおかしいぞ。


「が、学園の風紀は乱してないだろ!そ、そうだよお前らの権力は学園内だけのものだ!俺、俺は別に――」

「あーあそうだよ。俺たちは箱庭学園の風紀委員で、お前が今乱してるのは社会の風紀だ。けどなあ、俺の権限は学園内で行使されるものであると同時に、学園の生徒に対して行使されるものでもある。それによお、俺、言っただろ?」


じゃり、と公園の荒い土を踏んで非行少年の方に迫るのは、箱庭学園のものと思しき制服を着た少年。だけど、制服は通常見かけるものとは若干違うし、何より、小さい。便宜上少年と呼んでいたけれど青年に近い非行少年と異なり、こちらは本当に少年だ。


「――学園の品位を落としてんじゃねーよ」


どごん、と。少年が発した言葉に被さって、重たい音が響く。ここは公園で今は夜で、従って辺りはしんと静まり返っている。そこに響いた音はびりびりと鼓膜を震わせ、それから胃をぎゅっと引き絞った。

な、なんだなんだ。何が起こっただ。

状況が把握できなくて固まっていたら、どさりと何かが地面に落ちる音。ゆっくりとそちらに目を向ければ、非行少年が地面に膝を付いて、右肩を押さえようとしていた。ようと、って言うのは、痛すぎるのか触れもしないようで、左手が肩を掴むような形だけを作った状態で浮いてたからだ。俯いた顔はよく見えないけど、叫ぶこともできないようで、「あ」とか「が」とか切れ切れに呻き声が聞こえる気がする。

こ、こえぇ。何が起こったか判らないけど、状況から推察して、私と非行少年は犯人ではない。理論上、第三の少年が犯人だ。

うわあ、最近の子どもは怖い。何をするか判らない。いや実際やっちゃった後も、何をしたか判んないんだけど。取り敢えず怖いので、私はちびっ子からも距離を取ることにした。

ここで重要なのは、距離を取ることにした、というところ。うん、結論から言うと、一歩も動けなかった。ちょっと動こうとしたら、ぎろりと睨まれてしまった。すごく怖い。現在進行形で怖い。公園に立ち寄る前にトイレに行ってなかったら、たぶん絶対失禁していた。


「はあーあ、俺ってあんまり屋外向きじゃあないんだよねー。面倒くせーから、お前の処分は明日呼子に任せてやるよ。運が良かったな。――で、オネーさん、あんたは何してんの」


紛れもなく私に向けられた言葉。こ、こえぇ。なんて凶悪な顔をした子どもだ。お父さんとお母さんは一体彼にどんな教育を施したんだ。というか、可愛がれるのか。可愛がれたのか。もしやこの子どもは親に愛されず心に傷を抱え更に凶悪顔に拍車が掛かり、周囲からも邪険にされますます凶悪になるという負のループに陥っているのではないか。か、かわいそう。


「はー…この期に及んで間抜け面晒しやがって……テメエみてーな馬鹿がいるから、風紀の乱れに拍車がかかんだよ」


……か、可愛くねええ。

なんだこいつ。馬鹿って言ったぞ。ブァカ、って言ったぞ。全然、微塵も、可愛くないし可哀想でもない。

いや、だがしかし私の勝手な妄想で変な先入観を持ったから、そう感じてしまっただけだ。そうだ、別にこの子どもは愛に餓えた可愛そうな子とかじゃないのだ。そして客観的に見てみれば、私は確かに、爽やか仮面にホイホイ騙された愚かな女だ。うむ、子どもは間違ったことを言っていない。


「す、すみません以後気を付けます」


へこへこと腰を低くしてそう言えば、子どもはチッと舌打ちをした。お、おい貴様なんだそれは。私は反省してるじゃないかなんだそれは。


「ボケーっとしやがって、なァにが気を付けますだ。テメエみてーな奴は何遍犯されようと学習しねーんだよ。そのせいで、腐ったアホどもがつけ上がる。反省してんだったらよお、社会の風紀のために家に閉じこもって二度と外に出てくんなカス」


な……なんだこいつ。過激だ。苛烈だ。極論だ。
確かに私にも非があって、この子どもが通りかからなければ今頃取り返しの付かないことになっていて、そこには弁明の余地はないけれど、か、仮にも女性がレイプされかけていたんだぞ。一欠片の思いやりくらい残せよ。


「おい、聞いてんのか」

「聞いてますごめんなさい」


くそ……恐ろしい形相に負けて謝ってしまった。

しかしまあ、子どもは容赦ないけれど、私が愚かであったのも確かに確かなので、それも教訓として受け止めるべきなのだろう。うむ、そうだ。今日の反省を明日の成功に繋げるのだ。流石に引き籠もりにはならないけど、もう知らない人には返事をしない、無闇に触れない触れさせない付いていかない。よし完璧。

私はもう一度「本当にすいませんでした」と頭を下げてから、ブランコの下に落ちているヨーグルを回収して帰ろうとした。

ここでも重要なのは、帰ろうとした、というところ。結論から言って、私はその場から颯爽と立ち去ることが出来なかった。


「つーか、お前、全然大したことねーじゃん。こんなのに欲情して、挙げ句この俺に粛清されるとか、マジで馬っ鹿じゃねーの。虫けらの考えることはわっかんねーな」


こ……このガキ何を言い出すかと思えば。

非常に腹が立つけれど、しかし間違ったことは言っていなくて、だからこそ余計腹が立つんだけど言い返せなくて、それがまた腹が立つんだけど――いかんいかん。相手のペースに乗せられてはダメだ。この鬼子に口答えでもして、もう一度睨まれたら胃に穴が開く。


「それともお前、着やせするタイプ?」


しかし気が付いたらすぐそばに子どもがいて、じろじろと私を上から下まで眺め回している。く、くそ、なんだこの惨めな気持ち。


「いや、ねーか。春先にこんな薄着で、着やせもクソもねーよなあ。顔も体もこの程度で、いっそレイプなんて貴重な体験だったんじゃねーの?あれ、俺余計なことした?いやいや、やっぱ風紀を乱すアホは放っとけねーよなあ」


はあ、と私に人格や思考能力があることなんてまるで無視して自己完結して、溜め息を吐き出す子ども。ひどい。これはひどい。


「い、言われなくてもわかってますよ……!だからナンパと判っていても、物珍しさに負けてこうなったんですよ!自分に魅力がないことも馬鹿だったこともわかってますよもう放っといてくださいよ!」


や、やってしまった。ついに口答えてしまった。やべーな私も粛清されるかな。


「……は?わかっててへらへら相手して押し倒されたわけ?……お前、脳味噌腐ってんじゃねーの」


辛辣。何もされなかったけど、ものすごく厳しい。


「だ、だって」

「だってじゃねえよ。心底救いようのないアホだな」


思わず言い訳しようとしたけど、すぐに遮られた。しかし、言い訳が本当にただの言い訳であることは明らかだったので、だっての後に続く言葉は実のところなかった。遮ってくれて良かった。


「そんなに欲求不満なら、その辺の風俗にでも行ってこいよ。今回が確信犯だったなら、テメエは間違いなく今後も犯罪者を増やす要因になるぜ。もともと素養があるから馬鹿な真似をしでかすわけだし、そういう奴らは問答無用で粛清するけどなあ。てめえも確実に、風紀を乱す存在だ。寧ろ今ここで、この俺が存在を抹消してやろうか」

「よ、欲求、不満とかじゃ、ないですもん、な、ナンパされるのって、どういう気分か、味わって、みたかった、だけですもん」


やべーこええ。私この子どもに殺される。と思っていたら、口が勝手に動いて、最悪な言い訳を紡いでいた。おいおいおい、これじゃあますます怒らせちゃうんじゃないの。

青ざめたのは一瞬で、案の定、気が付いたときには子どもの手が私の首をぎちぎちと絞めていた。顔はすぐに真っ赤になる。


「そういう甘ぇ考えが世界の害悪になんだよ。クズ共の温床になんだよ。好奇心だァ?笑わせる。どんな気分か知りたかったら、薬にも手ぇ出すのか?何でもすんのか?違う、なんて言ってもなあ、テメエが言ってんのはそういうことだ。その可愛らしい脳味噌でも俺の言葉が理解できたなら、世界の秩序のために死ね」


ぎしぎしと、一言喋るごとに圧力が増す。

く、くそ、殺されちゃうのか。私はここで死んじゃうのか。死因は絞殺か。いや、直接はそうだけど、大本の原因は己の愚かさだ。なんて情けない。

ああ、今日は非常にツイていなかった。想定外の事ばかりが起きて、最後はホントに全く微塵も予想していなかった突然死が待っていた。

何が悪かったんだ。何もかもが悪かったのだ。私の存在自体も悪かったのだ。

ただ、今日という日がこんな流れになったのは、こんな服を着て、こんな時間に帰ってきて、こんな公園で足を止めて、こんな駄菓子の袋を持って、こんなぽっぺんを鳴らしていたからだ。

あ、あれ。私のぽっぺんはどこだろう。


「、」

「あ?何だよまた言い訳でもするつもり?」


そんなことを言いながらも、少しだけ、子どもの手の力が緩くなる。よし、この隙だ。


「ぽ、ぽっぺん、あげます」


違う。
あげるのは駄菓子だし今はもうそれはいいし、ぽっぺんについてはその所在を知りたいのだ。なんてことだ。今際のきわの言葉がそれか。遺言がそれか。辞世の句がそれか。なんてことだ。死にたい。あ、今まさに死ぬとこなんだった。


「……は?」


子どもの呆気にとられた声がする。そしてもう一段、力が弱まる。それでも窒息しそうなのは変わらないけど、私は今の言葉を訂正しようともう一度声を出した。


「よ、ヨ、グル、おいしいよ……」


ダメだ。またダメだった。これはきっと、脳味噌に酸素が足りていないのだ。

この子どもがおうちに帰るまでに私の言葉を忘れてくれますように。なーんて祈ったところで、ああ、お迎えが来たみたいだ。

遠退く意識、遠退く感覚、世界が暗転。

さよなら、私。
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