空気が悪かった。今すぐ山にでも行って新鮮な空気を吸いたいくらい空気が悪かった。

しかしながら明陀の本山には悪魔が出やすいから近づきたくないし、ぱっと思いついた鞍馬山には、妙にゴタゴタしてて胡散臭い鞍馬寺と水神を祀る貴船神社、愛宕山には京都の鬼門を守る火伏せの愛宕神社が聳えている。やだ、わたしの行動、結構制限されてる。

以前も今も、わたしの体というか器というかがジンであることには変わりがなく、今まで実害がなかったのに突然『火の眷属である』ことを気にし出したところで何の意味もない。のだけど、何事もそうと知るなり無駄に意識してしまうものだ。
自分の体が悪魔のもので、祓われる可能性があることを知ってしまったら、やっぱりそういう『相容れない場所』にのこのこ出かけるのはどうにも気が乗らない。

まあそれでも、今はそんなところでもここよりはマシだろうと思う。ここマジ空気悪い。


「よーお、メアリ・アン下二級祓魔師殿」


よく見りゃまだふらふらしていた金造さんを、眠っている柔造さんと天敵宝生三姉妹のいる部屋にぶち込んで今度こそ出張所に戻ろうとした、矢先のことだった。
気さくに片手を上げて声をかけてきたのは、多忙を極めた数日のせいで既に懐かしさすら感じる山田くん(仮)。しかしその顔は、全く笑ってない。口角は一応上がっているのだが、額の青筋は隠しようもないし、目が殺意を帯びた光を放っている。

そう、問題はまだまだどっさり残っていたのだ。


「や、やま……霧隠さま」


そう呼ぶと怒られることを思いだして言い直したけれど、山田くん(仮)はこちらの言葉など特に聞いてもいない様子である。というかそもそも呼び名云々でなく、既に大層お怒りのご様子であるのだった。


「よくもまあ騙してくれたもんだなあ」


瞳孔が開いている。恐ろしい。路地裏でヤクザに絡まれている気分だ。京都も東京も、一本道を間違えるだけでアンダーグラウンドで参っちゃうね!……なんて、ふざけて煙に巻く権利はわたしにはない。絡まれる覚えは有り余るほどあるわけだし、身から出た錆、自業自得、きちんと怒られて誠心誠意誤るのが道理だ。

と、いうことを、わたしは五男に対しても考えていた。しかし結局うやむやにしてしまったことで、その覚悟も勇気も粉みじんに砕け散り、今じゃすっかり逃げ腰なのである。


「だ、黙ってはいましたけど、騙したわけでは……」


そうは言っても山田くん(仮)は恐いので、もごもごと控えめに言い訳してみると、途端にぎろりと睨まれた。


「なーるほどなあ。ものは言い様だなあ?」

「すみませんでした大変申し訳なく思っております」


山田くん(仮)はどうやら、こちらに着いてから事情のほとんどを知ってしまったらしい。

でも実際には、正十字滞在中のわたしは自分が人間だと信じていて、でも対外的には悪魔と言うことになっていて、塾関係者には悪魔であるということを黙っていて、京都に帰ってきてみたら実際に悪魔だった、というひじょうに複雑な秘められた事情もあるのだ。そんな頭ごなしに怒られても困っちゃうんだ。

それを詳細にわたって説明したほうが、話がこじれてますます怒られるだろうけど。

と、判断してお利口に腰を直角に曲げて口を噤んでいたら、山田くん(仮)はチッと舌打ちをした。殊勝にしててもこれだ。許されるためには、たぶん三日くらいは奴隷根性を発揮しなければいけない。


「メフィストが直々にお前を雇用してたのも、それが理由ってわけか」


頭を下げたままじっとしていたら、不機嫌な声が投げかけられた。隠す理由もないので、素直に肯定する。

そういえば先日の林間学校でも、わたしと理事長の関係を聞かれたのだった。あのときはそういう状況でなかったから深く追究されはしなかったけど、山田くん(仮)はわたしに疑いの眼差しを向けていた。じゃあ今はどうなのかと思って顔を上げたら、サタンでも見るような目を向けられていた。恐ろしいので、すぐにまた頭を下げた。

ジェノサイドどころか公的機関に登録されるような前科ひとつないというのに、いきなりのビップ扱いである。悪魔だと知られるだけで、こんなにも生きにくくなるとは思わなかった。奥村兄なんてこの数ヶ月どれほどの苦労を強いられ……てはいなさそうだな。兄はどちらかと言えばばか……楽天的だし、実際にビップだからな。面倒も不自由も、力尽くで解決してそうだ。

それに引き替えわたしは、後ろ盾である志摩家から離れる度に、こうして社会的地位の低さを再認識させられるのだ。志摩家から離れられないことは、この数日でも散々思い知らされた。もう大体諦めた。しかしこれでは、年がら年中志摩の誰かに引っ付いてなきゃ健やかな生活が送れないといっても過言ではない。
だったら当然柔造さんがいい。五男は論外だ。柔造さんがトイレに行ってる間は、仕方ないから金造さんでもいい。

なんて悶々と考えてたら、下げていた頭をすぱんとはたかれた。さすが山田くん(仮)、容赦がない。


「ああーっ!ったく、お前らはどうしてこう次から次へと厄介事を……!」

「そんなに厄介なことではないはずなんですが」


痛む首と肋骨をさすりながら弁明しようとしたら、即座に両断された。


「充分に厄介事じゃいボケ!」


はっきり否定されても、そんなはずはないと思ったけれど、血走った目で頭を掻きむしる山田くん(仮)が恐かったので黙ることにした。さっきの五男といい、徹夜明けの出張所内の様相といい、祓魔師っていうのはみんな悪魔に片足突っ込んでると思う。

大体、さっきも今も、現在地は虎屋旅館内だ。現在旅館は緊急休業中で、館内にいるのは京都出張所の祓魔師ばっかりだ。一応大抵の人は顔見知りだ。それでも、誰も助けちゃくれないのだ。今なんて明らかに遠巻きにされている。悪魔だ。

ちらっと視界の隅を横切った人影を睨み付けると、案の定さっと目を逸らしてそそくさと立ち去られた。あいつ確か、柔造さんの隊のひとだ。後でチクってやるから覚悟しとけ。


「それで、お前はメフィストの野郎となんの取引をしたんだ」


ふいにそんなことを言われたので山田くん(仮)に視線を向けると、自慢の胸の谷間から自慢の魔剣の柄頭がぞろりと覗いていた。

ま、待て待て待て。


「やま、霧隠さま、それは一体どういう」

「どういうもこういうも、お前が一番よくわかってるはずだけどなあ」


何をだ、と言いたいとこだけど、ぼんやりとわかっている。山田くん(仮)は理事長を信用していない。それどころか疑っている。利害の一致する間は利用して見逃してやっているけど、尻尾を掴んだら即座に告発する気なのだ。まあ、理事長だって腐っても悪魔だし、確かサタンの血筋だ。山田くん(仮)にしろほかの祓魔師にしろ、怪しい動きを掴んだところで何ができるんだろうと思わないでもないけど。
ともあれ、そんなふうに疑っている理事長が、悪魔という身分を隠して祓魔塾と関わりを持っていたわたしの雇い主なわけだから、当然のようにわたしも疑われているのだ。


「……別に、なんの取引もしてないです」


慎重に答えたら、山田くん(仮)は一瞬で魔剣を完全に引き抜いて、剣先をわたしに向けた。え?ちょっと、え?気が短すぎない?


「だったらなんでお前は祓魔塾にいた。どうして悪魔であることを秘匿していた。メフィストがわざわざお前を手元に置いていた理由を、お前は理解してるはずだろう」


理事長は単純に楽しんでただけだ。いや、ジンという奇妙な悪魔の観察という思惑もあっただろうけど。
しかしそれらは理事長のごく個人的な都合であり、山田くん(仮)たちが不利益を被るようなことではない。例えわたしを利用する思惑があったとしても、結果的になんの利用方法も思いつかなかったはずだし。別にそのことについて悲しいとかは思ってない。断じて思ってない。

そしてわたし自身の都合はと言えば、……身内の恥なので、あまり言いたくはない。が、誰も助けてくれないから、自分の身は自分で守るしかない。


「わたしが祓魔塾にいたのは、五男のお守りのためです」


鋭く光る魔剣の切っ先を意識しないようにしながら答えると、向けられた刃ががくっと傾いた。


「ちょっと待て。……お前の言う五男ってのは、志摩のことでいいんだよな?」

「そうですね。親からは廉造という立派な名を与えらているにも関わらず、人として恥ずかしいまでの私欲と煩悩の塊の、志摩くんですね」

「……お前が志摩に抱いてる個人的な恨みはどうでもいいが……どうりであいつの歯切れが悪いわけだ」


どうやら、五男にも事情を聴取したけれどうまくいかなかったらしい。まあ、自分で言うのは更に恥ずかしいし、そもそも冷静に何かを考えられる精神状態でもなかっただろう。

山田くん(仮)は頭の痛そうな顔をしてから、再び口を開いた。


「もしお前の言うことが本当なら、志摩の使い魔として振る舞えばいいだけのことだろうが」


無茶を言いなさる。
なんというか、とっくに終わった議論を蒸し返されている気分だ。事情を知らない人に、事情の全部を説明できないまま詰問されることほど面倒なことはないようだ。


「志摩家は、家系的に手騎士がいないんですよ。縁あって志摩家に拾っ…お世話……仕えている、身ですけど、正式に契約してそうなったわけじゃないから出っぱなしなんですよ。人型で。邪魔じゃないですか」

「燐の猫又みてーなモン、ってか」

「まあ、不本意ですけど、そうです」

「……なら、メフィストの奴がお前を学園に受け入れた理由はなんだ?悪魔であることを隠させて、わざわざ燐の近くに置いた理由くらい、お前にだって考えられるだろ」


なんだか、ひどく知能面に不安を持たれている気がする。自分で蒔いた種ではあるけど、そんなにいつまでも引き摺らなくたっていいのに。


「ただの暇つぶしだと思います」

「ハアァ?」

「そうやって語尾をこれでもかと上げたくなるのもわかるんですけど、悪魔って基本的に快楽主義だから、わたしに対して蔵王権現みたいな顔を向けられても困っちゃうんです」

「オイ」

「はいすいませんちゃんと順を追うので剣で首をひたひたするのはやめてください。ええと、あー、その、わたし志摩家に拾われる前、なな…七千?七百?とりあえず、蓋開けた途端に酸化しなかったのが不思議なくらい結構長期間密閉保存されてたらしくて、悪魔としての記憶も朧気で、暗い過去を背負ったミステリアスな美少女ポジションが狙える立ち位置だったんですよ」


勢いでぺらぺらと口走ったものの、自分で言っていてちょっと悲しくなった。美少女かどうかはさておき、わたしが振る舞い方に気を付けていれば、本当に狙えたかも知れないポジションだ。
それは確実に、『志摩家のジン』であるしかない今の立場よりずっと自由だったはずだ。


「……それをメフィストが面白がった、ってわけか」


突っ込みはなかった。ただ、呆れた目だけが向けられた。


「……まあ、そうだと思います。奥村兄と同じ寮に放り込まれたのも、ただ面白かったからだと思います」


わたしがいることで、兄の悪魔としての能力が開花するとか、そういうわけでもないのだし。どちらかと言えば、兄の炎に感化されてわたしがジンとしての勘を取り戻すことを期待されていたと思う。

というのを、後半は隠して山田くん(仮)に告げたら、しばらく沈黙がおりた。その間も、気まずそうな顔をした出張所の祓魔師連中が離れたところを通過していった。本当に薄情。

やがて山田くん(仮)は、面倒臭そうに魔剣をしまって長い溜め息をついた。


「ひとつ確認したい。お前自身は、メフィストに与する気はないんだな」


そんなの、考えるまでもない。


「わたしは志摩家の悪魔です。まあ、不満がないわけじゃないですけど。でも、いつか何かが起こって、肩入れする相手を選ばなきゃいけなくなるとしたら、必ず志摩家を選びます」

「……わかった」


よかった。これで、一つの試練は突破できたらしい。山田くん(仮)の説得はどうにか済んだ。当分風当たりはきついだろうけど、常に背後を狙われ続けるとか夜ごと釘を打たれるとか、そういう事態は回避できたはずだ。

ほっと胸をなで下ろしていたら、むずっと襟首を掴まれた。


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