志摩父の頼みに頷いた翌日、正十字学園理事長からの返答により学園内への引っ越しが決まった。さすが志摩父、仕事が速い。

詳しいことは直接会って説明していただけるそうで、先方の都合により一週間後に機会を持つことになった。

正直なところ、そんな過密スケジュールかっこわらい、の中、わざわざ来ていただかなくても結構だと思っている。

だってわたしは、ジンを自称し身元を詐称している人間だ。もし本当にジンならば人より悪魔に近いはずで、同じ悪魔にはわかるはず。理事長殿と面会すれば、何かしら気づかれてしまうかもしれないのだ。

まあ、誰かがバラしてくれちゃえば自分の首を絞め続ける必要もなくなるけど、今でさえ志摩家以外からは紙っぺらのようなものしかない周囲からの信用は地面を抉って地核まで落ちる。

家もなく職もなく戸籍もないわたしは、結局のところ祓魔師という存在と志摩家に頼るよりないのだ。

働けどもニート、という言葉が頭をよぎって、なんだか空寒さを覚えた。笑えない。

けれどわたしは、『ジン』だから路頭に迷わずに済んでいる。あっさり拾ってもらえたのも、過去や身元の追求がないのも、周囲がジンと信じているからだ。
ジンだからニート。だけど人だったらニートにすらなれない。ただのホームレスだ。

要するに、今のわたしの生活は、ジンであるという虚言に支えられている部分がひじょうに大きいのだ。

ジンでないと暴露されては、わたしの今後が危うい。刻々と迫る面会の日を前に、どんどん気が重くなっていく。

約束の日まであと二日の今日、わたしはストレスで腹を下してトイレに籠もった。

不可抗力であるとは言え、これはそれなりに危ない行為だった。

ジンであると公言してしまったことで、生活の保障と同時に与えられた制約。その一つが排泄行為なのだ。

物質界と虚無界と銘打っている通り、虚無界では、まあ実体はあるっちゃああるけど物質界とは違うだ何だとかで、排泄行為の必要がない。らしい。

ジンもだろ?とか聞かれても、知らねーよどちらかって言ったらわたしも物質界の生き物だよ、としか答えられない。

しかしまあ、虚無界のことなぞわからねど、常識的に考えてジンにはないだろう。何しろ精霊だ。ない。

肉体があるが故の『生理的欲求』というものが、精霊であるジンに生じるのはおかしいのだ。

志摩家の面々は、ジンでも悪魔でも物質界にいる時には一応肉体があるようだから、食事や睡眠に関しては必要かどうかはともかくとして『出来る』ことなのだと捉えているらしい。だから、それらは一応与えてもらえる。

しかしながら排泄に関しては頑ななまでに否定的だ。

食うもの食ってるんだから出るものも出るに決まってるだろ蒸発してるとでも思ってるのそれともマナか何かになってると思ってるの。

彼らがジンにどんな夢を見てるのかは知らないけれど、それはアイドルがトイレに行かないのと同じ幻想だ。

そう思ったけど、怪しまれたら終わりなので、言えない。

とにかくそんなわけで、わたしはトイレには『用がない』存在だと思われている。そうでなければならないと、暗黙のうちに鋳型にはめられている。

しかし、健全な人間である以上行かないわけにもいかない。

つまりわたしは、トイレにいるところを誰にも見られないようにしなくてはならない。

大抵は、誰も家にいない時間を狙って使用している。誰かが休日で家にいるときは、公園や駅に出掛けてこっそりトイレに入っている。

我ながら涙ぐましい努力。しかしやっぱり今更人間ですなんて言えないから、堪えるしかない。

そうして数ヶ月にわたり周囲を欺き続けてきたわけだが、やむを得ず駆け込んだ今は昼食時。運が悪いと、誰かが家に帰ってくる。

でも、そう毎日のことではないから、本当に運が悪ければの話だ。大丈夫だろうと思いつつも、誰もいませんように、と不動明王やトイレの神様に祈りをささげて扉を開ければ、そこにはお約束のように四男が立っていた。

おい神様。


「志摩四、アホ面下げてどうかしました?真っ昼間から自宅でふらふらとは良いご身分ですねニートかよ」


わたしは思考が吹っ飛びそうになるのをなんとか抑えて、言葉も出ないほど驚いているらしい四男に一息に言い放った。これで気を逸らそうという試みだ。

が、逆効果だったようで、がしりと両肩を掴んで恐ろしい形相で顔を覗き込まれた。


「いやいやニートはメアリやろ。いや違うわ。何?え、何やの?メアリ、今厠から出てきてんな?え?メアリ今何してたん?」


さらっと、日頃四男がわたしをニートだと思っていることが発覚した。言い返せないのが悔しい。

しかし、見事なまでの混乱具合だ。ものすごい勢いで飛び回るクエスチョンマークの幻が見える。


「あー…の、えーと……」


ひどい混乱状態の四男と比べたら冷静であるとは言え、わたしも相当焦っている。
うまい言い訳が思いつけなくて、あーだのええとだのの感嘆詞を並べ続けてどうにか場を保たせるしかない。いつもならハッキリしろと怒鳴りそうな四男も、一緒になって感嘆詞を並べる簡単な作業をしている。


「あー……えっと……」

「あ?え?なん……え?」


埒があかない。

わたしは必死で脳みそを動かして、とにかく何か、とろくに考えもせずに口を動かした。


「やっ、てみたらですね、できたんです!」


何がだ。

頭を堅いものに打ち付けたい衝動に駆られて、けれど四男に押さえられたままのわたしはふっと目を逸らした。

やってみたらできたって。一体なぜやろうとしたんだよ。お前もっと他にやらなきゃいけないことがあるだろ。ジンの力を取り戻すとかそういうさあ。どうせやるなら、小さくなって壷に入れるかやってみたらいいじゃん。何でそんなしょうもないことしたの?

多分、その辺は言われるだろう。試験の山張りは得意だったのだ。……それがどうした。駄目だ、混乱している。

あーあ、うわーあ、と口の中でもごもご呟いていたら、ふいに四男の手の力が少し緩くなった。


「そ、そか……やったらできたんか……や、やるやないのメアリ」


四男 は ますますこんらんしている

けれどわたしも正気になる余裕がないので、まともな返事など浮かばない。


「け、結構頑張ったのですよ。これは、あれです。なかなか奥が深い」

「お、おお、深いやろ。見本もなしにようやったな」

「な、何となく、出せばいいのかな、と」

「な、なんやそんなんでやったんかい。ほなら今から手本見せたろぉな」

「や、ちょ、いやあんたそれはテンパりすぎだよ駄目だよやめてよ」


はははと笑い、わたしの腕を掴んで一緒にトイレに入ろうとした四男を、足を踏ん張って必死に止める。

四男は足を止めたものの、見るからに顔色が悪い。きっとわたしも悪いだろうけど、種類は確実に違う。


「あの、」


どう言い繕えばいいのかはわからないけれど何か言わなくては、と口を開くも、やっぱり先が続かない。

二人して床を睨んで黙りこくる昼下がり。

ああ、普通の女の子に戻りたい。


「……なあ」


重苦しく長い沈黙を先に破ったのは四男の方だった。
先ほどまでより、幾分か落ち着いている。

もしかして、冷静になって会話がおかしいことに気づいたのか、と嫌な汗が背中を滑る。


「やってみたら、できたんよな?」

「はい」


こうなったら行けるとこまでしらを切り通すしかないと、わたしは即座に首を前に倒す。

四男は片手を口元へ持って行き、考え込むようなポーズをとった。
それからしばらくして、それって、と続ける。


「やってみたら、ゲロとかも吐けるん?」


良かった。四男の混乱は、まだ解けていない。


「吐けます。……多分」


頷いたものの、意識して吐けるわけではないので多分、と付け加えた。

四男は、ずいっと詰め寄ってきた。


「食うたもん元の形で出したりできるんか?」

「それは……さすがにちょっと……一応食べてるんで」

「さよか。非常食にはならへんのやな」


非常食。混乱しているにしても、ひどい思考回路だ。

例え本物のジンにそれができたとして、噛み砕かれて胃に入ったように見えるものを後で出してこられても気分悪いだろう。

四男のぶっ飛びっぷりに少し頭が冷えて、相手を心配する余裕ができた。頭は平気か。

哀れみの目を向けていたら、また下を向いて考え込んでいた四男がぱっと顔を上げた。

さっきよりもまともな顔つきをしている。もしや正気に、


「やってみたら、生理にもなれるん?」


戻っていなかった。


ゲロもそうだけど、何の目的でそういうことを聞いているんだ。

いや、多分本人もわかっていないのだろう。思い付くままに、何となくそれっぽいことを口にしているだけなのだ。

あまりの混乱具合に、わたしの心に罪悪感がのしかかった。


「なれます。ムダ毛も伸ばせるし通風にもインフルエンザにも日本脳炎にもなれます。だからとりあえず、甘いものでも食べて落ち着きましょう」


優しくそう言えば四男は頷いて、わたしたちは連れ立って近くの甘味処へ向かった。
四男の混乱は、店を出るときまで収まらなかった。


その晩の志摩家家族会議で、わたしは嘔吐の実演をしなければならなくなった。

すげーすげーと喜ぶ兄弟に、極限状態だ、と思った。
人は人にしか優しくないのだと、わたしは泣きながら口を濯いだ。

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