「おーし二限始めるぞー。号令ー」
「きりーつ、きをつけー、れー、ちゃくせーき」
「今日…は、雨だから欠席いち、と……」
「せんせー、みょうじさんいまーす」
「は?そんな先生騙されな、…おぉおみょうじどうした!具合でも悪いのか!?」
「教職者の発言とは思えんな」
賑やかな教室。
ぬくい空気。
明るい世界。
あれ以来、わたしの冬は動いている。
ふゆをまつひと 4決まった時間に家を出ると決めてからまだ二週間ちょっとだけれど、それはしっかりと確実に体に染み着いている。習慣づいている。
つまり、そういうこと。
仁王くんに会うことで何かが変わると期待していたけれど、最初に遭遇した時点で既に変化は起こっていたわけだ。
動き出した冬は止まらない。
例え今後彼に会っても会えなくても、関係ない。単なるオマケのようなもの。
それは本当は最初から明白なことだったけど、仁王くんという存在は判然とした変化で、非常にわかりやすくて、ついつい求めてしまって。だけど、まあやっぱり彼は切っ掛けにすぎないんだよね、と先日の友人との会話で気付いてしまった。
変化するのはわたしの日常。わたしの日常を作り、支配するのはわたし。故に変化したのはわたし。
要するに、受け止め方ひとつで世の中は変わるんだぜってことを、わたしは深く学んだのだ。彼という特異点の存在で。
会えたら嬉しいけど、別にもう会えなくても構わない。だけど、どうであっても感謝はしている。そんな一方的な、わたしと仁王くんの関係。
一方的な、関係。
だった。
「……よお、お早うさん」
なぜか今、わたしの目の前に仁王くんがいる。まるで知り合いのように、寒々しい素肌の片手を上げて挨拶している。
前に二度、見かけたときと同じように大判のショールのようなものを巻き付けて、相変わらずそれ以外の防寒具はない。それどころか、防御力は以前より落ちている。今日の彼は、ブレザーなしのカーディガンだけという、皮下脂肪を過信しすぎた格好だ。
傍目に見ても判るくらい、仁王くんは細身だ。運動部のアイドルだから筋肉はそりゃあすごいだろうけど、それはつまりほんとに全く全然、頼るべき脂肪なんてないってことだ。寒い。寒すぎる。
「凍神がなぜ牛の姿だと思っているんだ……!」
「……は?」
「ファンタジーじゃないんだ、いや、ファンタジーですら貴方よりは賢い、もっと厚着を……!」
「……おお、すまんな」
全然申し訳なく無さそうに仁王くんが言う。寒さからか声が出るまでに多少の間があって、出された声には温度も感情もなくて、ますます寒々しさが増す。あ、でも仁王くんは低血圧でもあるのだっけ。じゃあ原因がどちらかはわからない。そう思ったら少しは和らいだ気がしたけど、その程度では根本的な解決にならない。
……仕方ない、不本意ではあるが、心底不本意ではあるが、わたしの手袋を貸してあげよう。
と一旦は思ったものの、それは気持ちの問題でなく実際に肌が冷気に晒されることになる。たかが手先と侮ることはできず、やはり躊躇してしまう。でも、仁王くんを見ていると手どころか全身が寒くなる。体の回り360度どこにでも存在している冷気が、もの凄く存在感を増す。
カレー味のウンコとウンコ味のカレーという究極の選択よりも、更に深遠で複雑な選択に寒空の下でたっぷり一分も唸って、わたしは諦めて手袋を外した。というか、カレーについては別に究極でもなんでもないけれど。だって味がなんだろうとカレーはカレーでウンコはウンコで、迷う必要もない。
「わたしはカレー派です」
ずいっと、人肌に温もった手袋を差し出しながら口を開いたら、ついそう言ってしまった。我ながら失敗したな、電波っぽいこと言っちゃったなと思っていたら、仁王くんは迷いなく会話を繋げてくれた。
「……俺は餓死を選ぶなり」
「なんと」
初めて声を掛けたときもそうだったけれど、よくよく考えたら仁王くんってすごい。エスパーだ。エスパー仁王。あ、ちょっと惜しい。
きっと仁王くんは、ここで突然「唐辛子ハンバーガー食べられる?」とか訊いても、ちゃんと正しい答えを返してくれるだろう。そんな気がする。
でも、そういうことをし出すとキリがない。これ以上寒い思いをするのはごめんなので、脳味噌のその辺の領域にシャッターを下ろして必要なことだけを口にした。
「見ていて寒いので、わたしも寒いのだけど、貸してあげます」
そう言うと、仁王くんは一瞬固まって、わたしの顔と手袋を交互に見た。……ような気がした。いやだって、相変わらず目元は見えないし、ほとんど動かないし。
ちょっとそうやって迷うようなそぶりを見せてから、仁王くんはわたしのモコモコの手袋を受け取った。
その手は見るからにガチガチでガサガサであかぎれもあって痛々しいほどで、そして、男の人の手だった。
背も高いし、細身とは言ってもがっちりしているし、手が大きくてもなにもおかしくはないのだけれど、わたしはそのことに少し動揺してしまった。ハンドクリームもオマケに渡してあげようかと気を回すこともできないくらい、動揺してしまった。
「……お前さんには貰ってばかりじゃのう」
「あげませんよ。学校着いたら返してください」
手袋をはめて握ったり開いたりする仁王くんにそう返しながら、不自然な動悸が止まらない。
今まで寒々しさにばかり目がいって意識していなかったけど、仁王くんは大きい。
体が大きいだけでなく、雰囲気も大人びている。高校生どころか大学生と言っても通じるんじゃないだろうか。それが何、と言われそうだけど、わたしにとってそれは、ひどく緊張することだ。年上の人と話すことなんて、全くと言っていいほどない。いや実際には仁王くんは同い年だけど。でも、気分としては大学生になったお兄ちゃんとお話をしているあまり親しくないハトコ、のような感じ。もの凄く、緊張する。
「……学校に着くまで、か」
悪感情ではないけど居心地の悪さを感じていたら、しばらく掌をぐーぱーしていた仁王くんがぽつりと呟いた。残念ながら、わたしは仁王くんのように話題を的確に読むスキルを持ち合せていないので、その意図が掴めなかった。
「愛用なのであげられないのです」
そう言ったら、仁王くんが困ったように笑った。あ、笑った。
会ったのも数えるほどだし、顔なんて見えてて見えてないようなものだから初めても何もないけど、まさか笑ったところが見られるとは思っていなかった。
ほとんど見えないし、苦笑だけど。
「……欲しいと思っとるわけじゃなか。学校まで、っちゅーことは、一緒に行かなきゃならんちゅーことぜよ」
「おお」
確かにそうだ。そういうつもりで貸したのではないけれど、結果としてはそういう状況を作りだしてしまったことになる。
立海の黒真珠に随分と押しつけがましいことをしてしまった。だけどそういえば、手袋を受け取るまでに間があった。もしかすると、あの時点で既に仁王くんは気付いていて、まあいいかと思ったから受け取ってくれたのではないか。
試しに少しだけ、一緒に行こうぜ戦友! みたいな顔を向けてみたら、仁王くんはピースサインを返してくれた。やっぱり、そうだったらしい。そうわかったら、今の今まで緊張していたせいもあって、思い切り頬が緩んだ。
野良猫が頭を撫でさせてくれた、とか、隣のうちのお姉さんに飴を貰った、とか、そういうものに似た嬉しさ。
あ、そうか。これは少し、友達にも満たない程度だけど仲良くなれたってことだ。
「誰かと一緒に歩くのは久しぶりです」
笑いながら言ったら、仁王くんも笑って返してくれた。今度は苦笑とか失笑じゃなく、ほんとに、笑顔。
たぶん。
「……そうじゃの。朝に人と会うことなんぞ、ないと思っとった」
笑うと、仁王くんは少しだけ子どもっぽくというか、雰囲気が年相応になった。それがまた嬉しくて(あ、これはきっと仲間意識ってやつだ)、歩き出した仁王くんの後をついていきながら、ポケットから両手を出してにやけた顔を押さえる羽目になった。
のっそりと歩いているイメージのあった仁王くんだけど、今日はやけにしゃきっとしている。無言で一緒に歩きながらそれが気になって、少し足を速めて斜め後ろ、くらいの位置につく。
そうしたら、なんだか妙に楽しそうに手袋はめた手を叩いたり絡めたり握ったりしていたから、愛用だからってけちくさいことを言ったわたしは愚か者な気がしてきた。
もしももう一度会えたら、手袋をあげよう。
しかし、仁王くんは何かポリシーがあって最低限の防寒具しか身につけていないと思っていたのだけれど、実はそもそも所有していないのだろうか。だとしたら、由々しき事態だ。
縛りプレイで布の服とひのきの棒でラストまで行くか、ふざけて装備していたエッチな水着を外し忘れてラスボスに挑んでしまったか、というくらいの差がある。
なんて命知らずな人なんだろう、と思っていたら、しばらく黙っていた仁王くんが徐ろにこちらを振り向いた。
「お前さんだったんじゃな」
かけられたのは、そんな言葉。なんの脈絡もない唐突な発言に、やっぱり残念な技量しかないわたしは目を瞬かせた。仁王くんのように打てば響くような返答ができなくて、申し訳なくて眉が下がる。
「何がでしょう」
なさけなくもそう訊いたら、仁王くんは気を悪くした様子もなく答えてくれた。
「冬季限定重役」
一瞬何のことだかわからなかったけれど、つまりそれは、重役出勤という比喩表現。やはり仁王くんは聡明であられる。なんという会話スキルだろう。
「恥ずかしながらそうです。しかし聞けば仁王さんも同じようで、というかわたしより遙かに重役でVIPだそうで」
なんとなく、本人に向かってわたしが仁王くんと呼ぶのは相応しくない気がして、さん付けで呼んでみる。仁王くんはちょっと不思議そうにしながらも、頷いて返してくれた。
「まあの」
「知りませんで、とんだご無礼を」
「いや、こっちも知らんで、変なことを言って悪かったの」
「何かありましたっけ」
急に謝られて、身に覚えのないわたしとしては非常に驚いたのだけれど、驚かれた仁王くんは更にもっと驚いたようで、たっぷり十秒ほど考え込むように沈黙してから、「なんでもなか」と呟いた。
「……しかしお前さん、俺の名前は知っとったんじゃな」
「あ、はあ、いえ、あのあと友人に聞きまして……あ、知ってはいたのですがまさか銀髪イコール仁王さんという公式があるとは知らず」
まさかそうくるとは思っていなくて、ついつい本当のことを答えたら、仁王くんは目に見えて落ち込んでしまった。
「……バカ正直に答えんでええんじゃぞ」
「……面目ない」
「……いや」
ローカルにしろ他称にしろ、アイドルはアイドルなのだから名前を知られていないことはショックなのだろう。悪いことをしてしまった。でもだとしたら、知っていたんだな、という質問は、おかしい気もする。ううん、やはりわたしには仁王くんのような相手の意図を読み取るスーパースキルはない。芽生える気配もない。至極残念だ。
しかしまあ、わからないものは仕方がない。それよりも、せっかく会話が続いていたのにわたしの無神経な発言でそれが途切れてしまった現状が、よろしくない。申し訳ないと思うのならばこの空気を打破するべきだ。
何を言うべきか迷って、わたしはふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
「しかし、なぜ仁王さんはあそこで」
わたしを待っていたんですか、と続けようとして、詰まる。
何を言おうとしているんだ、わたし。
確かに通学路の真ん中で立ち止まって、よう、なんて感じに手を挙げてはくれたけれど、待ってたわけでなくともそういう反応はするだろう。偶然見かけて、誰か来るなと思ったら見覚えのあるバナナ女だったから声を掛けてみた、とか。ついでに、勘違いか何かのようだけど、謝っておこう、とか。普通だ。
丁度タイミングが良かっただけで、作為的な行動ではない。きっとそれが正しい。そりゃあそうだ。何しろわたしと仁王くんは、友達ですらない。
何がどう作用してそんな勘違いしたんだろう、わたしは。言い切る前に気が付いて良かった。
そう結論が出たから、結局、違うことを口に出した。
「今日は、いつもより早いのですか。遅いのですか」
仁王くんは当然、わたしが言い淀んだことに気が付いていたから少し怪訝そうにしたけれど、それについては何も言わずに肩を竦めた。
「……どうじゃろうな」
「よいですね、時間制限がされていないというのは……。わたしは一限中までしか猶予が無くて、この時間でだいぶギリギリです。羨ましいです」
「この時間じゃとまだ寒いんにのう……」
「そうなんですよね。せめて10時を過ぎないときついですよね」
当たり障りのない会話。遅刻同志の会話として、これ以上ないくらいに適切な会話。
それを持ち出したのは自分で、笑いながら言葉を繋いでいくのも自分だけれど、さっきまであった高揚感が、綺麗さっぱり消えてしまった。
わたしと仁王くんはただの遅刻者同士というだけで友達ですらないんだ、という事実を、改めて実感してしまって。
仲良くなれたかも、なんて浮かれていた気分は、どーんと奈落の底まで落ちてしまった。
上げて下げるなんて、仁王くんもやるなあ。
あ、いや、自分でやったのか。
表面上は普通に話し続けながらも、気を抜いたら溜め息をついてしまいそうな気持ちでひたすら足を動かしていたら、ついにようやく、見慣れた立海の門が目に入った。
そろそろ仁王くんともお別れだ。名残惜しい気もするけれど、わたしと彼の関係性を思い知らされるこの会話が途切れるのは有り難い。
そう、思ったところで。
ひとつ、気が付いた。
そういえば、仁王くんに、会った。
それは、とてもとても、宝くじに当たるくらい珍しいことだったはず。
会うのは、もう三度目。
なんだ、これ。
あれ、本当に、これは大したことじゃなかったのか、それともわたしと仁王くんの間に何かがあるのか、あれ、あれ、あれ、
「みょうじ」
頭が上手く働かなくて、ぐるぐるして、視界もぐるりと回っている気分になっているわたしの耳に、仁王くんの低い声が響いた。
え、あれ、いま、なんで、
「は!?」
思わず、叫んで返してしまったわたしに、仁王くんはにやりと笑って近づいて左手を引っ張った。そうして外したばかりの手袋をそこに載せると、その手を今度はぽんと頭に置いて、くしゃくしゃとわたしの髪をかき乱す。
「俺のことはさん付けせんでもよか。敬語も、やめんしゃい」
「え、あ、はい」
「ほいじゃあの」
そう言って、固まるわたしを置いて、仁王くんは昇降口に行ってしまった。
「………………名前、知ってた」
そのことに意味なんてないのかも知れないけど。
それは、なんというか、不意打ちで。
返却された手袋をはめることも忘れて、わたしは北風の中で突っ立っていた。
手袋にはまだ、仁王くんの体温が残っている。
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