興奮を抑えきれなくて、側溝の蓋をどすどすと踏みつけながら、いつもの道を辿る。



がっこんがっこんと鈍い音が大きく響いて、犬の散歩をしているおじさんに迷惑そうな目を向けられる。



いつもより早い時間というだけで具体的な時間を示されなかったから、普段より一時間ほど早くに家を出た。

学校の授業は五十分だから、一限に間に合えばいいと言われているわたしに付与されている猶予も一時間ほど。



つまり今は、走らなくても始業に間に合う時刻。

家の周囲では立海生も見あたらないけれど、黙々と進めば遅刻ギリギリの生徒たちと校門近くで鉢合わせるはず。



普段を考えれば異常なことだ。



今日は三寒四温の寒の日で天気が悪く、昨日までと打って変わってまた真冬のような寒さになった。



ますますおかしい。有り得ない。だけど、わたしはきちんと布団の魔手から逃れてきた。



楽しいことがあると、些細なことなんて気にならなくなるのだと改めて思う。

はしゃいでいると、動かなくても体が温まるのだなと初めて気付く。



それに、今日は物理的にもいつもより暖かいのだ。



昨日まで毎日わたしの首に巻かれていた毛糸のマフラーは、ハンガーに掛けたまま家に置いてきた。



今わたしの首元を冷気から守っているのは、青や緑に茶色の格子模様が入った、毛織りのストール。



これって見かけによらず随分と暖かかったんだ、なんて思いながら、元気よくがこがこと音を鳴らして進み続ける。



寒い、だけど楽しい。

暗い、だけど清々しい。



がこっとひときわ大きな音を辺りに響かせて角を曲れば、期待していた姿が見えて顔中に感情が集まるのがわかる。待たされたって構わないと思って来たけれど、すぐに会えればやっぱり嬉しい。同じ事を考えていたんだなと思うと、こそばゆくも誇らしくて余計に顔が緩む。



派手な音を立てて歩いていたわたしの存在に当然向こうは気付いていて、こちらが気が付くのと同時かそれよりも早く、ぎくしゃくと片腕を上げて合図を寄越してくれた。




「おはようさん」




寒々しい空の下で晴れやかに笑った彼の体には、色違いのストールがぐるぐると巻き付けられている。













ふゆをまつひと

3.15

















「おはようございます」




小走りに近寄りながらそう言えば、仁王くんは笑って「おう」と返してくれる。心がますます暖かくなる。なんて素晴らしい朝だろう。ラジオ体操よりも希望に満ちあふれている。たった一言でここまでひとを幸せに出来る仁王くんは、早朝の戦隊ヒーローよりも格好いい。



だらしない笑顔のまま隣に立ったら、仁王くんは塀に寄りかかっていた上半身を真っ直ぐにして伸びをした。




「ほんじゃ、行くか」




さも当然の流れのように言われて、わたしはうっかり頷きかけたけれど、ちょっと待てと思い留まった。おかしいな、ここへ来る時間については仁王くんと同じように考えられたのに、今の発言の意味は理解できない。やっぱり、わたしと仁王くんでは基本スペックが違いすぎる。




「どこへですか?」




自分の不出来さにへこみながら尋ねれば、仁王くんは聞き返されたことにきょとんとしてしまった。



ああ、やっぱりわたしは不出来だ。お揃いのストールまでくれて、わざわざ早起きして時間を作ってくれて、もうこれは紛れもなくお友達である程度の意思疎通は出来なきゃならなくて、仁王くんもきっとそれを期待してくれただろうに、全く応えられない。




「サリエリはひどい男でしたが、所詮わたしも彼と同類です……!」



「お前さんは古くさい古典音楽家よかよっぽど才能があるぜよ」


今日も、仁王くんは寸分の狂いもない返答をしてくれる。やっぱりすごい、と思うと同時に、そんな仁王くんにお世辞を言わせてしまったことに項垂れてしまう。




「いいのですよ、心にもないことを言わなくても」



「本気なんじゃが」




心外だと言わんばかりの声音でそう返されて、わたしはついムキになってしまった。




「どの辺がですか」




やってしまった。お世辞だってわかっているのだから、突っ込んではいけなかった。そんな返事に困る質問、少しでも良識がある人間なら絶対にしないのに。



口にしてしまってから気が付いてひとりでオロオロとしていたら、仁王くんは腕組みをして真面目な表情になった。




「話術、じゃな」



「なんと」




言われた言葉があまりにも予想外で、わたしは目を丸くしてしまった。


話術、って、それは仁王くんの専門分野だ。いくら何も思い浮かばなかったからといって、それを挙げるのはさすがにどうなんだろう。ただのお茶目か、当てこすりか。前者だったら、わたしは華麗なお茶目返しをして、うやむやにすることに協力すべきだろう。



時間にしたらほんの僅かだけど頭の中では延々と迷ってから、何の取り柄も見つけられなかった仁王くんが、場を濁してこの話題をうやむやにするためにお茶目を言ってみたんだと結論づけた。ならば、やることは決まっている。




「やだー、におくんたらおちゃめー!」




ぺしん、と軽い裏拳を入れながらハイテンションでそう言えば、仁王くんは目に見えて固まっていた。これは、ドン引きしているのだろう。それはそうか。



どうやらお茶目ではなかったらしい。そして、さしもの仁王くんもさすがにここまでは付き合いきれないらしい。それはそうか。



スローモーションでそっと手を引き戻しつつ、わたしは仁王くんから一歩離れた。いくら嬉しいからって、興奮しすぎた。自分の言動も制御しきれないなんて、ドン引きされて当然だ。



すすす、ともう何歩か離れて逃亡しようとしたとき、硬直が解けたようで複雑そうな顔をした仁王くんに腕を掴まれた。


腕を、え、うわ、待って。あれ、なんでわたしはこんなに驚いてるんだろうか。




「あー……私は嘘をついたことがない、て言うたらええんかのう」




勝手に慌てていたら、仁王くんはぼそぼそと、ものすごく言いにくそうにしながらも、なんときちんと返事をしてくれた。言いにくいのは、そりゃそうだろう。タイミングを逃している。それでも返してくれるなんて、仁王くんは本当に優しい。



だけど、一度ドン引きしたのだから、やっぱりさっきの言葉はお茶目ではないのだ。じゃあ、今の言葉はただの適切な返答というだけでなく、仁王くんの本音なのだろうか。でもそう返せたということは、嘘をついたことがないのが嘘だということを仁王くんも知っているってことで、となるとさっきの言葉はやっぱりお世辞だとカミングアウトされたのか。



悶々と考えていたら、べしんと突然頭を叩かれた。力を籠められたわけではないから痛みはないけど、重たいものが頭に落とされた衝撃にびくりとして首をすくめてしまった。




「みょうじの話が面白いっちゅーんはほんとじゃ。女子と二人きりで話すんはあまり好かんが、お前さんとは楽しいぜよ」



「にっ、仁王くんの天然タラシ……!」




苦笑しながら言われて、わたしはついついそんなことを口走ってしまった。だって今の言い草は、わたしひとりが特別なんじゃないかと勘違いしてしまう。フォローも完璧。絶妙。そんなことをさらっと言っちゃう仁王くんは、タラシとしか言い様がない。



多分きっと、今わたしの顔は赤くなっている。

それを隠そうと、首にふわりと巻いてあるストールを引き上げて顔を鼻まで埋めたら、仁王くんがくつくつと笑った。




「惚れたかのう」




からかうような調子に、飄々と何でも見通しているいつもの仁王くんに戻ったのだと安心してほっとした。我ながら、自分のクラッシャーぶりには涙が出る。今度こそ仁王くんの言葉を正しく読み取って返事をしなければ、と背筋を伸ばした。




「大丈夫です。仁王くんはそれはそれは素敵な人ですけど、ここで惚れて仁王くんの恋路を邪魔するような野暮なまねはいたしません」



「…………………………ピヨ」




精一杯言葉を選んだつもりが、返ってきたのはなんとも複雑そうな声。なんとも不可思議な言葉が、なんとも意味深な間を開けて返ってきた。



どうやらまた失敗したようだ。そう悟って落ち込みながら、わたしはこれ以上ボロが出ないように一連の流れを強制終了した。




「ええと……それじゃあ、行きましょうか」



「…ほうじゃの」




心なし元気のない声で、仁王くんが頷く。本当にごめんなさいと心の中で何度も言って、わたしは歩き出した仁王くんの後を追う。



が、少し進んだ頃になって、そもそもの疑問を放置してしまっていることを思い出した。



「あの、仁王くん」


「どした」




足を止めて振り向いた仁王くんは、怪訝そうな顔をしている。どうやら、先の質問は仁王くんにも忘れられていたようだ。




「我々はどこへ向かっているのでしょうか」




先ほどと同じ質問をもう一度すれば、仁王くんは忘れていたと頭を掻いた。




「コンビニ」



「……コンビニ」




返ってきた答えのあまりの普通さに、思わず復唱する。そりゃそうだ。学校行く前によれる場所なんて、それくらいしかない。なんとなく、遅刻組のわたしと仁王くんが早起きして寄り道してから学校に行くという特異な状況に、行き先も特別な場所のような気がしていた。わたしの脳内は、だいぶお花畑だった。




「コンビニ寄ってホットスナックかおでんが、冬の風物詩なり」



「おお」




そういえばそうだ。なんて言って、わたしは学校の前後にコンビニに立ち寄ったことがほとんどない。寒さから逃げることで精一杯だったから。



あれ、じゃあこれも、これだけで、特別なことじゃないか。



そう考えたら途端にわくわくしてきて、へへへ、と笑い声を漏らしてしまった。昨日も今日も品のない笑い声を立てて、呆れられているかも知れない。そう思って少し不安になったけれど、仁王くんを見たら楽しそうに笑っていたので、すぐに吹き飛んでしまった。




「仁王くんは、肉まんですか」




ピザまんもあんまんも似合わないことはないけれど、肉まんを食べている姿が一番しっくりくる気がして訊いてみたら、仁王くんはまたピヨっと鳴いた。




「牛肉やったらもっといいんじゃがのう」



「コンビニに牛まんは少ないですよね…ええと、牛肉がお好みでしたら牛肉コロッケとか」



「……あれは肉じゃなか」



「そうですね肉風味のじゃがいもですね」




ようやくまともな会話が出来るようになってきて、二人で中華まん談義をしながらコンビニへ向かった。肉まんはセブンが良いとか、ピザまんならファミマとか、おでんの具には牛肉があるよ牛すじはファミマかローソンかとか、そんな話をしていたらきりがなくなって、店の中でも他のコンビニの話をしていた。



挙げ句、そんな批評をしてしまったものだから、じゃあそれぞれのコンビニを回ろうということになってしまった。最初に入ったセブンで肉まんを買って、それを頬張る仁王くんと一緒にファミマまで行ってピザまんを買って、口の中がぱさついたから飲み物を買いにセブンへ戻って。



そんなことをしていたら、いつの間にかわたしの登校時間ギリギリになってしまっていた。




「ただくっちゃべってぶらぶらしとるだけやったのう」




息を切らして走るわたしの隣で余裕げに併走している仁王くんが、徐ろにそんなことを言った。鞄はいつの間にか仁王くんが持ってくれていて、わたしは非常に身軽でただ走るだけなのだけど、日頃の運動不足がたたって返事をするのもキツい。



それでも、横目で見た仁王くんの顔がなんとなく残念そうだったから、わたしはどうにか声を絞り出した。




「た、楽しかった、です!」




仁王くんは一瞬目を見開いた後、にやりと笑ってわたしの手を掴んで走るスピードを上げた。



もうむりこれ以上走れない、と思ったけれど、案外学校近くまで来ていたようで、スパルタなマラソンタイムはすぐに終わった。ぜえぜえと乾いた呼吸をして、ここまで来たからにはもういっそ教室まで走るしかないだろうかと仁王くんの様子を窺えば、わたしの手首を握ったまま、昇降口に向かって歩き出そうとしていた。



今までは校門でさようならだったのに。それには理由があったんじゃないのだろうか。いいのだろうか。一緒に行ってしまっていいのだろうか。



ふらふらしながら手を引かれるままについていくと、下駄箱の前に来てようやく仁王くんの手が離れていった。それがなんだか名残惜しいような気がして、遅刻遅刻と考えて邪念を追い払った。



まだ息切れしたままのわたしに鞄を渡すと、仁王くんは自分の下駄箱の方へ体の向きを変えた。そうしたら、追い払ったはずの邪念がまた戻ってきて、わたしは必死で、あと三分でで遅刻、あと三分で遅刻と繰り返した。



扉を開けて上履きを取り出し、ローファーを突っ込んで、ああだめだモタモタしてたら間に合わない。そうだ、今のわたしは、ここまで一緒に走ってくれた仁王くんのためにも時間のことだけを考えなければ。



一度床に置いた鞄を持ち上げて、ラストスパートと駆けだそうとしたとき、下駄箱の棚の向こうから楽しそうな声が聞こえてきた。




「みょうじ、また明日な」




翌日も早起きが決まったわたしは、浮かれた気分のまま終業十秒前に教室へたどり着いた。


   

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -