ざくり。

霜を踏む。

ざくり、ざくり。

日陰を選んで、歩みを進める。

ざくり、ざくり、ざくり。

こんな時間に残っている霜も氷もごく僅かで。

ざくり。

それらは何だか、冬が姿を消しつつある『いま』を象徴しているようで。

ざく、

一足進むごとに春に近づいてしまう気がして、わたしはうまく前に進めなくなる。



日陰を選んで(冬に固執して)

歩みを躊躇って(季節の移ろいを拒絶して)

どこにも進むことができない(それでも立ち止まることを許してはくれない)



いっそ閉じこもってしまいたかったけれど、それはどうしたって独りでしかできないこと。

ならば閉じこもるのは返って無意味だ。



だからわたしは、進んでいる。

けれど本当は進みたくなどないから、じりじりと時間を稼いで、抵抗をしている。



わたしは冬の名残を、必死で手繰ってかき集めていた。

















ふゆをまつひと 7
















「みょうじ、遅刻」




教師の無情な宣告が、しんと静まり返った教室に響く。



わたしは一限の授業が終わるまでに入室すれば、その時間を欠課したことにはならない。けれど、二限以降の登校では出席十五分未満の授業は欠課扱いとなり、尚かつ遅刻の判も押される。

去年一年で平凡な一般学生にしては破格の待遇をもぎ取って以来、わたしは一限休みまでにはきちんと登校していた。だというのに、ここ五日ほどその定刻を守っていない。守る気がない。自ら、破っている。



そんなわたしの様子に、初日はついに大遅刻だなと笑っていたクラスメイトも今では心配そうな顔をしている。優しすぎる人が多いクラスだから、教室内にはずっと、奇妙な緊張感が溢れている。



すみません、と自分でもわかるほど覇気のない声で応えて、かたりと椅子を引く。鞄の中身を机の中に移して、ぼんやりと授業を受ける。防寒具は、付けたまま。

前後左右の席の人たちが今日も甲斐甲斐しく小声で注意をしてくれるけど、それには曖昧に笑って返した。きっと、まだ寒いのかなとかそういうふうにとってくれるはずだ。みんな、いい人たちだから。



心配してもらう価値なんて無い。だってわたしは、ただ我侭でごねているだけなのに。人の心に不要な負担をかけて、だけど反省する気もない。どこまでも自分勝手。



こんなことじゃいけない。何もかも、これではだめだ。わたしは間違ってる。

そうわかっているのに、動けない。進めない。進みたくない。



演歌のように生きたい。FFよりもドラクエの主人公になりたい。

そう思っているのに、できない。やらない。有言不実行。



ひとが迷うのは、未来のためだ。何か希望があって、期待を持っていて、その期待に添わない結果が生まれることを恐れて、迷う。



冬が終わったら会えなくなってしまうことで落込んだわたしがとれる打開策は、仁王くんと、春になっても会えるお友達になることだ。そのために、自分から仁王くんに会いに行くこと。



でも、なんとなく。理由をはっきりと言葉にできないけれどなんとなく、それは選んではないいけない選択肢のような気がした。



けれどそうしたら今度は、何をしたらいいのかわからなくなってしまった。だからこうして無理矢理冬に踏みとどまろうと、子どものように駄々をこねている。



わたしには、先が見えなくて、道が見えなくて、先へ進む勇気が持てない。











いつもの時間に家を出て、いつもの道をいつも以上にゆっくりと歩く。

俯いて、次に踏みしめる地面だけを見て、わざとペースを落として、小幅で、黙々、もくもく。


どこに続いているのかを探るように。

不明瞭な足下を、一歩一歩確認するように。

(結局何もわからないけれど)



前進する意欲を保つために雲の形を目でなぞったり猫の姿を追いかける必要は、もうなくなった。寒さに負けて世界から目を逸らしそうになることは、きっともうない。

でも今は、時の移ろいから目を逸らしている。出来る限り何も、目に入れないようにしている。



どっちもどっちだ。わたしはやっぱり成長しない。何も改善されない。

いっそ、違う道を進んでみたらいいのかも知れない。けれどもし選択を間違えたら、わたしの通る道は仁王くんの道と決して重ならなくなる。



淡々と単調に動き続ける足は、結局いつもと同じ道を進んだ。でもだけど、結局立ち止まる止まる勇気もなくて、わたしはちょっとずつ進んでいる。ここを進み続けたら、いつか別の場所に辿り着く。それは、一体どこなんだろう。



わからない。わからない。そんなに遠くの事なんて。目の前すら、見えていないというのに。



自分がこんなにも愚かで甲斐性なしで不甲斐ないとは知らなくて、ひどく落込む。今まで何かを深く考えたり、悩んだりということがなかったから、わたしは自分がそういう人間であることにさえ気付いていなかった。悩める青少年って、こういうことかな。漠然と想像したことはあったけれど、現実は随分と違うものだなあ。



悩むことに疲れて、ちょっとどうでもいいことを考えたりしていたら、いつの間にか視界に、自分以外の足が映っていた。

あまりにもびっくりして、わたしはつい、ぎゃっと悲鳴を上げてしまった。だって、わたしは本当に足下ばっかり見ていたのだ。俯いていたのだ。その視界に入っているということは、この足の主はものすごく近くにいるということ。ひい、恥ずかしい、いやその前に、ぶつかる。



急に体を止められなくて、当たるとわかっていながら足を前に出してしまう。ごめんなさいごめんなさいと頭の中でフライングで謝っていたら、ぽん、と両肩を軽く押さえて全身を止められた。



そして目に入る、灰鼠のスラックスと、見慣れたショール。



心臓が跳ねる、という表現が何を差しているのかを、わたしは身をもって知った。得体の知れない痛みと緊張が、全身に走る。




そうか、この道は





「みょうじ」




耳に心地よい声が、わたしの名前を呼ぶ。顔を上げなくても、笑っているのがわかる。




「きちんと前を見んと怪我するぜよ」



「におう、くん」





この道は、あなたに続いている





「おはようさん」



「お、おはようございます」




顔を上げれば、やっぱりにこにこと笑った仁王くんがいて。もう随分と暖かくなったから、寒さにかじかんだ硬い笑顔ではない。それを見てどうしようもなく嬉しくなって、わたしもつられて頬を緩ませた。



同時に、さっと頭の中の靄が晴れて、暖かな色の光が差した。



やっぱり何となく、いま遅刻仲間の関係を壊すのは良くない気がする、けれど。でも、道の先にいた仁王くんは、春の陽のような笑顔をしていた。冬の先にも、仁王くんに続く道があるのかも知れない。



いまのわたしに先なんて見えないけれど、春になったらまた別の道が見えるのかも知れない。今だけが特別で進んでしまえば悪くなると決めつけて、変化を拒んでしがみついていたら、きっと今さえも失ってしまう。



ただこのまま前を向いて歩けばいいというだけの、悩んでいた自分が愚かなだけの答え。

だけど、そう気が付いて、結論が出て、わたしは泣きたいくらいの清々しさと幸福感で仁王くんに抱きつきそうになってしまった。




「なんじゃ、朝から元気やのう」




それはさすがによろしくないと思って衝動を抑えたけれど、表情には出ていたようで仁王くんがくつくつと笑った。



普段だったら、おっとやっちまたぜと思って恥ずかしくなるところだけど、もうあんまりにも嬉しくて、わたしはへへへと品のない笑い声を上げてしまった。




「おっとごめんなさい今のは聞かなかったことに」



「何か嬉しいことでもあったんか?」



「ふへへ、いやそんなことは……ないけど、あったけど……へへへ秘密です」




忘れて欲しいはずなのに体中から溢れてくるむず痒い幸福感が抑えられなくて、それが声になって出てしまう。もういいやと開き直って、緩みきっただらしのない顔で笑っていたら、仁王くんの目も嬉しそうな色を帯びてきた。幸せは伝染するものだと誰かが言っていたけど、本当なんだなあ。




「ほーか。何だか知らんけど良かったな」



「へへへ、有り難うございます」



「そんなみょうじに、もひとついいことをプレゼントなり」



「え?」




目を細めて笑ったまま、仁王くんがわたしの頭を撫でた。これがいいことだろうか。いや、嬉しいけれど、どうして急にそんなことを。

突然の言葉にきょとんとしていたら、仁王くんはわたしの両手を持ち上げた。今日は、まさに春、といった暖かな日だけれど、その手にはも以前あげた手袋がはめられている。そのことに嬉しさとちょっとの気恥ずかしさを覚えていたら、ごそりと鞄を漁った仁王くんが両手の上に渡すように緑の包みを置いた。



びっくりしてそれを凝視したら、ふにゃりと柔らかな、きっと布製品がくるまっている可愛らしい包装紙に、真っ白なリボン。



これは、一体。



目を丸くしたまま固まっていたら、仁王くんは両手でわたしの顔を挟んで上を向かせ、もこもこした手袋でぽふぽふと顔を叩いた。




「今日はホワイトデーなり。その様子じゃ忘れとったよーじゃの」



「え、あ、」




忘れていた。すっかり忘れていた。忘れていたけど、でも、覚えていたとしても、きっと驚いた。



だって、仁王くんにお返しがもらえるなんて思ってなかったから。バレンタインにクッキーを渡す前も、渡したときも、そんなことは考えていなかった。それどころか、仁王くんと友達になっちゃおうぜとしか考えてなくて、うわあ、やだ、わたしとても自分勝手。それに引き替え、仁王くんはなんて優しくてできた人だろう。



恥ずかしさでちょっぴり顔が赤くなったのを感じて、わたしは誤魔化すように勢い込んでお礼を言った。




「あ、有り難う!ほんとに有り難う!い、いま開けても?」



「そんなに喜ばれたら渡した甲斐があったっちゅーもんじゃ。開けてもいいが、あんまりうかうかしとると遅刻するぜよ」




遅刻、なんて言われても、わたしはここ最近愚かにも遅刻記録を重ねているわけだけど、どんなに遅れても遅刻にならない仁王くんがわざわざ気遣ってくれているのだ。その心配りを無碍にするなんて言語両断で、わたしはいそいそと緑の包みを鞄にしまった。




「ほんじゃあ行くか」



「はい」




わたしの準備が整うまで静かに待っていてくれた仁王くんに促されて、いつものように横に並んで歩き出す。今日の仁王くんはここ最近の素っ気なさが全然無くて、部活のちょっとした話やコンビニの新商品の感想や、何気ない日常の話をせわしすぎず静かすぎもしない心地よい調子で話してくれる。



友人が言っていたことは、正しかったみたいだ。多分、このところ何かあって気分が塞いでいたんだろう。誰にだってそういうことはある。当然だ。そこを慮れず勝手にくよくよしていたわたしは、本当に底の浅い人間だ。



もっと人のことを良く見なければいけないなと、心の中で反省のポーズをとってから、気持ちを切り替えて仁王くんとの会話に集中する。大丈夫、仁王くん。今度からわたしは、あなたの心にいち早く反応します。



足を動かしながら他愛ないおしゃべりを続け、コンビニのピザまんはどこが一番美味しいかという話になったところで、わたしたちは立海の校門に着いてしまった。今日は、ここまで。久々に話せたから、このまま別れてしまうのが名残惜しい。でも、仁王くんもとても元気だったし、何日も会えないことはもうないだろう。




「それでは、今日も有り難うございました」




わたしが制限時間付きであることを考慮してか仁王くんはわたしを先に行かせてくれるので、いつものようにそう言って昇降口に向かおうとしたら、なあ、と仁王くんがちょっと決まり悪そうな声を出した。




「どうかしました」




まさか、言いづらくて黙ってたけどお前犬のフン踏んだぜ、とかそういうことかと思って慌てて靴の裏を確認したら、一歩近づいて帽子の上から髪をぐしゃぐしゃと掻き回された。




「お前さんはどうしてそういう……」



「ごめんなさいごめんなさいつい不安になって」



「はあ……みょうじ」



「なんでしょう」




改めて名前を呼ばれて、背筋をぴんと伸ばす。そうしたら、仁王くんはちょっと俯いてから顔を上げた。その表情は、何かを企んでいるようで悪戯っぽい、にやりとした笑み。




「明日、ちょお早く来んか?」



「……はい?」




言われた言葉がうまく処理できなくて、わたしは頓狂な声を上げたうえに間抜け面で何度も瞬きをしてしまった。



早く、来ないかって、それは、いやちがう、そこじゃない、そこじゃなくて、




「授業を受ける前のちょっとした目覚ましに、寄り道していかんか」




わたしが混乱していることを楽しむように、あくどい笑顔を深めた仁王くんがそう言う。
ばくばくと心臓が早鐘を打ち出して、わたしは意味もなくもごもごと口を動かしてから、こくりとその提案に頷いた。



仁王くんはにんまりと笑ってもう一度わたしの頭をわしゃっと撫でると、じゃあまた明日、と言って先に行ってしまった。



その後ろ姿を見送るわたしは、呆然としたまましばらくそこを動けなかった。



どうしよう、どうしよう、どうしよう。



嬉しくて、嬉しすぎて、頭が働かない。



約束をしてしまった。





わたしと仁王くんの初めての約束だ。


   

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