硝子の靴はいらない
*午後12時の秘め事:続き
「……今、キ、キ」
「もしや、初だったかな……?」
アドちゃんの黒目があちこち宙を彷徨って、金魚が空気を求めて口をパクパクするように、アドちゃんも口から出す言葉を欲していた。
顔は至って普通、赤くなっているわけでもなく、普通。
「こんなっ、人がいる場所で……!」
「でも、俺に我慢しろって言う方が難しいよ?」
「くっ……」
未だ化粧室の入り口の横で会話していた俺たちを、不思議そうに通り過ぎる人たち。アドちゃんは誰かが通る度に表情をキリッとさせて、いなくなったのを気配で感じると今のように金魚状態に戻る。
見てると段々おかしくなってくるなあ。
「もう襲名披露は終わったんだし、今から抜けようよ」
アドちゃんの手を掬って甲に口付ける。
さながら御伽噺のようなシーンに、(我ながらキザなことをする)と自嘲し、返事も待たずにそのまま腕を取り会場を駆け抜けた。
途中、親父と鬼徹が俺たちに気付いて、鬼徹は何か言っていたけど、親父は何も言わずただこちらを見ているだけだった。
会場を後にした俺たちは、行く当てなどなく、何もかも初めてな大阪の夜の街をただ歩いていた。
明日には東京に帰ると親父が言っていたから、今日はどこかのホテルを抑えているんだろうけど、そのホテルがどこかは聞いてなかったな、と夜空を見ながら思う。
この街も、あまり神田町と変わらないんだな。ネオンが煌めいている。
「……ジェリコ、止まって」
「え?どうしたの?」
くいっ、とスーツの裾を引っ張られて、街の光に気を取られていた俺は、アドちゃんの異常事態に気付かなかった。
アドちゃんは気まずそうに視線を下に向けていて、それを追うように俺も視線を下げれば、足に目が行く。
アドちゃんの足は慣れないヒールを履いて歩いたせいか、靴擦れを起こして赤くなっていた。
女の子の事なら何でもすぐ分かるのに、何故?
もしかして、この俺が高揚してる……?
普段なら絶対女の子の前では冷静でいられるはずなのに、この俺が?
「ごめん、気付かなくて。これじゃ歩けないね」
「いや、私こそ……」
いつもクールで物静かなアドちゃんが、目線を斜め下にやることは珍しい。
かっこ悪いとこを見せてしまって恥ずかしいという意味だ。
そしてふと思いつき、行動に出た。
「は、え!?」
「そんな足じゃ歩けないでしょ、この方が楽だよ」
アドちゃんの脇の下と膝の裏に手を差し込んでヒョイッと抱き上げる。
俺にとっては至極当然なこと。
でもアドちゃんは初めての俗に言うお姫様抱っこどころか、付き合うことすら初めてだから慌てて当たり前だよね。
俺の腕から必死に抜け出そうと抵抗するけど、またヒールを履いて痛い思いをするのは嫌だったのだろうか、それとも諦めたのか、顔だけは見られまいと俺の首に腕を回して顔をうずめた。
(うーん、結局は大人しくされるがままになるんだなあ……)
「ジェ、ジェリコ、あまり人が多くないところを歩いてよ……」
顔が見えないけれど、多分アドちゃんは今真っ赤なのだと思う。
普段吃ったりしない彼女がこうなるときは、冷静を保てていないときだ。
顔をうずめているせいで声がくぐもっている。
こんな可愛い彼女のお願いを聞かないわけにはいかない。
まあ、わざと大通りを歩いて見せつけながら、アドちゃんの慌てる姿を見たいとも思うけど。
「仰せのままに、シンデレラ」