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raison d'être


歴史を感じさせる日本家屋の長い廊下を、着物を召した気品のある一人の女性が歩いていた。
とある一室の前に立つと、右手で着物の上前を撫で下ろしながら膝を付き、部屋の中にいる人物に声をかける。

「紫翠さん、今日こそはお父様に謁見してくださいませ」

部屋の中は暗く、蝋燭の置かれた揺らめく光によって淡く浮かび上がる影に、紫翠と呼ばれた部屋の主が襖の近くにいることが分かると、女性は少し下がった。
すると、スッと襖が開けられ紺色の着流し姿の男が立って女性を見下げている。

「お母様………昨日も申し上げました。会いません、と」
「紫翠さん……」

お母様と呼ばれた女性は俯き、薄いベージュに塗られた唇を噛み締めた。
紫翠は母を避けるように部屋から出て、草履を履いて縁側を降り、雪の降る庭へ足をつけた。
サク、サク、と雪を踏む音が庭に響き、母はそれに後ろ髪を引かれる思いで振り向いた。

「寒い………」

空を見上げ、小さく呟いた紫翠が、なぜか儚く見えてしまった。
しんしんと降る真っ白な雪の世界に同じ色の紫翠の髪と息が交わって、そのまま消えてしまうのではないかと、母は錯覚してしまう。

「紫翠さ……」
「私は、自分が嫌いです」
「え………」

舞い上がる白い息を睨みつけるように、紫翠は呟いた。
母も思いがけない息子の発言に、目を見開く。

「この白い息も、呼吸によって生み出される。私が否が応でも生きていることを自覚させられるんです。………私はなぜこの世界に生まれてきてしまったのでしょうか」
「何を仰って………母は貴方を産んで良かったと思っています」
「お母様はそうかもしれません。けれど、お父様はどうでしょうか?」

スルリと、冷ややかな視線を母に向けた紫翠に、母は俯いてしまった。
紫翠は言ってはいけない言葉を言ってしまったと我に返るが、もうどうしようもなく、彼は動き出した口を止めることができなかった。

「お父様………いや、あの人は私を放って近づくことさえしなかった。話しかけることも、私がこの歳になった今でも。お母様はこれも愛だと言いますか?あの人の言い付けで、身内以外の他人と接するなと言われ、それを守った。けれど、今となってもどういった理由だったのか分かりません」
「…………」
「……私は、この家にとって必要な存在なのですか?」

言ってしまった。
今までその答えを聞くことが何より怖かった紫翠にとって、その質問はタブーだった。いらない子、と言われるのがとても恐ろしかった。
でも勢いに任せて問うた事を今更撤回などできない。
紫翠は母の言葉を待った。
少しして母は、俯いた顔を上げ今にも泣きそうな顔で我が子を見つめ、震える口を開いた。

「お父様は、貴方をちゃんと愛していますから、だから」
「嘘だ!!私を放っておいたから罰が当たったのです!現にあの人は部屋に閉じ込められて今にも死にそうになってるではないですか!!」

母が嘘をついていることは明らかで、それが許せなかった紫翠は生まれて初めて声を荒げた。
母の肩は跳ね、顔は青ざめていく。
紫翠から目線を外すことなく、ゆっくりとした動作で立ち上がり、頭を逸らすと元来た道を戻って行った。

「ハッ………思った通りでしたね」

人が1人いなくなったことで、さらに紫翠の周りには音が無くなる。
乾いた笑いを雪に吐き捨てるように、そして地面を睨みつけた。
雪に振られ続けすっかり冷え切った手は、紫翠の心の中を表しているようだった。

(嘘をつくくらいなら、本当のことを言ってほしかった………)

紫翠は心臓に雪が積もるような感覚を感じて胸が苦しくなりその場に蹲った。
ただ憎い雪も今だけは、惨めな自分を隠してほしいと願って。
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