世界が足元から崩れ去る音が、確かに聞こえた。 がらがら、ではなく、甲高い悲鳴のような風の音に、それはよく似ていた。 無声慟哭 胸が苦しいというのに、その苦しみを他人事のように感じている自分を発見し、丈は驚いていたが、その驚きすらも他人事のようだった。 今までにない程淡々と(ああ、苦しんでるなあ)と、彼は胸中で呟いただけだったのだ。 それだけではなく、自分の目で見ているはずの世界も、まるで違う誰かの視界を覗き見ているような、どこか奇妙な見え方をしている。 すれ違う人や車、鳥の声は、端から耳に届いていない。 夢の中にいるような気もしたが、丈は自分が確かに現実にいることをよくわかっていた。 ――理性と感覚とが、離別しかけているらしい。 冷静な彼の部分はそう分析した。 そんな風に冷静に分析出来る部分があることが、何か異常なことに思え、思わず身震いする。 身震いして、生きていることを実感すると、吐き気が込み上げてきた。 苦い唾を無理矢理に飲み込むが、存外にそれに体力を使ってしまい、頭を振りながら丈はその場に座り込んだ。 立っているのすら億劫だった。 彼が座り込んだのは歩道の端、ちょうど電信柱のすぐ横だった。 突然座りだした丈に、道行く人々はちらちらと目線を送る。 その目線が、蔑みを含んでいるように感じられた。 「……蔑んだらいいさ」自嘲気味に彼は言う。 ――少し前まで、自分には自由以外何もなかった。 愛することも、愛されることも、知らなかった。 その、"自由以外"を教えてくれたのが拳闘である。 純真な力への憧れも、無心で戦う清々しさも、自身の奥に潜む野性も、拳闘が教えてくれた。 そして"愛"をも示してくれたのも、拳闘で出会った広い胸だった。 だが、それを奪ったのも、拳闘で育てた自身の拳だった。 おかしな話だと思った。 憧れ続け、追いかけ続け、そしてまた憎み同時に愛し続けた男のために拳闘をやり続けたのに、その結果が"これ"だ。 あまりに呆気なさすぎる、哀れな最期だった。 「いっそのこと」 掠れた自身の声が丈の耳の奥で響く。 「怨んでくれたらいいのによ」 夢でも幽霊でも何でも良い、あの男に目の前で、罵倒して欲しかった。 いや、罵倒すらいらない。 ただ睨むだけでも良いのだ。 今人々が向ける視線のように、侮蔑と恨みを含んだ目を向けてくれれば、それで良かった。 彼がそんなことをする男ではないとわかっていながら、そう考えずにはいられなかった。 本当は一心に"会いたい"だけの心を、丈は必死に隠していた。 隠し、押し殺し、その心を否定する。 失うことが辛いことだと初めて知った。 昔を思い出す。 かつて自身の手の中には何もなかった。 何もなかったが故に、失うものはひとつもなかった。 その状況は寂しいとか虚しいと言うよりも、どこか気楽なものだった。 ――失って苦しむくらいなら、はじめから何も持ってない方が良いのだ。 愛することも愛されることも、知らないままで良かった。 そうすれば今、こんなに苦しむことも、苦しんでいることを客観的に感じていることも、なかったのだ。 初めてあった日の見下した顔も、戦った時の強い眼差しも、打ち合った拳の重さも、そして情事の際に強く抱きしめられた掌の感触も、何も思い出さなくてすんだのだ。 「……怨むぜ、力石」 丈はたまらなく、膝を抱えた。 もはや癖となっている、背中を丸め、顔を埋める形となる体勢である。 もとより大きくない身体が、ことさら小さく見えた。 「何で、死んだんだ…………」 死ぬ必要がどこにあったのか。 それともあれは罰なのか。 愛しあってはならなかった二人が愛しあった結果の、罰だったのか。 (なら、何で俺は生きてる?) 自分は生きている。 死んだのは力石だ。 二人の差はどこにある、と、丈は誰ともなしに訊ねたが、それに答えられる人間はどこにもいなかった。 代わりに、北から強く風が吹いた。 高い音で叫びながら、電信柱を泣かせている。 その音は、彼がかつて聞いた、世界が崩れる時の音によく似ていた。 丈の喉が低く小さく「くっ」と鳴った。 無声慟哭 (冷めない熱が) (腹の中で唸っている) 力石を失ったばかりのジョーって見ていられない……。 別名でpixivにあげてあります タイトルは宮澤賢治より |