火神の場合 リビングのドアが開く音がして、ぺたりと裸足で歩く音が続いた。 「お風呂、ありがとうございます」 「おー」 洗い物を終わらせて振り返ると、お風呂上り特有の、ほこほこと湯気が出てそうな血行の良い黒子がいた。 着ている服のサイズが合っていないため、裾を足元で何度か折っているらしい。 袖は指先が隠れるくらいで、自分との体格差がはっきりと分かった。 黒子の身長は日本人の平均値らしいが、こうして俺の服を着ていると本当に小さく見える。 本人に言うと機嫌を損ねるので口には出さないが。 「っておい、髪乾かしてから出てこいよ。風邪引くぞ」 「大丈夫です」 「…ほんとかよ」 ぽたりと髪を伝って落ちた水滴が首筋を伝う。 それを雑にタオルで拭く様は外見と違って随分と男らしい。 「ほら、これでも飲んどけ」 「?なんですか、これ」 「グレープフルーツジュース。アメリカから送られてきたんだよ。美味いぜ」 「ありがとうございます…、…ほんとですね。おいしいです」 「そりゃよかった」 気に入ったらしく、目元を緩めて残りを口に運ぶ。 こくりと喉が動くのを見届けて、俺は洗面台に向かった。 ドライヤーを取ってリビングに戻る。 「ほら、こっちこいよ」 「?」 「髪、乾かしてやっから」 「そんな、悪いです」 「いいからさっさとしろ」 「…はい」 ソファに座って、その前に黒子を座らせるとドライヤーのスイッチを入れた。 火傷しないように距離に気をつけて、柔らかいその髪に温風を当てる。 さらさらと指を滑る髪の感触を堪能して、最後にくしゃりと綺麗に乾いた頭を撫でた。 「おし、完成!」 「ありがとうございます」 「んー」 細い肩に小さな頭。何度見ても、簡単に壊れそうだと思う。 少し舌足らず気味にお礼を言った黒子の顔を覗き込むと、半分ほど瞼が落ちかけていた。 「眠いのか?」 「だいじょうぶです」 「嘘つけ。頭揺れてんぞ」 ゆらゆら左右に揺れる頭を指摘しても、大丈夫としか言わない黒子に苦笑が零れる。 ほんと、意地っ張りだよな。 文句を言われる前に膝裏に腕を通してゆっくりと抱き上げると、「かがみくん」と咎めるような声が返ってきた。しかし重そうな瞼は変わらない。 所詮お姫様抱っこというやつで寝室まで運ぼうと歩き出すと、不満げな顔をした黒子がその頬を膨らませた。 「…くつじょくです」 「ばーか。いいからじっとしてろ、じゃないと落とすぞ」 「それはヤです」 ぎゅうっと首に腕を回して抱きついてきた黒子に、俺は喉の奥で笑う。 ゆっくりとベッドに下ろして上布団を掛けてやる。もう殆ど目は閉じていた。でもまだ眠ってはいないらしい。 きゅうっと俺の服の裾を掴んだままの黒子の様子が可愛くて、頬を撫でるようにして目に掛かった髪を上げてやった。 「て、きもちいいです」 「そーか」 「はい」 ふふ、っと柔らかく笑う黒子に、俺も同じように返してやる。 初めて会ったことからしたら考えられないほどに表情を変える黒子。 気を許しきったその穏やかな瞳は眠気を帯びて俺を映す。 「なんかあったらすぐ言えよ」 「はい」 「なんもなくても、言えよ」 「はい」 「俺が居る。だから一人になるな」 「かがみくん」 「いいな」 「…はい」 俺も寝るかな、と黒子の隣に潜り込むと、まるで猫のように胸元に擦り寄ってくる。 「かがみくん」 「ん?」 「かがみくんが居てくれて、よかったです」 眠気のまじった舌足らずな声が、嬉しい言葉と共に耳に心地よく届く。 それに「俺もだよ」と返すと、水色の美しい瞳がゆるりと弧を描いた。 「おやすみなさい」 「ああ」 閉じた瞳の上に唇を落として、その呼吸音を聞きながら目を閉じる。 なんだってしてやるよ。 お前の事なら、なんだって。 食事の準備も、着替えも、その何もかも。 黒子が生きていく上で必要な事全てを、俺がやってやる。 お前の肌に触れるものは俺が選んだものじゃなきゃダメだ。 お前の腹に入るものは俺が調理したものでなければいけない。 お前の傍に居るのは俺だけでいい。 お前が信用するのも信頼するのも愛するのも慈しむのも全部全部全部、全て俺でなければ許さない。 だから、黒子。 俺が居なければ不安になれ。 俺が居なければ笑えなくなれ。 俺が居なければ何もできなくなれ。 そしていつか。 「おやすみ、黒子」 口元に浮かんだ笑みの歪(いびつ)さを見咎めるものは居ない。
俺が居なければ、息さえ出来なくなればいい。
*** なぁ、まだ一人で息が出来るのか? いっそ深く沈めてしまおうか。縋らずには生けていけないほど深く。 |