───痕が薄くなってきたな いつものようにマフィア殲滅の任務を片付け、風紀財団アジトへと期間した雲雀は、返り血を洗い流す為に簡易なシャワールームに向かった。戦闘によって高められた熱を半ば強制的に下げる意味合いも含め、低く温度を設定したシャワーを浴びると、ふと姿見に映る己の身体に目が止まった。 右脇腹の少し下、若干の傾斜を持って淡く存在を主張する傷痕。それは、度重なる過酷な戦闘で負った傷ではない。 いや、他の誰かがこの身体に残るような傷を付けるなど不可能だと思う位には腕に自信があるし、何より、彼以外にこの身体に傷を付けられるなど想像するだけで膓が煮えくり返るような嫌悪に包まれる。まるで全身の毛が逆立つようだった。 横路に逸れてしまった不快な思考を溜息で振り払い、もう一度水滴の滴る鏡に目をやる。 この傷は他の誰でもない、彼からの贈り物。 どれ程凄惨な戦場に於いても残るような傷を許さない雲雀恭弥が唯一受け取る、白い肌を横切るどこまでもまっすぐな、傷。 愛しいものでも見つめるように目を細めると同時に、どうしても時間の経過と共に薄くなり、終いには消えてしまう儚さに切なさがひたひたと押し寄せてくるから指先でその存在を確かめるように痕をなぞった。 丁度今夜辺り、彼が帰ってくる予定だった筈だ。 無意識に上がる口の端を少しだけ浮わついた思考の隅で感じながら、雲雀はシャワールームの扉を閉めた。 「おかえり」 予定通り帰還した骸がボンゴレ本部へ報告を終えて第一に向かう場所は隣接する風紀財団アジト、その主の私室である。主が不在でない限り、これは彼が釈放されてから現在まで変わらない習慣となっていた。 雲雀はそれまで目を通していた書類から顔を上げると首だけを傾けて襖の方へ微笑を向ける。ただいま帰りましたよ、と言うその声を聞くのは一体何日ぶりだろう、骸が復讐者に囚われていた十年に比べれば任務によって会瀬を阻まれる時間のどれほど短いことか、とは思うものの乖離を強要される時間は苦痛で、実際の時間より長く感じられる事実からは逃れられなかった。 或いは、十年間の別離がこの僅かな期間を引き水に顔を覗かせるから余計に苦しみが増すのだろうか。 そんな思考がゆるゆると頭の中を巡るが、今はそんな些末な感傷よりも六道骸がまやかしではなく目の前にいるという事実が、雲雀恭弥にとっては重要だった。 「ただいま帰りましたよ、恭弥」 挨拶の後に少し遅れて聞こえた名前を呼ぶ声にぞくりと身体に熱が這うのは仕方のないことだと思う。 こうして相対するのが久しぶりであれば尚更。 骸がこちらに辿り着くまでの僅かな時間も待ちきれなくて、ふかふかとした座布団から腰を上げる。間近で視線を合わせれば色違いの瞳には隠しきれていない欲が灯っているのが見えて、燻っていた熱が余計に煽られた。どちらともなく抱き締め合って口付けを交わせば、沸き立つ衝動に抗おうとする方が可笑しいように思えた。 「…っ、ん」 日に焼けることを知らない雲雀の肌に、同じように白い骸の手が這う。 口付けを求めて視線を送れば望むままに与えられるキスが甘過ぎて喉が渇いた。足りないと強請って相手の舌に歯を立てて血液を啜れば、その拍子に小さく息を詰めた反応に気を好くして口角を上げた雲雀の表情が猫のような艶やかさで骸を誘った。 「ねぇ、骸、」 「なんです?」 骸を見詰めた儘の雲雀が手を取って右の脇腹へと導く。其処に残る傷痕をなぞりながら目を遣ると以前見た時より随分と薄くなってきたような気がした。 「欲しいな」 求められれば断る理由もないのだ。まして自らも彼の所有と己の存在とを刻み付ける証として彼に贈る傷を請われたのならば。 「…君も飽きませんね」 贈り物を喜ばれて、飽きもせず何度も強請られて。心から嬉しいと思うのに、困ったような笑顔しか向けられない自分への嫌悪を三叉槍を幻術で作り出す為の意識で隠して紛らわせる。 「今度は何処に欲しいですか?」 少し思案したふりをして、どこでもいいよ、と返す姿にどうして愛しいと思わずに居られるだろう、 「後での苦情は受け付けませんよ」 と前髪にキスを落としてそのまま獲物の位置も確認せずに深々と刃を滑らせた。 職業上戦闘に慣れているとはいえ、流石にこれほど痛みには慣れないのだろう目をきつく閉じて息を止める様に益々劣情が煽られる。耐えるように握り締められた上着に引かれて自然と上体が近付いた。 「むく、ろ」 耐える息の合間から名前を呼ばれて表情を伺えば、恍惚として笑む雲雀と目が合った。 彼の痛みへの順応性の高さには驚くばかりだ、再び苦笑を返して真新しい傷口に噛み付く。 丁度左の胸元に真一文字に切り裂かれた傷口から溢れる血液は肌と同様、砂糖細工のように甘い。舌先で傷を抉って雲雀の内の肉を味わい幻術ではない自分の身体で彼に触れているのだと実感する。 復讐者の牢獄から出て暫く後、雲雀に取っては苦痛でしかないであろうこんな行為を何故求めるのかと訊いたことがあった。最初に傷を求められたのはしつこく要求されてきた手合わせに気紛れで応じた次の夜だったか。 依代を介して実体化されることを嫌う彼に付き合って他人に憑依せずに会った時には傷が残ることはなかったのに実体で付けた傷は残るのだと言って、本物の僕が目の前にいる証として欲しがった。 そして同時に自らが付けた傷が僕の身体に残ることを喜んだ。 刃物で付けた傷と違って以前彼に付けられた肋骨付近の打撲傷は既に消えているけれど。 「っく、…ぁあ!」 胸元の傷から血液を啜りながら後孔に指を突き入れる。前触れもなく与えられた衝撃に、傷口にばかり向けられていた感覚が散らばった。 骸に開発された身体は、差し込まれた異物に始めこそ抵抗を示すものの、すぐに受け入れて細く骨ばった指に絡み付く。 二本、三本と徐々に増やされていく指先であやすように内壁を擦られ、悪戯に爪を立てられる。 気付けば骸を誘った余裕はとうに消えていて、与えられる快に夢中になっている自分を嘲う余裕もなくなっていた。 「んぅ、…は」 引き抜かれた喪失感に眉根が寄る。苦笑と共に宥めるような口付けが落とされて、その感触に目を閉じる。続く圧迫感と僅かな苦痛にはいつの間にか馴れていた。平常よりもずっと近くにある骸の背に腕を回して引寄せる。 ずっと手の届く距離にいればいい。 もう僕のいる世界から消えなければいい。 深く浅く繰り返される抽挿にゆらゆらと波間を漂うような覚束なさとこの現実に存在するのは二人きりであるような錯覚を覚える。 馬鹿げた思考だと熱に浮かされた頭でもわかるのに、そんな妄想に縋ってこの時が終わらなければいいと願っていた過去は忘れられるものではない。 手を伸ばして触れられる位置に君がいる そんな奇跡のようなありふれた幸せは、この身体に贈られた傷と同じ 夢ではなく、幻ではなく (そうこれは、鮮やかな現実) ← |