人のぬくもりに包まれながら揺蕩う感覚。頬に触れるなめらかなシャツと、僅かに香る香水。
私は、私を抱えるひとの名を知っている。
本当はその人の表情を見つめたいのに、どうにも瞼が上がらない。
もどかしさに抗うよう、そのひとの名を呼んでみる。でもうまく口も動かせなくて、よくわからない言葉だけが漏れた。
もう一度言葉を発したが、やはり自分でも何と言っているか判断できない内容だった。
私の様子を見つめ、そのひとは笑う。
頭上から漏れる微笑みの吐息は愛しさに溢れていて――なんだか泣きたくなってしまう。
そのひとが注いでくれる愛があまりにも優しくて、繊細で、私の一番柔いところを包み込んでくれるから。
私は闇に飲み込まれずに生きていけたのだろう。人に言えぬ秘密を抱えながらも歩んでいけたのだろう。


そのひとの愛は。
私が、私のまま生きていくために、必要なものなのだから――…。





「ん…」

カーテンの隙間から漏れる日差しとふわりと漂う香ばしい匂いに、アーテルの瞼がむず痒そうに動く。寝起きの猫よりも緩慢な動作で起き上がり、リビングへ向かった。

「おはよう」
「おはよ…」

一足先に起床していたイグニスが新聞を眺めながらコーヒーを飲んでいる。氷がグラスにあたる涼し気な音にアーテルは十分に開かない目をより細めた。

「朝食は食べるか?」
「ん、食べる…あとコーヒー…」
「少し待ってろ。顔を洗ってこい」
「はぁい」

アーテルはあくびを漏らし、寝ぼけ眼のまま洗面所へ向かう。だが前日に置いていたはずの化粧ポーチや洗顔フォームなどが見当たらない。
「んえ?」と間抜けな声を漏らしつつ、ひとまず備え付けのアメニティを利用して洗顔をした。
タオルで顔を拭き、息を吐いたころアーテルはようやく自分がいる空間を見渡した。
自分があてがわれた部屋と酷似しているが、壁の色や模様が若干異なる。慌ててリビングに戻ると、寝起き直後には気が付かなかったが、自分が預けていたライブTシャツが干されていた。
――つまりここは、イグニスの部屋だ。

「イグニスイグニスイグニス!」
「なんだ、何回も呼ばなくても聴こえてるぞ」
「私ゆうべ、ここで寝たの!?」
「ああ、余程疲れてたんだろうな。ビール飲んだ後そのまま寝てしまったんだ」
「ええー!?」

イグニスはアーテルの朝食用に作っておいたフレンチトーストを軽く温め、水だしコーヒーを冷蔵庫から取り出す。
部屋に備え付けられた小さなキッチン――広くはないがオーブンまで常備されているため、本格的な料理も出来そうだ。長期間の滞在にも向いているのかもしれない。
アーテルは椅子に腰かけ、口を尖らせたまま、朝食を乗せたトレイを運んできたイグニスに問いかける。

「ねえイグニス、なんで何もしなかったの?」
「は?」
「だってこんなおいしいシチュエーション滅多にないよ、色々し放題だったのに」

絶句しているイグニスを置きざりにし、アーテルはテーブルに置かれた朝食に「いただきます」と手を合わせた。
ナイフとフォークが金色に輝くパンをゆっくりと切り分けていく。
アーテル好みの味は甘めかつ牛乳は少し多めの配分。いつもながら完璧な味だと、アーテルの脳が感嘆の声を上げる。
一方イグニスは無表情で呆然と立ち尽くしていたが、ずり落ちかけていた眼鏡をあげ、気持ちを切り替えた。

「俺はこれから出かけてくる」
「どこ?」
「早朝に市場に行ってきたんだが、食材の取り置きしてもらっている。これからグラディオ達を連れて行くつもりだ」
「ああ、昨日言ってたね」

アーテルはフレンチトーストを嚥下し、アイスコーヒーを一口飲む。
そして準備を終えたイグニスからスペアキーを渡され、外出時には戸締りをするよう頼まれた。

「あとノクトが起きたら、冷蔵庫にあるサンドイッチを渡しておいてくれ」
「おっけー。気を付けていってらっしゃい」
「…いってきます」

アーテルはひらひらと手を振り、いつもの笑顔を向けて彼を見送る。
イグニスは部屋を後にし、扉を閉めてから小さく溜息をついた。
――昨晩は結局、睡魔に負けたアーテルを抱きかかえ、リウエイホテルに戻ることになった。本来ならばアーテルが持っている鍵を使い、彼女の部屋で寝かせればそれでよかったのだろう。
だが、あのままひとりにするのは不安だった。
虚勢を張る彼女を。
華奢な体の内に隠した途方もない孤独の中で、置き去りにするのを。

(…違う)

彼女を慮る言葉を連ねたところで所詮言い訳に過ぎない。
「俺」が、アーテルの傍にいたかった。
眠る彼女の頭を撫でていたかった。

寝ぼけながら俺の名を呼ぶアーテルが、何よりも愛おしかったから。

――…とはいえ軽率だっただろう。
自分はソファーで寝ていたものの、状況だけに疑わしい事は一切していないと信じてもらえるか不安だった。
もっとも杞憂どころか、想像を遥かに超える回答をしてきたアーテルには一生敵いそうにない。
王女の思考回路は、時折イグニスの悩みの種として植え付けられ、勝手に彼の心に根を張る。
それでいて、愛らしい花を咲かすのだから憎めない。
振り回される幸福というものを知ってしまった恋愛というのは、厄介なものだった。


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