胸元の開いたノースリーブとホットパンツを身につけ、濡れた髪を柔らかいタオルで拭う。シャワーを浴び終えたアーテルは用意されていた部屋を改めて見渡した。城にある自室にも引けを取らないくらい豪勢な調度品に囲まれている。悲しいかな、温室育ちのアーテルは金銭感覚が鈍い方だが、そう易々と宿泊出来るような部屋でないことは十分理解できる。
――夕刻、新聞記者・ディーノに原石を渡した後、彼は律儀にもオルティシエへの乗船手続きを行ってくれたらしい。明日の昼には出航可能だと連絡を受けた。おまけにホテルまで準備してくれたのだから余程原石の調達が嬉しかったのだろう。
明日オルティシエに着けば新郎であるノクティスを始め、国賓であるアーテル達も忙しくなる。余裕を持って休めるのは今晩と明朝だけだ。
アーテルはふと、テーブルの上に置いてある釣り道具を眺める。
夜釣りに出掛けたのは得も言われぬ息苦しさを感じたからだった。野営と戦闘続きなのに頭は酷く冴えていて、あの赤毛の男の事ばかり思い出してしまう。絶対零度の琥珀の瞳が、アーテルの心を揺さぶっている。
魚達にもアーテルの動揺が伝わっていたのかちっともルアーに食いついて来やしない。自嘲気味に笑ったアーテルの前に現れたのは――イグニスだった。
「魚の代わりにイグニスが釣れるなんて思いもしなかった」なんて軽口を叩いた日には、拳骨を食らっていたことだろう。尤もそんな余裕は彼女には無かったのだが。
仮にも王家の人間、おまけに女一人で人気のない釣り場にふらりと訪れるなんて危険だった。再度赤毛の男と接触する可能性もゼロとは言えない、それでも外へ、何処かへ彷徨ってみたくなったのだ。

(本当は、イグニスに構ってほしかっただけかもしれないなあ)

親の気を引き留めておきたい幼児のそれと同様だ。自分を守っていてほしい、時には叱って時には褒めて。
私の手を、離さないで。
子どものような欲求を抱くが故に、二人の間に流れていた怜悧な焦燥感も払拭したかったのだ。


『――アーテル、俺がお前を守ろう。お前を不安にさせる者には指一本触れさせない』


イグニスがくれた言葉は愛の告白とも受け取れる。気障な台詞も想いを寄せる相手から発せられれば心打たれるものだろう。アーテルは人知れず声に成らぬ悲鳴を上げ、柔らかいベッドに飛び込んだ。枕に埋もれた顔は真っ赤に上気している。
見えもしない「未来」という名の妄想を膨れ上がらせ、ひとしきりベッドでのた打ち回った。暴れすぎてベッドから転がり落ちてしまったらしい、アーテルは強かに打った背を庇いつつ鈍い動作で起き上がる。

「…明日の朝、釣りに行こうかな」

先程のリベンジも兼ねて今度は全員誘って行こう。釣れた魚達が食用ならその場で調理して朝食にしてしまえばいい。ホテルの豪勢な食事も良いがせっかくの旅路だ、グラディオラスに倣ってアウトドアの醍醐味を味わうのも良い。それからプロンプトに写真を撮ってもらって、オルティシエで待つルナフレーナに見せたならきっと喜んでくれるだろう――。
アーテルは温和な笑みを浮かべつつ、就寝の準備を始めた。













『アーテル』

また、"あなた"なんだね。
私の頬に触れるしなやかな指先。壊れものをそうっと掬いあげるような仕草に思わず微笑みたくなってしまう。私はそんなに簡単に壊れやしないのだから、大丈夫だよと。
私もまたあなたに応えるように手を伸ばし、頬に触れた。幸福故に溢れる小さな笑い声が私達の間に溶けていく。久方振りに水を得た植物のように、あなたが触れた箇所から身体も心も潤んでいくのを感じた。
ああ、何と愛しい事だろう。かけがえのない大切なあなた。いつまでも見つめていたい。いつまでもこうして二人で寄り添っていたい。

『こちらにおいで』

あなたは私の手を握り、夜の森へと導いていく。
この光景は初めて見るものだ。今まで見たことのない「夢」なのに何故だか郷愁に駆られるような、冷えた爪で胸を引っ掻かれるような物悲しい気持ちになる。
鬱蒼と生い茂る木々は闇を醸し出していたが、天高く輝く月が瑞々しい緑を照らしてくれていたおかげで恐怖は感じられない。進んだ先には海とも見まがう巨大な湖が広がっていた。余程清い水なのだろう、湖の縁には蛍が漂っている。水面には鏡面の如く満月が映り込んでいた。
そう――満月の夜。


「ねえ…"    "」


私は初めて、私の意思であなたの名を呼んだ。
幻想に漂う私ではなく、不思議な夢を見る人間…アーテル・ルシス・チェラムとしてだ。
けれどあなたの名前だけ私の耳には響くことなく、空気の塊を吐き出すだけの感覚に戸惑いを憶える。
思いとは裏腹にあなたは振り返りそしてごく自然に微笑み返してくれる。どうやらあなたには聞こえていたようだ。どうしたんだい、と優しい眼差しが私を包み込んでくれる。

「あなたは一体何者なの?どうして私に同じ夢を見させるの?」

あなたは困惑した表情を浮かべ、繋いでいたはずの指先の力を弱める。
私が今からすることは幻想を荒し、冒涜する行為なのかもしれない。あなたと二度と会えなくなるのかもしれない。それでも今は好奇心と猜疑心が勝ってしまうのだ。
ひたむきなあなたにとっては、裏切りの行為として映っても致し方ないだろう。つきりと胸が痛み、つま先に視線を落としながらその掌を振り払った。

「あなたはとても傷つくかもしれないけれど…"私"はあなたが愛する"アーテル"じゃないよ」

私が好きなのは、ただひとり。瞼の裏に浮かんだ彼を想うとき私の胸は熱を帯びる。
けれど私が抱える熱情などあなたには関係ないこと。あなたが一体どのような反応を返してくるのだろう。怒りや批難、あるいは失望――?


「なあんだ…随分と呆気ない終わりかたになってしまったね」


あなたが返した言葉は、浮かべた表情はどれにも当てはまらなかった。
満月に照らされるあなたの面は――猟奇的な眼を見開き、歪に口角を上げる残忍な笑み。
私の全身が、声にならぬ悲鳴を上げた。
離れていたはずの手を強引に掴まれ、あなたと触れる箇所からどす黒い粘液が溢れる。清らかな風景は混沌と評するに相応しい融解を始めた。生い茂る木々は色を失い、人骨が折り重なる悪趣味なオブジェと化す。巨大な湖は腐臭を発し、赤黒く染まった。
地面から無数の腕が伸び、私の身体を侵食していく。発狂、怨言、慨嘆、あらゆる負の感情が流れ込み、私の精神を押しつぶしていく。
あなたはただ、その光景を愉快そうに眺めるばかりだ。




【アーテル!こっちだよ!】



一気に意識が覚醒する。アーテルの視界には白い天井が広がっていた。身体はシーツに縫い付けられていたかのように強張り、全身に倦怠感が纏わりついている。

(…なんてひどい夢)

まさしく悪夢だった。覚醒を促してくれた声がなければ一体どうなっていたことやら。
ふと掌が軋み、鈍痛を訴えてくる。アーテルは痺れた指を恐る恐る開くとノクティスから譲り受けたカーバンクルの御守りが零れおちた。知らない内に握り締めて眠っていたらしい。アーテルは早鐘を打つ胸を庇うように触れ、浅い息を吐き出す。
重い体を起こし、外の風景を眺めると彼女の心情とは相反する青空が広がっている。だが彼方は薄暗く雨雲が渦巻き始めているようだ、これじゃあ釣りもはかどらなさそうだ。
アーテルが溜息を零すと、忙しないノックが扉から響いてきた。朝っぱらから誰だろう?ドアスコープから確認すると、妙に視線を泳がせているイグニスが見える。ドアを開けて彼を迎え入れた。

「おはよ、イグニス…」

漏らした声は生気が欠けていた。発したアーテル自身が珍しいと思う程、随分低く暗い声音だ。

「…もう、知っているのか?」
「え?何が?」

問いかけに問いかけで答える様子から、イグニスは安堵と落胆が混じる複雑な表情を浮かべた。言い知れぬやるせなさを匂わせながら、彼は薄く開いた唇を微かに震わせ、握りしめていた新聞をアーテルに渡す。
訝し気に思いながらもアーテルはそれを開き、一面に飾られた写真と文面を眺めた。

「…は、」

彼女の目に飛び込んでくるのはにわかに信じがたい単語ばかり。何よりも印刷されたその風景――染まった色は赤、灰色、黒。捻じくれ、崩壊し、暴挙の限りを尽くされ、蹂躙された愛しき故郷が貼りつけられている。
追い打ちをかけるように、真実を直面させるようにイグニスはアーテルを見据えた。




「王都が――陥落した」


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