<side・Ignis>




「あれ、アーテルは?」

プロンプトが濡れた髪を拭きながら、彼女の姿を探す。本から目を離さぬままグラディオラスが答えた。

「さっき部屋に戻ったぞ、寝てんじゃねえか」
「ちえー今夜はみんなでトランプやろうと思ってたのに。ねーノクト?」
「………」
「うっわ、でたよ釣りオタ」

ノクトは釣り道具を磨くことに集中しているらしく周囲の音が全く聞こえていないらしい。綺麗になったルアーを見つめて悩ましげな溜息をついていた。そういえば海辺で釣り具屋を見つけた時には相当興奮していたな。明日の船が出る前にガーディナで釣りがしたいと強く訴えていたので、早起きするつもりではあるのだろう。そして到着したオルティシエでも釣りをする気なのだろう…。結婚の自覚が無くても仕方がないが、式に影響するまで熱中されるのは勘弁してほしい。

『――他意があったよーには思えねーけどな』

ふと、夕方に交わした会話を思い出す。
夕陽にガーネットの原石を翳し、後部座席に腰掛けているノクトがぽつりと呟いた。独り言にしては随分と大きく、背中に視線が刺さるのを感じる。隣に座っているプロンプトは疲労のせいか眠りの世界に誘われているようだ。だらしなく開いた口の端から涎が垂れている。

『何の話だ』
『アーテルがおっさんに飛びついたコト』
『……軽率ではあった』
『でもイグニス怒んなかっただろ』


確かにアーテルの予想外の言動には動揺した。己の立場を理解していないと叱責するべきだったのだろう。だがそれは出来なかった。互いに声を掛ける事も視線を交わらせる事も出来ず、原石の捜索と討伐退治に向かうことになったからだ。

『…怒れなかったんだ』

――『待って』と引き留めたアーテルの声は、あまりにも切実で狂おしい程「あの男」を求めていた。一瞬にして彼らの間に流れる空気は熱を帯びた。熱を持つのと同時に、彼らの中に閉じられた世界が生まれてしまったのだと痛感したのだ。
喜び、悲しみ、怒り。不安や不満、弱音と困惑。彼女が感じたすべてを理解していたつもりであったのに。
…あんなアーテルは見た事が無い。
ある種の恐怖を覚えたのだ。醜い嫉妬だと例える事が出来たらまだましだった。
彼女が彼女で無い生き物に変化してしまいそうな恐れ。内側から白く柔い肌を突き破り、異形の物が彼女を覆い隠してしまうのではないか。
そう、あの時の様に俺はアーテルを失ってしまうのではないか。突然発狂し、慟哭し、意識を失ってしまったあの時の様に。
15年前のことだっただろうか、その当時ノクトは聖石に選ばれたと聞いている。聖石に選ばれるというのは恐らく王位継承に相応しい者として、クリスタルと歴代の王達に認められたということなのだろう。もっとも正確な意味合いはごく僅かの王族しか知らないと聞く。
一方で片割れであるアーテルは、何かに憑かれ、さも世界から侮蔑され排斥された存在の様に苦しみもがいていた。当時の彼女は誰の言葉も届かない状態だったんだろう。あの異常さは忘れたくても忘れられない。喉が裂けんばかりに絶叫したアーテルの声が、脳の奥で反芻する。



やめて

もう ひどいことしないで



おにいちゃん

おねがいだから



わたしたちを ころさないで




ハンドルを握る手に冷えた汗が滲んだ。ノクトは俺の煩悶を知ってか知らずかそれ以上言及するような事は無かった。車内に流れた沈黙は俺の心に安寧をもたらすことはなく、黒い塊が渦巻いていくばかり。
今もまだ、当惑は消えない。

「…っ、」

俺はソファーから立ちあがり、適当な理由をつけてホテルの外へと向かう。行く当てもなく思うまま歩き続けていると夜の海辺に辿り着いた。自分達の世界に酔いしれる恋人達を何組か見かけ、彼らの邪魔をしないように避けていると、見知った人影を捉えることができた。
人気の無い釣り場で糸を垂らし、マニアックな夜釣りを楽しんでいる女だ。彼女もまた俺の存在に気が付いたらしい、薄闇の中でにこりと笑った様子が窺える。

「あれー珍しいじゃん。どうしたのイグニス」
「…お前こそ一人で出歩かないでくれ、アーテル。何かあったらどうする」
「変な人がいてもイグニスが守ってくれるでしょ?」

絶対的な信頼を寄せ、自信満々で返されてしまうと反論出来なくなるじゃないか。狡いやつ。アーテルは釣りを終えようとリールを巻き戻し、水面から浮き上がったチョコボを模したルアーを掴んで外す。視線は釣り道具に向けたまま彼女は小さく口を開いた。

「…ねえイグニス、昼間のこと、ごめんね」
「え、」
「心配させちゃったよね。でももう大丈夫だから」

道具を仕舞い終えるとアーテルは俺を見つめて笑顔を湛える。口角の端に、目尻に、拭いきれぬ心細さを残しながら彼女は己に無理を強いるのだ。
――心優しい彼女。時々子どものような駄々をこねるくせに惜しみない愛情を注いでくれる。いつか来る別れを恐れて、想いに答えられずにいる俺を赦してくれている。
無邪気に俺の名を呼んでくれる、愛しいひと。

「…たしかにアーテルの言う通りだな」
「ん?」
「――アーテル、俺がお前を守ろう。お前を不安にさせる者には指一本触れさせない」

はじめ何を言われているのか理解出来なかったのか、アーテルは呆けた表情をしていたが数秒後には桜色に頬を染めた。自分からアプローチするのは躊躇いがないくせにこちらが真摯に応え、かつ積極的になると途端に恥ずかしくなるらしい。色恋沙汰の初めての姿ならば悪くない、むしろ幾らでも暴いてしまいたいくらいだ。
少しばかり意地悪い気持ちになって、普段とは異なる意味合いで彼女の頬に触れる。びくんと大げさに肩を跳ねさせたものの、俺の動向を固唾を飲んで待ち構えているらしい。急激に赤みをさしていく肌と羞恥に潤んだ瞳は酷く煽情的で、らしからぬ気持ちが沸きあがる。昼間の時とは異なる意味合いでアーテルを抱き締めたくなってしまうじゃないか。
暑い夜が思考を奪う。
あるいは漆黒の中で輝く月の光が、そうさせるのだろうか。

「……んにゃっ!」

彼女に触れていた指先で軽く頬の肉を摘まんだ。変な声を上げた彼女は不満そうに俺を睨み、指を払って眉をしかめる。

「もう!乙女の柔肌に何するの!」
「すまない」
「うわ、棒読み!」

拗ねたように怒るアーテルを窘めつつ、二人で釣り道具を抱えてホテルへと戻る。
――「早く私の恋人になってくれればいいのに」。インソムニアを出発する朝、アーテルが俺にくれた言葉だ。
この夜が明けたら考えてみても良いのかもしれない。
眩い陽の中で微笑む君を抱き締めることが出来たのなら。
その時は、どうか――…。


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