ベールの向こう、今世の再開。



彼女との接点ができたのは、高校2年生になってからのことだった。出会ったのは1年生の時────そう考えると、"彼女"の存在を認知するまでに相当時間がかかったと言わざるを得ない。
ただ、言い訳がましくなることを承知で言うと、それはある種当たり前のことだった。オレはしょっちゅう部活の助っ人に駆り出されていたし、それよりも、何よりも、Vivid Bad SQUADの活動に力を入れていたので、あまり女子と関わる機会がなかったのだ。
対して彼女の方も、同じく異性と一緒にいる時間が少ないように見えた。友達はそこそこ多いし、教師からの人望も厚い。ただ、引っ込み思案で少し照れ屋な性格が目立っていたので、彼女の方から人との関わりを積極的に持とうとしている様子は見られなかった。

だから、最初の接点はあくまで偶然の産物だった。
そして今でこそこんな風に、"よく彼女のことを観察した上で"物を言えるようになったのは、全て"ちょっとした会話"の積み重ねのせい。

「あ、東雲君。明日提出の数学のレポートって終わってる? 私、集める係なんだけど東雲君だけ出てなくて」
「っあー、悪い、忘れてた…」
「わかった、じゃあ先生にはうまく言っておくね。1、2日くらいなら誤魔化せると思うから」

最初は意外だ、と思った。真面目一辺倒で、"誤魔化す"なんて言葉を口にするタイプだとは思っていなかったから。

「────大丈夫なのか?」
「何が?」
「みょうじってその……そういう、誤魔化しとか言い訳とか、しなさそうだから……」
「まあ、自分に対してはそうかもしれないけど」

少し恥ずかしそうに手を後ろに回しながら、彼女は悪戯っぽく笑った。

「でも、これは一種の世渡りかなって思うんだ。先生に気に入られてる幸運を利用して、穏便にクラスメイトの沽券も守るの。そうやって、クラスを上手に回していけたな〜って感じた時、ちょっと私、嬉しくなっちゃう性格みたいで。────あ…、引いた?」
「いや? 確かに意外だったけど……強かに生きてけるのは美点だろ。良いと思う」

笑いながら言っていたので、少なからずその生き方を彼女みょうじ自身が肯定していることを確信し、そう素直に伝えたのだが────なぜか、そこで彼女の顔が真っ赤になった。恥ずかしそう、などというレベルではない。オレの反応を全く予想していなかったとでも言うように、急に呼吸を忘れたように声を詰まらせた。

「し、東雲君に言われると照れるな……」
「なんでだよ」

計算高いのに、不器用。持った印象は、そんなものだった。
そして腹の中で考えることと表面に出るものががらりと変わる、そんなところに共感を覚えたのも、その瞬間だった。



あの日、提出物の起源を延ばしてもらったことで彼女には借りがひとつできていたので、後日、オレは購買で買ったクッキーを彼女に差し入れた。

「わ! そんな、わざわざ良いのに…」
「あの時は本当に助けられたからな。むしろこれじゃ足りなかったかもしれねえ」
「そんなことないよ、私からしたらあのくらい、なんてことないんだもん。むしろこれのお返しを考えなきゃ」
「それじゃ、キリがなくなるだろ」

思わず衝動に任せた笑みを零すと、なぜかまたみょうじはぽっと顔を赤くして俯いた。

「あのね、私…あんまり人の厚意を受けることに慣れてなくて。あの時も本当に、"全てが丸く収まるように"としか思ってなかったから、当たり前にしたことをこんな風に"恩"と思ってもらえるなんて想像もしてなかったの。だから…ええと、」

変な奴だな、と思った。
普通、こういうのって見返りありき────とまでは言わないが、どこかしらで自分の与えた恩を回収しなければ、心の淀みが溜まっていくことが定石と考えていたからだ。無論、オレはその辺りの見返りまできっちり計算している方なので…もしかすると、単にオレの性格が悪いだけなのかもしれない、とも思う。

ただ、そう考えるとむしろ、彼女はあまりにも純粋無垢が過ぎるのではないだろうか。計算高いというよりは、場の空気を調整することに長けていると言った方が相応しいのかもしれない。

「そういう時は、素直に受け取っておけよ」

先に助けてもらったのはこちらの方なのに、つい上から目線の言葉が出てしまった。それでも、この不器用な奴に、"感謝を伝える"ことがどれだけ当たり前で、そして大切なことなのか、それによって満たされる気持ちがどれだけ温かいものなのか(彼女がどれだけそれを実感してくれるかはわからないが)…それを伝えるまでは、きっとオレの恩返しは終わらない────そう思った。



だから、ある時はこんな会話を。

「────おいみょうじ、今日掃除当番だったか?」
「あー、ううん。みさちゃんが委員会と被っちゃったって言ってたから、代わったの」
「…まさか、押し付けられたんじゃないだろうな」
「え、みさちゃんはそんなことをするような子じゃないよ。本当に困ってるみたいだったし、私は暇だったから、こっちから言い出したの」
「…ったく」
「え、東雲君? なんであなたまで箒なんか持ち出して…」
「オレも暇だからだよ。一緒にやるぞ」
「でも、申し訳ないよ」
「吉岡の代わりにお前が掃除当番やってるのは、吉岡に申し訳ないって思わせるためなのか?」
「違うけど…」
「なら、オレの気持ちもわかるだろ」

また、ある時はこんな会話を。

「ど、どうしよう。りこちゃんが西島君の好みを知りたがってるって…」
「なんでお前がどうにかしようとしてるんだよ」
「だって、りこちゃんは隣のクラスでしょ。それで、西島君はうちのクラスでしょ。何か力になれるとしたら、私が一番適任なんじゃないかなって…どこかでこっそり聞き出せたら、りこちゃんの恋路がうまくいきやすくなるかもしれないでしょ」
「それはわかるけどよ、お前がそれでいきなり西島に好みのタイプを聞いたら、お前が西島のこと好きなんじゃないかって勘違いされねえか?」
「あっ……」
「ったく、普段は気が回るくせにそういうとこだけ鈍感だよな…。オレが訊いてきてやるから、リコチャンにはお前から伝えておけ」
「なんで東雲君が!?」
「オレが一番適任だからだよ」

そうやって、ひとつひとつ、彼女に"親切"の在り方を教えていく。
すると、そんなことをしているうち、ひとつオレが彼女に固執する理由が見えてきた。

オレは自分の目的のために。あくまで、自分のためにひとつひとつの行動を起こしている。
対して彼女は、他人のために。自分のことは二の次で、あくまで何の見返りも求めない自然体で、他人に尽くすことができる。

オレにはできないことだと思った。そして、自分にないものであると気付いたその時から、彼女の美点がどんどん洗練されたものに見えてくる。
────惹かれていくのは、必然のことだったと、そう言っても良かった。

ただ、だからといってすぐに交際の申し出をするのかと言われたら、そういうわけでもなかった。彼女は他人のために、オレは自分の夢ために。お互いが見ているものは、お互いではない。恋人になったところで、きっと今までの関係と距離感が変わることはない────それだったら、互いの枷を増やすのは決して得策ではないと────そう、本能より先に理性が告げたのだ。

別に、恋人という肩書きが欲しいわけではなかった。それにこれはあくまでオレの一方的な感情。そもそも恋とすら呼べるのかわからない、ただのこの"関心"で、彼女を振り回したくはない。

だから、距離を詰めたいと思っても、せいぜいこんな提案が関の山だった。

「なあ、今度の休み、ちょっと何か食いに行かねえか?」

案の定、彼女は目を丸くして驚いてみせた。

「い、良いの?」
「誘ったのはオレの方なんだから、嫌なわけねーだろ」

相変わらずの低姿勢な反応に、いつも通り笑ってしまう。
結局取り付けた約束は、土曜の昼過ぎ、渋谷で人気のパンケーキ屋に行くというものだった。

「東雲君ってパンケーキが好きなんだ。なんか意外…って言ったら失礼だね、ごめん」
「いや、言われ慣れてるし、自分でもガラじゃねえなとは思ってるから。別にそこは気にしてねえよ」
「ううん、とっても可愛いと思う!」
「…それ、フォローのつもりか?」
「え、あ、間違ってた…?」

それがあまりにも「申し訳ない」という感情の滲み出た言い方だったので、そこでもまた笑いが零れる。まったく、この女(ひと)といると飽きるということを知らずに済むらしいのだから、厄介極まりない。

────当日は、直接渋谷駅で待ち合わせることになった。
せっかくの休日だというのに、お互いにあまり"デート"を意識していなかったからだろうか。示し合わせたわけでもなく2人ともが制服を着てきてしまった。

「…ふふっ」

珍しく、先に笑い出したのは彼女の方だった。

「なんか、デートみたいなのに全然デートじゃないね」

そういうことをサラッと言えてしまうのも、彼女らしいと言えばそうなのだろう。一度親しくなった後ならば何の下心も裏もなく、思ったことをそのまま言える。そんなところもまた、人として(果たして本当にそれだけだろうか? という疑問が一瞬頭を掠めた)好感の持てるところだった。

「まあ、実際デートじゃねーしな」

一方そういうところで、つい本心と違うことを言ってしまうのは、オレの悪いところ。強い意識は持っていなくても、こちらは今日彼女と出かけることに少なからず特別な意味を見出していたはずなのに、お得意の鍛えられた表情筋は穏やかに、そして皮肉げに笑顔を作ることしかできなかった。
それでもみょうじはそんなオレの心内になど全く気付かず、「デートだったら緊張して家から出られなかったかも。服だって迷いすぎて、結局ダサいって思われたくなかったから制服になっちゃったんだよね」なんて言う始末。

「別に私服でも良かったんじゃねーのか? 人の服の趣味にどうこう言えるほどオレのセンスが良いわけでもなし…」

珍しく空いていたので、通されたのは緑がよく見えるテラス席だった。そよ風に揺れる彼女の髪が陽光を浴びて、少しだけ透けて輝いて見える。それだけで────場所がいつもと違うというだけで、着ているものが同じでも全く違う装いに見えてしまうのだから、もう十分だ…というのがこちらの本音だ。

「アパレル店員が何言ってるの…」

そんなことを考えているとは露ほどにも思っていないようで、困ったように眉根を寄せながら、彼女はメニュー表に顔の半分以上を隠した。

「何頼むか、決めたか?」
「キャラメルマキアートにしようかな」
「パンケーキじゃねーのかよ」
「う、うん。ちょっとお腹空いてなくて」
「…もうちょっと普通のカフェにすれば良かったな。悪い」
「ううん、東雲君にはパンケーキ食べてほしかったから」
「なんだそれ」

飲み物だけを注文する相手を前に、しっかりとした食べ物を注文することに気まずさがないわけではなかったが、結局オレは自分の食欲と、彼女の(おそらく期待しているのであろう)視線に負け、その店一押しと言われている大きなパンケーキを頼んでしまう。

────蓋を開けてみれば、恥ずかしいと思ったのは、パンケーキが運ばれてくるまでの時間だけだった。
元々行きたいと思っていた店のパンケーキ。目の前には、この数ヶ月で他愛ない話を幾度となく繰り返したお陰で、もう外面で繕わなくても良いと思えるまでになったクラスメイト。
きっとみょうじにとっては自然なことなのだろうが、全く視線はこちらに向いていなかった。それがまるで、「ひとりでいると思って、好きに食べて良いよ」と言われているようで────オレは、心ゆくままにその味を楽しむことができた。

半分くらい食べた頃、ふと彼女の方を見やる。その瞬間、偶然なのかどうなのか…彼女とばっちり目が合ってしまった。いつから見てたんだ。

「────こっち、見てたか?」
「ううん、たまたま」

そう言う彼女の手は、忙しなくテーブルと口元を行ったり来たりしている。どこか挙動不審に見えたのは、気のせいだろうか。目が合った瞬間は視線がまっすぐこちらを向いていたはずなのに、それ以降はずっと上下左右に揺らめいているのも、なんだか不自然なように見えた。

「…やっぱ、オレがパンケーキに食らいついてるのって変な光景だよな」
「あっ! そ、そういう意味じゃないよ! ごめん、視線がぶつかったのは偶然で、ええと、その、全然、わざわざ東雲君を見てたとかそういうのじゃなくて…」

慌てた拍子に、手元のマキアートが揺れる。零れないように「わっ」と言いながら急いでもう片方の手でカップを押さえる彼女。別に怒っているわけでも悲しんでいるわけでもないのに、あちらこちらに勝手に注意を削がれている様を見ていたら、それ以降はこちらの方がちらちらと彼女の様子を見ざるを得なくなってしまった。

お互いに相手の仕草を探り合いながら過ごす時間は、なんだかとても奇妙な流れ方をしていた。こちらの食べるスピードに合わせてちまちまと飲もうとしているようだが、いかんせん手元に置かれた量が違う。結局先に飲み終えた彼女は、空いた口で今度は一生懸命話題を提供しようと試みだした。

「そういえば、この間東雲君のお姉さん…絵名先輩のこと、TikTekのおすすめで見たよ。相変わらずめっちゃ可愛かった。すごいバズってるよねえ」

口に入っていた生クリームを盛大に吹き出しそうになったので、無理に飲み込んだら思い切り咽せた。急いでアイスティーを流し込んで呼吸を整え、それでもなお出たのは「なんで絵名のこと知ってんだよ」という悪態だった。

「え? だって学校でたまに見かけるし、瑞希ちゃんが絵名先輩と東雲君はごきょうだいだって教えてくれたし、絵名先輩って元も可愛いし見せ方も可愛いから、SNSでも定期的に出てくるし…」

なるほど、だいたい暁山のせいか。そこまで密接な接点が2人にあるようには見えなかったが、暁山の性格があれなのだ。その程度の情報なら簡単に流れてもおかしくはない。

「仲、良くなかった?」
「良くねえよ」
「でも、嫌ではなさそうだね」
「何で判断してるんだよ」
「んー? 表情かなあ」
「自分でも自分が良い顔してないことくらいはわかるぞ」
「でも、悪い顔もしてない気がする」
「だからなんでわかるんだよ」
「そりゃあ、いつも見てるから」

いつも見てるから。
なんてことのないそんな言葉に、思わず手が止まる。見ると、彼女はまるでそれが失言だったとでも思ったかのように、手をこねながら視線を急いで逸らした。

堂々としていてくれれば、こちらも気にせずに済んだかもしれないのに。
今まで全く気にしていなかったはずの、テーブルひとつ分の距離が急に近く感じる。少しでも手を伸ばせば、すぐ彼女の手に触れられてしまう、そんなことを考えられるくらい、そのテーブルは小さかった。

彼女の方も、こちらの雰囲気に気づいたのだろうか。いよいよ視線が明後日の方に向き、空のカップには外からひらりと舞い込んだ木の葉が落ちた。

そんな不完全な静寂と、透明な膜で覆われたような距離のまま、結局オレ達は解散した。彼女もそこからは変な話題を持ち出すこともなく、当たり障りのない、普段教室で会った時に少し会話をする程度の…授業のこととか、学校行事のこととか、そんな些細で小さなやり取りしか発生しなかった。

その静寂の、反動なのだろうか。それとも、「いつも見ている」という言葉が不審にならないよう、彼女なりに考えた結果なのだろうか。
翌日から、オレ達のあの微妙な距離感はがらりと変わった。

互いに名前を呼ぶ回数が増えた。互いに休日を共に過ごすことが増えた。互いに、互いの話をする機会が増えた。それまでは大抵オレが彼女のお節介を見かねて声をかけていた程度だったのに、彼女の方から積極的にオレに声をかけるようになったのだ。そんな小さな変化があったからこそ、一緒にいる時間が増えたという大きな変化が生まれたのはもはや必然だった。

ただのクラスメイトだった。たまたまあの日、オレが課題の提出を忘れたから。たまたまその日、みょうじが課題を集める係だったから。そんな"たまたま"が塵となって積もり、いつしかオレ達の関係は"互いになくてはならないもの"にまで成長した。

そうなるまでには当然、色々なことがあった。学校行事では何やかんやと同じ係を務めたり、ライブがあった時には見に来てくれたり、彼女のバイト先に突然顔を出して怒られたり。

自分でも、直感を大事にする方だという自覚はあった。
だから彼女と過ごす時間の居心地の良さは、何も間違っていないと────ここにいていいのだと、たとえそれ以上の関係が進まなくとも、そう信じていて。そう、だから…だから、オレ達の距離は縮まり続けたのだ。

「東雲君って、面倒見がいいのにぶっきらぼうなせいで損してるよね」

最初は言葉のひとつひとつを選び、オレに対しても最大限の気遣いを見せてきた彼女だったのに、3年生に上がる頃にはズケズケとそんなことを言うようになっていた。

「彰人君って逆に何ができないの?」

呼び方が変わったのは、3年生の夏休みが明けた頃。春には桜を見て、休みの夜には花火を見て、それでもオレ達の関係を表す言葉は"ただのクラスメイト"だった。色気も何もない。初めてパンケーキを食べに行った日でお互いに何か吹っ切れたのか、二度とあんな風にあからさまに相手の内心を探り合うような空気を生むことは、どちらの方からもなかった。
そう。"クラスメイト"の椅子から頑なに動かないまま、彼女はオレを初めて「彰人」と呼んだのだ。まるで今までもずっとそう呼んでいたかのように。きっと、時が経ってその日のことを言ったところで、彼女は「え、名前で呼んだのってそんなに遅かったっけ?」と言うことだろう。本心なのか、とぼけているのか、きっとこちらには終ぞわからないと思うが。

それらの小さな言葉に、いちいち何と返したかは覚えていない。どれも些細な会話だったし、記した通りオレは彼女の物言いや呼び方の方に気を取られて、その内容にまで思考を巡らせる余裕がなかったのだ。

多分、本当に、好きだったのだと思う。
言葉にすることを憚るくらいには。触れることを恐れ、差し出しかけた手を何度も引っ込めたくらいには。
彼女とオレの間に明確な差があると思うのは、その部分だ。彼女はいとも簡単にオレの懐に入ってみせたが、オレはといえば、彼女の細かな変化や自分に対する態度にばかり気を取られてしまっている。最初は彼女に"当たり前の親切のありがたみ"を教えてやろうなんて偉そうなことを考えていたはずなのに、今やすっかりその立場も逆転してしまっている。彼女に何かを言い聞かせたりする暇がないのだ。だって、その前に彼女の言動ひとつひとつに対して、こちらは理性を制御することに精神のリソースをいっぱいいっぱいまで割く羽目になるのだから。

人を思いやる時の、優しい笑顔。苦労を苦労と思わない、明るい声。彼女自身のことを話させようとした時の、照れたような仕草。こちらを見る時の自然な上目遣いと、オレを呼ぶ時の嬉しそうな表情、少し鼻にかかった高い声、日に当たると透けて見える髪と瞳。
そのどれもが、彼女を作る大事な要素だった。始まりがどれだけ偶然と言われようと、そのどれかが欠けていたら、きっとそれはオレが今見ている"彼女"じゃない。そのどれもが揃っていたから、オレは彼女のことを"彼女"と認識し、そしてその全てがかけがえのないものと思えるようになっていた。

"自分のために"、距離は詰めない。
そう考えていたものがだんだんと変化して、"彼女を傷つけないために触れない"という思考になったのは、いつからだったか。

「みょうじ」

だかwらどれだけ親しげに名前を呼ばれても、どれだけ頻繁に遊びや勉強会に誘われても、オレの方から彼女の名前を呼ぶことはなかった。きっと、彼女は聡いから────オレのそんな意図にも気づいたことだろう。何も指摘されることはなかったし、ましてや「彰人君も名前で呼んでよ」なんて図々しいことを言われることも決してなかった。

その代わり。

「彰人君は優しいね」

いつかどこかで、そう言われたことがある。下の名前で呼ばれていたから、3年の夏以降のことだろう。

「…何だよ、唐突に」
「普通だったら、私みたいな"当たり障りのないやつ"にそこまで良くしてくれないよ」
「……何かあったのか?」
「ううん、別に。ただ、今までは私のことを"個人"として扱ってくれる人がそんなにいなかったから。────ああいや、それが嫌だったってわけじゃないよ、嫌なら自分で変えればいいだけの話なんだから。ただ、彰人君みたいに好き好んで…かはわからないけど、"私"っていう人とずっと一緒にいてくれた人は初めてなんだ」
「それが"優しい"、って表現になんのか?」
「変かな。私からしたら、こんな没個性の人間と一緒にいながらいつも楽しそうにしてる彰人君が隣にいてくれて嬉しいけど……。きっとそんな嬉しい毎日が続くのは、彰人君が優しいからだと思うんだ」

ありがたい言葉だが、生憎それはきっと、優しさのせいじゃない。
ただ、オレは────。

「オレはただ、お前が────」
「ありがとうね。"優しく"してくれて」

────思わず本音をさらけ出そうとした時、彼女の方から先にそう言われてハッとした。



彼女は、気づいていたのか。
オレの気持ちにも、おそらく、彼女自身の気持ちにも。



それでいながら、"好きだ"という気持ちを"優しい"という言葉にすり替えて、オレが伸ばしかけた手を避けたのだ。別にそれこそ嫌そうな顔を見せられたわけではないが────それこそオレだって、彼女のことをいつも見ていたから、わかる。今のは、完全にはぐらかされた。
理由はわからない。今まで"個"として扱われる機会に恵まれなかった、というその過去が作用しているのだろうか。誰かの"特別"になることを、知らないが故に恐れているのだろうか。

何もわからない。だから、それ以上は何も言えなかった。訊けなかった。
だってこの「好き」という曖昧な感情は、オレにとっても大切なものだったから。自分本位な感情で振り回したくない。壊したくない。
大切にしたいと思った人だからこそ、この関係に終わりを打ちたくなかったからこそ、オレはこのもどかしい現状に甘んじ続けていた。

「…無理に優しくしようとして一緒にいるわけじゃねーしな。そんな難しいこと考えたこともねーよ。オレだってお前といるのが居心地が良い、ただそれでつるんでるだけだ」

慌てて「お前のことをずっと見ていたいから」、「オレの隣に居続けてほしいから」────「好きだから」────そんな言葉を全て封じた。
そうやって、いつも通り突き放すような言い方をしたら、みょうじもいつも通りに笑った。どうやらちゃんとオレは、"いつも通り"ができていたらしい。
だから、これでいいのだと思った。

────最後の春が来ても、それは変わらない。

「下手に話を聞いてた偏見で、勝手に彰人君も海外に行くんじゃないかって思ってたよ」
「────伝説を"越えた後"のことは考えてなかったからな。それまでは"伝説"のことしか考えてなかったから何もかもを後回しにしてたけど…それはつまり、欲しかったもんを全部我慢してただけに過ぎねえ」

放課後の屋上、2人きり。オレは頭の後ろで腕を組みながら、ぼんやりと未来に思いを馳せていた。

「せいぜいこの後は色々興味を持ったもんに手出しながらその日暮らしを楽しむ貧乏人生でも送るよ。もちろん、音楽が一番であることには変わりねえけど────でも、半端でしかなかったオレを育ててくれたこの街には恩もある。音楽をやり続けるなら、ここでやりたいんだ」
「音楽を第一にしながら、他のことにも手を出す、かあ…。…知ってる? それってすっごく贅沢な望みなんだよ。なんでもかんでも欲しがって手を伸ばす、ってさ。もしこの先"音楽と同じくらい興味を持っちゃったもの"ができたとして、音楽とそれ、どっちかを選ばなきゃいけないってなったら────どうするの?」
「欲しいもん全部が手に入る道を見つけるために、足掻いてやるよ。オレは元々何の才能もない。だから努力だけは、絶対に誰にも負けないくらいにしてやる」

オレも彼女も、ちょっとばかり素直じゃなかったから。

「みょうじこそ、介護かなんかの専門に行くんだと思ってた」
「なあに、その偏見」
「人のことを助けたい、っていつも言ってるだろ」
「人を助ける方法は何も直接的な介護だけじゃないよ」

彼女もオレも、きっと本当は気づいていたけれど。
心の奥に秘めた感情、同じ日を過ごすうちに芽生えた感情、その名前を知らないほど、子供じゃなかったけれど。

それでも。

「楽しかったね、この3年間」
「つるんでたのは1年ちょっとだけどな」
「それも含めて楽しかったよ。最初はまさか、あの"シノノメクン"とこんなにゆっくり話す仲になるなんて思ってなかったし」
「────もっと」

もっと早く口を利いていたら、相変わらず触れられない距離は、2人の間に張られた膜は、溶けたのだろうか。そんなもしもが一瞬頭を掠めたが、"それ"を選ばなかったのはオレだ。
そしてこの高校3年間を限りにこの関係を終わらせる未来を選んだのは、紛れもなくお互いの意思だった。

「…もっと?」
「なんでもない。卒業しても、元気でな」
「うん、彰人君もね」

そうやって、18歳の春、オレ達はその後の連絡先を交換することもなく、学校という互いが唯一必ず顔を合わせられる場を去った。

それ以降、彼女とは会わない。そう決めて、縁を繋いでくれた場所を去った。

────はずだった。



あれから、10年の月日が経っただろうか。
オレは相変わらず渋谷に拠点を置きながら、昼は働き、夜は時折パフォーマーとしてライブ会場に顔を出していた。まあ、平たく言えばアマチュアのストリートミュージシャンだ。やっていることは変わらない、あの時のオレのまま。

みょうじのことを完全に忘れたわけではなかったが、それでも思い出す回数は確実に減った。謙さんに言わせれば、「誰しもが通る青春の道」とのことらしいのだが、生憎青春と呼べるほどのことはしていないので、そのどこか色褪せたような言葉にはピンと来ていないものがある。

この10年、何人かから好意を寄せられたことはあった。ただ、どれだけの美人を見ても、どれだけ気立ての良い女性と過ごしても、あの穏やかでありながら互いの仕草にどうしたって目を奪われてしまうような、そんな一瞬たりとも目を離したくないと思える存在に出会えることはなかった。
あの日々を照らした光は、"思い出"と呼べるには些か強すぎたのだ。

でも、卒業して以来彼女とは連絡を取っていなかった。共通の元クラスメイトに頼めばいつでも連絡先を聞くことはできたのだろうが、不思議とそれを"してはいけない"という気にさせられていたのだ。────おそらく、学生時代から感じていた彼女との薄い壁のせいで。

彼女はきっと、あの3年間を"閉じ込めておきたかった"のだろう。なまじ親しくなったせいで麻痺していたが、彼女は元からあまり人と深く関わらない性質だ。場をうまく回すことが好きだと言っていた策士の彼女が、自らの情で、それこそ高校生の軽率な情で、誰かに絆される光景がどうしても想像できなかった。
だからきっと、現状維持で良い。きっと、オレだけが"忘れられない恋"として心の奥底にしまいながら、後ろを振り返らないよう前だけ無理矢理見据えて歩んでいくことになるのだろう。彼女はもうきっと、全てを過去にして、自然に前だけを見ながらスキップでもしていることだろうに。

そう思っていた、ある日のこと。

「────彰人君?」

突然、街で声をかけられた。聞き慣れた声だ。何度も頭の中で思い浮かべた声だ。

「…お前、」

"彼女"は少し髪を染め、大人っぽい衣服に身を包み、少しだけ痩せた姿で立っていた。それでもその表情はあどけなく、雰囲気には微かに10年前の残滓が纏われている。

みょうじだ。あの時、一生の別れを覚悟していたはずのみょうじが────再び、目の前にいる。

「久しぶりだね。ていうか、こんなところで会うなんて偶然、起こると思ってなかった」
「────連絡、取ってなかったからな」

そう言うと、彼女は少しだけ悲しそうに笑った。

「…今、少しだけ時間、ある?」

突然の誘い。驚かなかったわけではないが、ちょうど今日は休みの日。暇潰しのため外に出ていただけなので、時間ならある。

「彰人君ならきっと気づいてたよね。私が────彰人君のこと、好きだったってことに」

快諾しようとしたのに、その前にオレがずっとずっと、ずっと秘密にし続けていたことを暴かれてしまった。思わず、狼狽えて返事に詰まる。
もちろん確信はなかったが、悟られているだろうと思った場面なら何度でもあった。その隙に、衝動に任せて本音をぶつけてしまおうかと駆られた時もあった。でも、彼女はその度にうまくオレを牽制して、理性を取り戻させていたのに────今になって、どういう風の吹き回しなのだろう。

きっと彼女は、オレから恋心を寄せられても、そして(これは自惚れと推測という曖昧な要素があまりに多すぎるが)彼女がオレに恋と呼べるほどの強い感情を持っていても、そこから"名前のある関係"に進むことを望んでいないだろうと…そう思っていたのに。
────だから、牽制していたんじゃなかったのか?

「ずっと好きだった。それでも彰人君に媚びを売ったり、好かれようとはしなかった。もしかしたらそれすら察しがついてるかもしれないけど、それにはちゃんと理由があったんだ。思い出話がてら、よかったら聞いてくれたら嬉しいな」

昔のみょうじなら、こんなにも簡単に"好き"という言葉は吐いていなかっただろう。10年という月日はやはり大きかったらしい。そして彼女の言葉の節々に、"あの時の感情は全て過去のものだよ"と言われているような気がしてしまう。だって、「思い出」とは過去にしか存在しないものなのだから。
だったら尚更、どうして今になってその話を出してくるのだろう。今更彼女が、何かオレに伝えなければならないことなんて、あるのだろうか。
"今"に取り残されているオレは、突然の出会いと突然の暴露、そして相変わらず測りきれない彼女の言葉のせいで、内心に少しだけ小さな切り傷を負っていた。

それでも、もう二度と会えないと思っていた旧友。もっと言えば、憧れていた人。
断る理由を見つけることは、できなかった。



「ご注文は?」

行った先は、最初のデート(ではないと互いに言っていたが)で使ったカフェのテラス席。

「すみません、キャラメルマキアートを」
「特製パンケーキ、お願いします」

ほぼ同時に言って、驚きに目を見合わせる。

あの時マキアートを頼んだ彼女は、パンケーキを頼んでいた。
対してあの時パンケーキを頼んだオレは、マキアートを頼んだ。

「…こんな偶然も、あるんだね」
「なんだ、胃袋、拡張したのか?」
「ううん。あの日────彰人君があまりにもおいしそうに食べてたのが印象的だったから、今度こういうお店に来た時には私も食べてみようって思ってたの。そっちこそ、どうして急に?」
「この年になるとパンケーキが重く感じるんだよ。むしろマキアートをちびちび飲んでるお前のことを思い出して、なんとなく同じ味を経験したいって思った方が理由としては強い、かもな」
「なんか恥ずかしいな」

注文した品が届くまでの間、連絡を取っていなかった昔話に花を咲かせる。高校卒業後のこと、大学で学んでいたこと、新しい趣味が見つかったとか、どこそこのバイト先でひどい目に遭ったとか、就活が大変だったとか…。

「彰人君が今でも歌をやっていてくれて良かった。またライブハウス、行きたいな」
「いつでも歓迎するぞ、お前なら。それにお前も、結局今も"人助け"の仕事をしてたんだな」
「私にできることしかできないけどね。でも、やっぱり私は、自分で考えた計画が思い通りに進んで、物事がうまく回せた時の達成感にとっても充足するみたい」
「そりゃ、相変わらずで何よりだ」

そんなことを話している間に、パンケーキとマキアートが運ばれてきた。

「わ、おいしそう…!」
「うまいぞ、ここのパンケーキは」

ぱくりと、大きめに切り取った一切れを放り込む彼女。たちまちその顔はとろけ、"おいしい"という気持ちが全面に表れた。
────そういえば冬弥にこう言われたことがあったっけ────「お前は顔全体で"美味い"って表現してくれるから、見ていて飽きない」と。なるほど、それはこういうことだったのかもしれない。

「…初めてここに来たあの頃は、そんな風に食い物ににかぶりついたりしてなかったのにな」
「お行儀悪かったかな」
「いや、うまそうに見えるからそのまま食っててくれ」
「…じっと見られたら食べづらいよ」

その言葉に、10年前のここで起きた光景を思い出す。彼女も確か、オレのことを気づかれないように凝視していたっけ。
────もしかして、こういう気持ちだったのだろうか。美味そうに食ってるやつを見ると、こちらが無理に食べなくても満腹感が得られる。それに、単純に────可愛いと思った。

なんだか、10年も離れていたにしては、行動が似ているような気がした。お互いこの空白の時間、色々あったことだろう。それの先に行き着いたのがこの逆転現象なのだしたら────もしかすると、本当に相性が良かったのかも、あるいは根本的なところではずっと似ている性質を持っていたのかも、なんて思う。

「彰人君があの時パンケーキを食べてたのは、正しいことだったんだね」
「なんだそれ。飯を食うのに正しいも間違いもないだろ」
「うん。でもね────私、ほら…人の空気をいかにうまく回していくか、ってことに一生懸命になってたから…。自分のためにこうやって自分を甘やかす体験は、未だに珍しいんだ」

カチャリとカトラリーを置き、彼女はオレの方をまっすぐに見る。

「私が彰人君にも、他の誰にも本気で心を許してこなかったのはね」

媚びを売ったり、好かれようとしなかったことには、理由があると言っていた。少し躊躇うように、カトラリーに手を据え、彼女はその場の沈黙を長引かせた。

「────怖かったからなんだ、単純に。あの時の私は、今よりもっと臆病だったの。場の空気をうまく回せた時に達成感を持てるって言ったのも、裏を返せば自分のせいで空気を壊して誰かの悪意を受けることがすごく嫌だったから。そのためには、誰にも肩入れせず、誰の味方にも敵にもならず、自分が空気になる必要があった。それは────彰人君が相手でも、変わらなかった。むしろ空気の目になることが多い彰人君に必要以上のものを求めたら、いつか私達の関係も、私の居場所も壊れると思ったの」
「空気の、目?」

一発では理解のできない比喩を用いられ、彼女が申し訳なさそうに(「人に心を許していない」という内容の話を、仮にも高校生活で一番長く時間を共にしていた相手に向けているのだ、彼女の性格的に無理もない)俯いている様を見ながらも、言葉を挟まずにはいられなかった。

「私は大気に薄まって、流れていくだけの空気。彰人君は、自分で空気の温度も濃度も調整できるし、周りの人を空気の中にうまく巻き込んでいくことができる……元素みたいな人、って言えば良いのかな? 自分で言っててもうまく説明できないんだけど…とにかく、彰人君は私にとって、"本当はなりたい姿"そのものだったの。明るくて、人気者で…"なりたいけどああはなれない"私は、あなたと話す前、きっと接点すら持たずに高校生活を終えていくんだろうって思ってた」

視線は合わない。少し上のほうに向けられた彼女の瞳は、きっと過去を見ているのだろう。

「それが、偶然をきっかけに、少しずつ接点が増えていって、一緒にいることが当たり前で────。彰人君と同じようになれるわけなんてない、かといって、彰人君とあれ以上の関係に進んだら、きっと私は"私のあれる姿、私がなるべくしてなる姿"のままですらいられない、そう思ったら…なんだか無性に怖くて。変に友達を盛り上げるような役割になっちゃったら、どこかで私は失敗して、また孤独になるって思っちゃったの。…ちょっと卑屈な表現になるけど、要は地味な私がクラスの中心にいる彰人君なんかと釣り合うわけがないって────そんな自分勝手な気持ちで、どこか遠ざけてた」

ごめんね、とその時初めて視線が合う。その目は苦しげに揺れていて、笑おうとしているのに唇も震えていた。カトラリーを押さえる手にだけ固く力が込められている。

「彰人君が私に良くしてくれる度、嬉しかったけど、苦しかった。憧れてる人に優しくしてもらえる、それを利用してるみたいな気持ちになったし、友達に対してずっと"あなたはきっと、あのまま世話の焼ける私のままでいたら、そうである限り気にかけてくれてるよね"って保険をかけ続けてる自分が何より嫌いだったから。もちろん、そんな悪意を持って近づいてたわけじゃない。でも、客観的に見た時にそう思われても仕方ないじゃないか、って思ってる自分もいたから…それが、本当に申し訳なかった。だから、彰人君が怪しい言動を取ってきた時、どうしても避けざるを得なかったの」
「……」

何と返せば良いのかわからなかった。せめて「怪しい言動って、そんな言い方はないだろ」と笑ってやれば良かったのかもしれないのに。なんだかそんな気分にもなれなかったのだ。
だって、流石にそこまでの壁を作られているとは思っていなかったが、ずっと彼女のは腹の底に"何か"があることは察していたし、むしろそこに彼女なりのものとはいえ、ちゃんとした理由があったことに安心した節すらあったほどなのだ。…まあ、内容が内容なので、良い感情を持ったわけではない、というのもまた事実ではあるが。

「…それならどうして、今になってそれを話そうと思ったんだ?」
「…今、また"偶然"が生まれたからだよ。ううん、"奇跡"って言った方が良いかな…"運命"は重過ぎる気がするしなあ…」

再び、フォークとナイフがカチャリと音を立てる。

「高校を卒業して、大学に入って、会社に就職して…少しずつ、世界が広がっていった。あの時は神山高校の30人程度しかいない1クラスの中だったから、私の存在がいくら薄くても、ある程度うまい立ち回りができるよう配慮する必要があったけど…。大人になったら、誰かひとりの空気が淀んだところで、流れが変わったところで、大局に影響が出ることはないことに気づいた。私って、良い意味で思った以上に"たいしたことがないんだな"ってことがわかったの。そうしたら、色々と楽になって────そこからは、他人の関係性を勝手に慮ったり、悪いことが起きた時に自分のせいだって過度に思わなくて良くなったり、それこそ"一緒にいたい"と思える人と、"一緒に過ごしたい時間"を過ごせるようになって…」

一口パンケーキを含み、ゆっくり咀嚼して飲み込んで、ホットティーを喉に入れた後で、みょうじは再びオレを真正面から捉えた。

「────もう一度、彰人君と新しく"出会い直す"ことができたらいいなって思うようになった」

それを聞いた瞬間、オレの手が完全に止まった。

『出会い直す』。

それはかつてのオレが仄かに願った、「もっと長く一緒にいることができたなら」という願いに通じているような気もした。
全てが偶然だったから、何も選べなかったけれど。もしも出会う時を選べるとするなら、きっとあの高校2年生の時だけは選ばなかっただろう。もちろん、あの時間が無駄だったとは言わない。ゆっくりと積み重ねた偶然がなければ、今ここで再会した偶然はオレ達をこの席に誘ってくれなかっただろうから。

あの時間は必要だった。その上で、あの時間は"今"を繋ぎたかったオレにとっても、"過去"を忌みながら生きてきた彼女にとっても、早すぎたのだ。

「ずっと自分勝手な話ばっかりしてごめんね。今日引き留めたのは、あの時の後悔を"私のために"告白したかったのと、その上で…やっぱり彰人君は、私にとって大事な存在だったし、これからも大事に思い続けてしまう存在なんだろうってことを、これまた一方的に伝えたかった…それだけ」

ちょうどその時が、彼女の食事が終わったタイミングと重なった。残りの少ない紅茶を飲み干すと、10年前に流れたあの静寂が嘘のように、それこそ木の葉が落ちる暇すら与えずに、彼女は鞄に手をかけた。

「…帰るのか?」
「私の我儘で付き合ってもらっちゃったから。言い逃げって言われたらそうなんだけど、でも、私が彰人君を大事にしてることと、彰人君が私をどう思ってるかっていうのはまた別の話でしょう。その答えを聞こうとすることこそ、私のエゴが過ぎると思うんだ。だから、私の話はおしまい。聞いてくれてありがとう、やっぱり彰人君は変わらない────優しいままだった。嬉しかったよ、ありがとう」

止めたのに、財布から自分の頼んだ分のお金を出す彼女。このままひとりで帰ろうとしていることは、火を見るより明らかだった。
みょうじの話はこれで終わった。つまり、"彼女の用事は────"思い残したこと"は、全て解消されて終わったということだ。

────ならばここからは、オレが動かなければいけない。オレがこのまま黙っていたら、この時間も、過去の時間も、今度こそただの青春という色褪せた陳腐な言葉に収まってしまう。

そうしたいのなら、あるいはそれでも良いと思えるのなら、まっすぐに伸びた背と少し伸びた髪が靡いている様を眺めていれば済む話だ。何も難しくはない。

────難しくないからこそ、オレはあえて立ち上がった。
今までだって、たくさんの困難にぶち当たってきた。難しくない道を選ぶより、難しい道を選んで苦しんできたことの方が多かった。

だから、この程度。
こんな"簡単な難しさ"を放っておくほど、オレは残念ながら臆病ではない。

「なまえ!!!!」

────初めて、名前を呼んだ。どうしても振り返ってほしかったから。どうしても、この停滞を破壊したかったから。もう、遠慮はしたくなかったから。

「………オレの、恋人になってくれねえか?」

────ああ、やっと言えた。
彼女の本音を聞いて。それなりの時間が経って。もう互いを縛るものはなくなって────ようやく、オレはずっと押し殺していた気持ちを伝えることができた。
だって、色褪せた青春にしたくなかったから。彼女の背を黙って見送ることが簡単なのはわかっている、でも、オレにとってはそちらの方が余程難しかった。この先の彼女の返答がどうだって良い、彼女が全てを曝け出して、これだけ時間が経ってもなおオレを大事だと思って、もしかしたらそれを捨て台詞のつもりで言ったのだとしたら────オレだって、今までずっと言えなかった本気の言葉を吐き捨てる権利くらいあるだろう。

彼女は素直に立ち止まると、驚いたようにはっとした顔で振り返った。

「え…?」
「オレにも"あの時"思ってたことを言う時間をくれ。もっとなまえのことを知りたかった。もっとなまえの話を聞きたかった。本当は卒業の時に新しい連絡先を交換したかったし、この10年間で何度もなまえのことを思い出してた」

恋と呼ぶには、熟成させすぎた感情のような気がする。それでも、言葉の奔流は止まらなかった。名前を何度も何度も呼んだ。一度呼んだが最後、もう名字の一文字目すら出てこなかったのだ。10年溜めていた、「名前を呼びたい」という願望が、今になって光り輝いて、それ以外の選択肢を失わせる。
名前だけじゃない。それこそ"あの時"にそれぞれ言いたかったことが堰を切って溢れてきたように、何も考えないまま、言葉を選ぶこともしないまま、彼女に本音だけをぶつける。

「でも────そうだよ、オレは、お前がオレに対して壁を作っていることを察してた。だから、踏み込めなかった。勇気がなかったのはオレの方だ。その、今までそんな風に…"誰か"に執着したことがなかったから、勝手がわからなかったんだ。踏み込んで良いのか、そのまま逃がすべきだったのか、わからなかったから…結局、何もできなかった」

ああ、後悔していたよ。
忘れたつもりになっていた。結局あの時間は、学生時代────若いからこそ経験できた一時の情に過ぎないと思っていた。
でも、本当はそうじゃなかったんだ。心に閉じ込めていただけで、舌先で嘯いていただけで、決して本心に嘘はつけずにいた。

もしあの時、こうしていたら。
もしあの時、ああ言っていたら。

そんなたらればを、実は何度も繰り返していたんだ。きっともう二度と会えないと思っていたから、たまにそうやってしみったれる時間があったって良いだろって、自分を甘やかしていたんだ。うまくいかなかった時、逆に何か良いことがあった時、そこに彼女がいてくれたら、なんて…そこまで無意識に考えてしまった瞬間、自分がいかに情けなく、そして彼女に絆されていたのかを思い知った。

そう。
過去にしていたのは、彼女だけだと"思っていたから"。
この先どんな偶然があろうと、奇跡や運命に後押しされようと、2人の関係が変わることはない────そう思ったからこその後悔だった、そうだろう?

でも、今、そんな偶然と奇跡と運命の全てが、この状況を作った。
偶然彼女に出会い、奇跡的に彼女の方から話をしたいと言ってもらえ、そして運命は、過去の2人の気持ちを今になって繋いだ。

もう遠慮は要らない。閉じ込めていた扉に、鍵なんてついていなかったのだから。

────実を言うと、今もまだ音楽は諦められない。小学生の時から憧れていたものは、簡単には手放せなかった。この小さな街の中でも、まだまだやれることがあると思っている。新たな音楽家達は日々生まれ、頭角を現し続けている。海外に行かずとも、この街を捨てずとも、鳴らしてきた音を忘れずとも、オレの音楽人生は決して終わることがないのだ。

それでも、ここで彼女の手を放すくらいなら音楽でさえ、と一瞬思ってしまった。彼女の存在は知らない間に、オレの人生ですらある程度蝕んできていたらしい。

どちらかを選べ、音楽と恋情は両立しえないのだから、強欲の果てに全てを失うだけだと言われてしまえば、きっとそこまでの話だ。きっとオレはどちらも選びきれることができないまま、何も得られず空虚な凡人として明日の続きを生きていくだけになる。

でも、こうも言うではないか。『全てを捨てるか、その人と添い遂げるか、その秤にかけても良いと思えるほどの人と出会えた時、自分の"音楽"は本物になる』と。冬弥に聞いた話によれば、クラシックの音楽を作ってきた偉大な作曲家達の多くは、恋愛に翻弄され続けながら生きてきたそうだ。「恋愛は人の人生を簡単に狂わせるらしい。だからこそ、狂うほどに音楽を愛した人は、誰か他の人のことを愛することで、自分の音楽に厚みを持たせてきたと…そう聞いた」と言っていた。

「欲しいもん全部が手に入る道を見つけるために、また足掻いてみせるさ」

いつか、他愛のない話の中で当たり前のように笑った自分のそんな言葉を思い出す。10年前は、こんな局面に遭うとは思っていなかった。本当に迷いが生じる場面に出くわすなんて考えたこともなかった。

だから、既に答えを出してくれていた過去の自分には、感謝をするしかないのだろう。

「オレは、なまえのことが好きだ。恋人になってくれ。もう、何かを言い残したまま別れたくない。昔と変わったところがお互いにあるかもしれないし、あの時と同じように付き合えるかどうかもわからない。でも、なまえにとってオレがこれからも大事な存在であり続けるって言うなら、そう言ってくれるなら────オレの答えも同じだ。なまえの存在はきっとずっと忘れられないものになるし、死ぬ時まで届かないってわかっていても手を伸ばし続けるような、一番でかい未練になる。どうかそれを、未練のままにさせないでくれ」

その時、オレはどんな顔をしていたのだろう。彼女は笑って「そんな顔しないでよ」と言いながら、帰りかけの腰を再び椅子に戻した。

「ありがとう、そんな風に言ってくれて。────まさか、そんなにすぐに答えを返してくれるなんて思ってなかった」
「こっちこそ、こんなに早く絶縁の話を持ち掛けられるなんて思ってなかったよ」
「だって、本当に出会い直せるなんて思ってなかったもん。答えが最初から、私の予想がつかないところで、、それでも何かひとつに絞られるってことだけは、想定してたし。それがたとえ悪い予想の方に的中したとしても受け入れようっていう覚悟だけは、決めてきてたから」
「ああ、オレもだよ。まさか本当に、"あの話"の続きができるなんて思ってもみなかった。予想のつかないところで、なまえ…あ、いや、みょうじが急にそんなことを言ってくるとは思ってなかったから────もうそれなら、オレも遠慮なく答えをひとつに絞る。今、ここで。お前と一緒にいたいっていう答えを」
「ふふ、やっと名前で呼んでくれた」

"あの話"とは、卒業の別れ際に放った「もしも」の続き。
未来がこれからも繋がるならと思っていたが、もう最初から諦めるしかなかった。それを、ずっと悔いていた。

だからこちらはようやく安堵できたというのに、彼女は能天気に自分の名を呼ばれたことを喜んでいた。

「ずっと彰人君、頑なに私のことを名字で呼んでたよね。距離感がわかりやすかったから助かったところもあるけど────でもやっぱり、"恋人"になれるなら名前で呼んでくれた方が嬉しいな」

その笑顔は、太陽より眩しかった。今更羞恥に襲われたが、きっと彼女はそんなことは全く気にしないだろう。むしろこの先どこかでまた名字で呼んでも、「いつかはまた名前で呼んでくれそうな気がする」と構えてくれるような気がする。

膜が、破ける。
手が、触れる。
ようやく、互いに甘えられるその時が来た。

"あの日"のオレの葛藤は、知らなくて良い。そんなことより、今はお互いに"今"のことに目を向けよう。

「…じゃあ、これからは…」
「うん、恋人として────よろしくお願いします」

それでもまだ、この小さな手のひらを「オレのもの」と言うには時間がかかりそうだ。
何せオレ達は、今巡り巡って"出会い直した"ばかりなのだから。

初めて触れたなまえの手は、驚くほどに熱かった。顔を見ると、ああ────これはよく見てきた顔だ。照れて、うまく喋ることもできなくなって、それでも心で思っていることがよく表れている…そんな表情。
きっとこの10年でオレ達は随分と変わった。でも、変わらないところだってあった。
なら、きっと大丈夫だ。

じゃあ、まずは何から話そうか。
"少し"と言われていた時間は、存外延びそうな気配がした。でも、それが嬉しくて…なまえも嬉しそうにしてくれていることが、更に嬉しくて…。

オレは、一瞬だけ"あの時"に戻ったような気がしていた。
さて、それならば…一緒に、戻ろうか。初めて出会った、あの日に。









×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -