あなたがいるから、夏が好き。[上]



1学期が終わる頃、いつも通りに一緒に帰っていた時。
隣を歩くなまえがいきなり立ち止まるので、危うく俺は彼女を置いてけぼりにするところだった。振り返ると、彼女は掲示板に貼られているポスターを見ている。

「────花火大会?」

一番目立つところに貼られていたのが、ここから2駅ほど離れたところで3週間後に開催される花火大会のイベントポスター。しかも場所は、前に冬弥と一緒にイベントに出場した時のステージも配置されている大きな公園だった。

「ねえ」

普段の声よりあからさまにワントーン上がった彼女の声と、星がいくつも瞬いているような瞳を一身に浴びて、俺は思わず溜息をつく。

「花火大会行きたい!」
「花火大会行きたい────だろ」

全く同じタイミングで狙っていた言葉を被せると、なまえが期待に満ちた表情でこくこくと頷く。
まあ、だいたいわかってたさ。こういうイベント事に対してこいつは目がない人間だ。

日程をちゃんと確認した上で、鞄の中から手帳を出し、「ええと、彰人が出るイベントはこの日とこの日で…この日は多分練習が忙しいから…」といつの間に取得していたのかわからない俺のスケジュールを確認しながらブツブツと呟き始める。「行きたい」とは言いつつ、元々彼女と俺が付き合い始めたきっかけは"それぞれが本気で向き合っているものに対して限界を超えてみせる"という姿勢にお互い尊敬の念を覚えたから。こうして時間の合う時間には一緒にいるのが当たり前だが、彼女は絶対に俺の音楽に関するスケジュールを尊重してくれている。その辺りの気遣いに余念がない彼女に、俺は心の内でいつも感謝していた。

「────その日の夜なら、空いてるぞ」

だから、彼女が勝手に俺の日程に対して気遣いを挟みつつ「この日はダメ、この日もダメで…」と真剣に考え込んでいるところを遮り、先に予定を空けることにした。もちろん歌の練習は欠かせないし、イベントの前後は自分自身にも余裕がないから、なかなか一緒にいる時間を取ることができない。
でも、年に一度の夏祭り。大々的な花火大会も開かれる、一目見て賑わうことがわかる"楽しそうな"イベント。

お互い目標を第一に置いているのは前提として────それでもその上で、俺は彼女との時間も大切にしたかった。
だから、一晩空けるくらいなら易いことだ。────だって、お互い自分の時間が最優先とわかっていながら────それでも共にいようと思えたほど、惚れこんだ女だったのだから。

「本当? 大丈夫? 翌日それで練習遅刻したとか言われても責任持てないよ?」
「バーカ、遊びの予定を入れた後に遅刻するなんて舐めた真似、俺がするわけねえだろ」
「だよね、そこは信頼してる。じゃあ〜久々のデート、この日の時間は私がもらっちゃおうかな」

軽いノリで普段から俺を引きずり回す図が目立つなまえだが、その心の底ではいつでも俺の状況を考えてくれていることが近付けば近付くほどよくわかるようになる。
いつだって、彼女が俺を振り回す時には、俺が"本当に望んでいないことがあればすぐに断ることができる"隙間を作ってくれている。俺は彼女の、彼女なりのそんな優しさと自由さのバランスが…ああ、そうだよ、好きで悪いかよ。

なまえはそれからあからさまに機嫌を良くした様子で、鼻歌交じりに「何色の浴衣にしようかなあ、髪飾りも新調しちゃおうかなあ」と贅沢な悩みを抱えていた。

「彰人も浴衣、着るでしょ?」
「はあ?」

一通り当日の自分の装いを考え倒したところで、いきなりなまえの興味は俺に移った。

「いや、俺持ってねえし」
「え〜、ケチ。夏祭りなんて年に一度行くかどうかなのに」
「お前が浴衣着たいのは否定しねえし、むしろ楽しみなところもあるけどよ。俺が浴衣なんか着て良いことなんかあんのか?」
「私が嬉しい」
「理由が弱い」
「ぐっ…」

どうせそんなことだろうと思った。なまえの欲望を一刀両断すると、彼女はわざとらしく胸を押さえ、傷ついたような姿勢を見せつけてきた。
…そんな演技をされたところで、結局彼女が俺に何かを押し付けるということは絶対にない。どうせ浴衣も持ってないし、言った通り俺は彼女の浴衣姿にこそ興味はあれど、自分が慣れてもいない服装で彼女をリードできる自信は持てない。そうである以上、装いを変えるつもりはなかった。

の、だが。

「はあ!? なまえちゃんとの浴衣デートでアンタまさかまた去年みたいなクソダサTシャツ着ていくの!?」

吠えたのは、絵名だった。ちょうど夏祭りの日に家族で外食に行かないかと言われ、不機嫌そうに「行くわけないでしょ」と絵名が言った後に「俺も用事あるから無理だな」と端的に断ると、「"用事"? "練習"じゃなくて?」と目敏くいつもの言い方と違う部分に気づかれたのだ。暁山伝いに俺となまえの関係は知られていたから、どうせ最初からアイツと出かけるっていう予定を想定していたんだろう。

だんだんとはぐらかすのも面倒になってきたので、降ってきた質問に機械的に答えていくようになった頃。「アンタ、浴衣持ってる?」と訊かれたところで「んなもん要らねえだろ」と答えた途端、先の怒号が飛んできたというわけだ。

「クソダサTシャツって…普段着で行って何が悪いんだよ。浴衣なんて着慣れねーもん着てってうまく歩けなかったらそれこそダセェだろ」
「何言ってんのよ。たとえ相手がアンタだとしても彼氏のレアな衣装は見たいってのが乙女心でしょ。一晩のデートくらいならそんなに高いもの買う必要だってないんだから、たまにはなまえちゃんに良い格好してみせなさいよ」
「その良い格好で行った結果、あいつとはぐれたり転んだりしてみろよ。乙女心もクソもなくなる」
「そこはうまくやんなさいって。もう良いから、当日までになんでも良いから買っておきなさいよ。それでも私の言葉が疑わしいって言うんなら、周りの女子に同じこと訊いてみれば? ぜっっっったいに100%浴衣を着て行け、って言われるから」
「はあ…」

そう言われたところで、自分から杏やこはねにそんな話を持ち掛けるはずもなく。
絵名の勢いが余りにも強かったことと…それに、冗談交じりとは言え「俺が浴衣を着たらなまえが喜ぶ」という会話を経た後のことでもある。

「────…」

試しに俺は、近くの百貨店に行ってみることにした。










3週間後、夏祭りの日。
18時前、俺はなまえの最寄り駅の改札内で彼女が現れるのを待っていた。
いつもなら行き先近くの駅で待ち合わせるのが常なのだが、今回は俺達2人ともあまり慣れていない駅から20分程度歩く距離にある会場。
方向音痴ななまえと現地待ち合わせにしようものならマップで表示される予測時間の2倍かかることは必至だったし、駅で待ち合わせようとしても人の流れに巻き込まれてはぐれてしまう可能性が高い。

そこまでしなくて良いとはもちろん言われていたが、無理を言って遠回りをしながらこの駅まで迎えに来たのは、ひとえに俺の意思だった。

「この時間の電車に乗ろう」と決めていた時刻が近付くと、多くの人間が改札を通って構内に入ってくる姿が見えた。その中には浴衣を着ている人間もぱらぱらといたので、きっと向かう先は同じなのだろうと予測する。
別に、きょろきょろと視線を彷徨わせる必要はない。どうせ向こうが先にこっちの目立つ容貌を視線に捉えて寄って来るだろうし、人混みの中で彼女を見つけることになら慣れている。

今回だってほら、待ち合わせの時間ぴったりに、藤色の浴衣に黄色い帯を締めたなまえが────。

「あー、ほんとに迎えに来てる! 現地でも大丈夫だよって言ったのに! でもありがとう〜!」
「────なまえ?」

いや、人違いであるわけが、ないのだが。

藤色の浴衣には、桃色や橙色の淡い花が咲いていた。細身な体に寄り添う布を留めるのは、夏の朝日によく似た白に近い黄色。どうやらその帯にも丁寧な刺繍が織り込まれているようなのだが、よく見ようとするとなぜか体温が上がり、それが顔に出る未来がすぐに見えてしまうので、顔を背けるしかなかった。

それでも、一瞬で認識したなまえの姿の違いには、嫌でも気づかされる点が多すぎた。

普段から髪型を変えて遊ぶのが好きだとは言っているし、実際季節や彼女自身の気分によって艶のある髪は巻かれていたり、高いところで結ばれていたりする。でも今日は────…なんか、派手。

何がそこまで目を惹くのだろう。後ろでひとつに結われた髪は、そこからウェーブを描いて巻き下ろされており、そこに蝶のチャームがついた紫色の簪をつけている。ちらりと目が合わないようこっそり髪に再び目を遣ると、その髪はところどころ色が変わっていた。…ああ、いわゆるあれか…ワンデータイプのヘアカラー剤とか、そんなやつ…。
道理でメリハリがついて、揺れる度に派手────というより華やかな印象が目立つわけだ。

制服を着ている時も教師に咎められない程度の薄化粧はしているが、今日はしっかり休日の"デート"用のメイクになっている。付き合ってからここ半年余、見慣れる程度に遊んで来なければそれも直視できないひとつの原因になっていただろう────…というかこれまた、装いと髪型のせいなのかいつもと少し違う雰囲気の顔が作られており、結局総合的な"なまえ"という原因のせいで俺は彼女のことを全く直視できなくなっていた。

「ねえ、てか待って! 彰人浴衣着てきてくれてるじゃん! ちょっともう格好良いよお〜、ねね、とりあえず1枚写真撮って良い?」

────いつもと何一つ変わらないのは、その中身だけのようだった。むしろ心なしか、普段よりテンションが高いような気すらする。

「こんな駅中で撮るとか情緒もクソもなさすぎんだろ」
「だって会場行ってからじゃ人混みヤバすぎて撮れなさそうだし…。あ、でもなに、向こう着いてからなら撮り放題ってこと?」

結局、絵名に怒られた翌日に行った百貨店で見かけた浴衣を買ってしまったので、今日は俺もそれを着てきていた。ずらりと並ぶ女性用の浴衣コーナーに対し、申し訳程度に設けられた数着の男性用の浴衣コーナーを見て、「やっぱり男の浴衣に需要なんてねーだろ」と思い帰りかけたのだが、マネキンに着せられていた紺色の浴衣を見ていたら…その、絵名の(おそらく)全女性を代表した勢いの良い意見と────なまえの顔を思い出して────。

気づいたら、これだ。
女性用のものと比べ着付けがそう難しくないとはいえ、普段楽な格好ばかりしているせいで準備にやたら時間を取られた。そうしてなんとか着れたと思ったら、今度は絵名が勝手に扉を開けてずかずか入ってきては「あーやっぱり! 浴衣着ただけで満足してると思った! あんた髪もちゃんとセットしなさいよ!?」と怒鳴り散らす始末。なまえのことを(会ってもいないくせに)いたく気に入っている様子なのは結構だが、そのせいで絵名からの小言が3倍くらいに増えたのは勘弁してほしいものだ。

ただ、まあ。

やんややんやとひとしきり俺を賞賛しきった後、「ほら、満足したら行くぞ」と彼女の手を取った瞬間、素直に顔を赤くしてそれきり声を発さなくなったなまえの横顔を盗み見ることができたから、良しとしよう。
半ば予想していたが、いつもより元気が良いように見えたのはやはり照れ隠しのためだったのだろう。出会いしなの会話に困ったから、適当に誉めそやして。いざ歩き始めて空白の時間ができた瞬間、真っ赤になってあからさまに視線を逸らし始めて。

ふうん、可愛いとこあんじゃねえか。

彼女がこちらを見ないのを良いことに、会場の最寄り駅に着くまでの約20分、改めて俺はふわふわに巻かれたハイライト入りの髪の結び目で優雅にひらひらと紫の蝶が舞っている様を上方から眺める。弱冷房の中で涼やかに揺れる髪も相まって、彼女自身が何かの妖精のように見えた────なんて素直に言ったら、きっとまた冷やかされるんだろうな。ま、そんな詩人みたいなこと、俺が言うわけねえんだけど。

なんか、上から見てると目元にもいつもよりキラキラとしたグリッターが乗ってるのもよくわかる。睫毛にも…若干色が乗ってるな。青みのついた睫毛が綺麗に伸びているのを見て、改めてこいつは美人なんだな、なんて改めて自分の彼女の愛らしさに気づかされる。
人によっちゃ、ノリが軽いだのギャルっぽい雰囲気が苦手だの好みの顔じゃないだの────まあ、人間には相性ってもんが付きもんだろうなっていう程度の意見はあったが、俺はそうやって"自分"の好みを貫いて、しかもそれが似合う体形、雰囲気を作ることに余念のないなまえの在り方が好きだった。他の奴らが彼女をどう評価しようが、俺にとってはいつだってこいつが一番の美人だ。

ろくに会話のないまま20分が経過し、会場近くの駅につく。その頃にはもうすっかり浴衣姿の人間で溢れ返っており、ちょっとでも目を離そうものならすぐに見失ってしまう────ことは、ないか。

元々見慣れている顔、身長、仕草。そこに加えて、いつもより華やかで(俺にとっては)誰より目を惹く相手がそこにいるのだ。一応転んだり、人の波に紛れて消えてしまわないように手は繋いでいたが、たとえその手が離れても、俺はきっとすぐにこいつを見つけられるような気がしてならなかった。

お互いに慣れない下駄を履き、いつも以上にゆっくりと川沿いの道を歩く。ドン、ドンと鳴り響く号砲の音が、花火大会の始まりを告げていた。その音に合わせながら、なまえは鼻歌を歌う。

「それ、なんの歌だ?」
「号砲の歌だよ」

なんてことのないように(視線は相変わらず合わないが)、ドンの合間に軽やかな祭りの音色を口ずさむなまえ。号砲の歌────…きっと今適当に作りながら歌っているんだろう。そういう"音楽に誠実"でありながらも"音楽で遊ぶ"彼女の姿が、俺は結構好きだった。

ゆっくり歩きながら人の波に乗りつつ、そろそろ提灯の赤い明かりが見えてくる頃。
彼女の号砲の歌を挟まなくても屋台の奥から軽快な音楽が聞こえ、賑やかな空気を濃厚にしていく。

それまで会話の内容に困っていたのだろう、鼻歌で誤魔化していたなまえの顔に、ようやくいつも通りの笑顔が戻ってきた。瞳を輝かせ、「わあ」と小さな歓声が漏れる。俺の手を無意識に離し、数歩分たたっと先に駆けると、「お祭りだよ!」とわかりきったことを改めて楽しそうに言ってくる。

あまりにもその姿が、声音が、表情が嬉しそうだったので────。

カシャ。

ついルート確認も兼ねて手にしていたスマホで、写真を撮ってしまう。

「あ」

無意識だった俺が自身の行動を省みて声を出すのと、撮られたことに気づいたなまえが驚いたように声を出したのは、同時のことだった。

「え、何今の。私の写真、撮った?」
「────と、撮ってねえ」
「なになに、今日の私がいつも以上に可愛くて思わず撮っちゃった?」
「うるせえな」
「言い訳になってないよ〜、彰人くん。年に一度の彼女の浴衣姿なんだから、もっと褒めても良いんだよ?」

くっそ、こうやってつい本音を(行動ではあるが)溢すと、こいつはすぐに調子に乗る…。
俺の天邪鬼な性格を完全に利用してこうやって煽ってくるのだから、余計に性質が悪い。

ああ、そうだよ。俺はお前のことを誰よりも可愛いと思ってるよ。今まで経験したことのない強さで好きだと思ってるよ。仲間と同じくらい尊敬しているし、仲間とは違うベクトルから応援したいと思っているし────…でも、そんなこと────…俺の口から言えるものか。

俺は思いきりなまえを睨みつけ、唇の形を筋肉の限界まで下げて、表情だけで反抗の意を示した。しかしこのやり取りもいつものこと、素直に褒めなかったというのになまえは何も気にしていない様子で笑うだけだった。
またすぐにこちらに戻ってくると、わざとらしく俺の手を握る。
俺の指先に自分の指先をちょんとつけ、そこから付け根までゆっくり時間をかけて指を這わせながら絡める。指の1本いっぽんに至るまでしっかり肌の感触を味わった後、最後に掌をぴったりと合わせてみせてから、「今日帰るまでに、一回でも可愛いなって思ったら素直に言ってね」と妖艶に笑ってみせた。

「っ……」

どうして毎回、上手に出られないのか。きっとこいつに対して恋という感情が芽生えた瞬間が瞬間だっただけに、どうしても俺はこいつの言動に対して上からものを言うことができないのだろう。まったく、"惚れた方が負け"とはよく言ったものだと先人に文句を言いたくなる。

結局流されるがまま恋人繋ぎをし直し、俺達は祭りの会場に足を踏み入れる。

屋台が並ぶ大通りに入った瞬間、異世界に飛び込んだような明るさに包まれた。誰もが笑顔で、大人も子供も、売る側も買う側も賑やかに大声で話しながら"祭り"の空気を全員で作り上げている。

「花火が打ち上がるまでは────あと1時間ってとこか。どうする、何かやりたいことあるか?」

あくまで恋人繋ぎに至るまでの経緯は忘れたふりをして、なんてことのない顔を繕いながら(こいつのお陰で余計に表向きの顔を作るのが巧くなった気がする)屋台をぐるりと見渡す。

「うーん…金魚すくいも輪投げもやりたいし、たこ焼きとかわたあめとかも食べたいし…とりあえず一周して良い? 目に付いた面白そうなもの、全部やりたい」
「んじゃ、とりあえずそのままぶらぶらするか」
「彰人もやりたいのあったら言ってね」
「多分ねえけどな」
「じゃあ私が彰人の好きそうなもの見つけたらやらせたり食べさせたりするね」
「要らねえ世話だ」

どれだけ呆れた声を装ってみても、そんなことでなまえの顔色が変わるわけもなく。
結局彼女は真っ先に金魚すくいをやっているビニールプールに近づいた。

「彰人、これは?」
「俺はパス」
「じゃあ私やるから、見ててね」

浴衣の裾を押さえつつ丁寧にしゃがみこみ、屋台の主にお金を払ってポイとペーパーボウルを受け取ると、なまえはその時ばかりは豪快に袖をまくりあげ、狙いを定め始める。
────言ってしまえば、その瞬間から嫌な予感はしていた。何せ俺は誰よりもこいつの"本気"を知っている身。いくら"遊び"だとはいえ、こいつがふざけ半分でそんな大仰な態度を取ってみせる、ということは────。

「…一匹もすくえませんでした」
「だろうな」

しょんぼりと肩を落とすなまえだったが、どうせ本人だってあんな素人の構えじゃ一匹もすくえないことなんて最初からわかっていたのだろう。

「なんで金魚すくいなんかに挑戦したんだよ。やる前から向いてねーの、わかってただろ」
「お祭り気分を味わいたかったんだもん。金魚はぶっちゃけすくっても家で飼うの大変だし…生き物を持って帰るつもりはありませんでした、確かに」
「祭り気分なら別にいきなり持ち帰る気のない金魚すくいなんかじゃなくても────」

俺はそこで、すぐ隣の屋台に目を向ける。

「ああいうので味わえば良いじゃねえか」

そちらにあったのは、射的の台。小学生くらいの子供達がチャレンジしては、ほぼ全員がうまく撃てずにコルクをあちこち変な方向に飛ばして本気で落ち込んでいるのが窺える。

「私の射的センス、見たい?」
「────てことは、壊滅的なんだな」
「多分壊滅はしてないと思うけど、半壊くらいはしてるかも。ていうかやったことない」
「んじゃ、今度は俺の番だな」

実は、射的の方に視線をずらしたのは、なまえの代わりに今度は俺が"成功体験"を見せつけてやろうと思ったという魂胆もあってのことだった。射的をやるのはそれこそガキ以来のことだったが、冬弥と一緒にゲーセンでシューティングゲームを遊びでやったことなら何回かある。その屋台のルールは、見た限りだとコルクを詰めた玩具の銃で的代わりの缶を落とし、その缶に貼られた点数に応じて景品が貰えるという至ってシンプルな仕組みのようだ。まあ…あれも所謂"祭りの稼ぎ"目的だろうから、缶の中身が空ということはないのだろう。それなら下手にあちこち狙って撃つよりも、ひとつの缶の底の方を連続して一点狙いを定めバランスを崩す方が、落とせる確率も上がりそうだ。

「彰人が銃持ってる…。浴衣着て銃持ってる…」
「どんな感想だよ」
「しゃ、写真撮ってて良い?」
「良いけど、外した瞬間のやつ撮ってたら後でちゃんと消せよ」
「承知」

なまえは早々に照れを克服したようで、俺の目をあえて捉えるように瞳を輝かせる。────俺はといえば、相変わらず情けないとはわかっていたものの────まだ"いつもと違う"なまえの姿に慣れることができず、明るい表情でこちらに微笑みかける彼女から早々に視線を背ける羽目になってしまった。

こちらも金と引き換えにコルクと銃を貰い、想定通りのルール説明をされる。
一番高い点数は10点、その次に5点、3点…。
景品の方をチラリと見ると、10点の景品棚にはゲーム機などの精密機械系、5点の棚にはぬいぐるみなどの子供が喜びそうなおもちゃ、3点の棚にはお菓子の詰め合わせが並んでいた。一瞬なまえの姿を見て、どれなら喜んでくれるだろうかと悩む。
景品を取るつもりではいたが、最初からそれを俺が持ち帰るつもりはなかった。祭り気分を味わい、ついでに良い格好を見せ、何か思い出になるようなものを彼女に渡せれば────俺にとっちゃ、もうそれだけで今日の目的は果たせたようなものなのだから。

まず10点の缶は相当重いと見た方が良いだろう。それに、なまえは普段そこまでゲームやらパソコンやらを使う方ではないし、そういった高値のものに興味を持つのであれば最初から自分で買う算段をつけている。
────となると、無難に5点の缶を狙って、5点以下の景品から好きなものを選ばせれば良いか。

大人げないことは自覚しつつ、しっかり台の上に肘を固定し、片目を瞑って缶に狙いを定める。そして────最初の一発────よし、当たった────それを確認した直後、2発目から与えられた5発分全てを連続して撃ちこむ。

案の定、缶は一回では倒れなかった。それでも5発連続してコルクを飛ばされた缶は確実にグラリと揺れ、最後のコルクが当たる時には想定通りバランスを崩して棚の後ろ側へと倒れて行った。

「────やあ、これはすごい! 兄ちゃん、世が世ならガンマンとして雇われるのも夢じゃないぜ!」

屋台のオッサンはそれまで余程成功させた人間と出会えなかったのか、彼にとってはあまり良い結果ではなかっただろうに心から興奮した様子で景品棚の方を指し示してくれた。

「彼女にも良いとこ見せられて良かったな、兄ちゃん! ほら、約束だ、5点以下のもんから好きなの持って行きな!」

なんでそこでわざわざ彼女の話が出るんだよ────と思いつつ、選ばせるためになまえの方を見ると────。
なまえは完全に硬直した姿のまま、スマホを微動だにさせずこちら側に向けていた。

「…何してんだ、お前」
「…動画撮ってた」
「は?」
「構えた瞬間"これは遊びじゃない"って空気を察知したので、動画を」
「……別に良いけど、杏や暁山に流すなよ」
「えー、ケチ」
「文句言ってないでほら、景品」

なまえがいつまでもそこから動こうとしないので、俺は半ばスマホを取り上げる形で彼女の手を取り、景品棚の前まで移動させる。

「え?」
「好きなの選べよ。お前の金魚すくいの借りを折角返してやったんだから」

そう言うと、なまえは驚いたように「良いの?」と訊いてくる。俺が自分のためにあんなに本気を出すと思ってんのかよ────という呆れはすぐに伝わったようで、少し照れたように「思いがけないプレゼントみたいで嬉しいな」と良いながら、素直に棚に並べられたらぬいぐるみやら子供向け玩具やらお菓子やらを眺め始めた。

「彰人なら、どれにする?」
「は?」
「やっぱり彰人が選んでよ。私、せっかくなら"彰人が選んでくれた"景品がほしい」

なまえは屈んだ姿勢のまま、こちらを見上げる。長い睫毛に縁どられた瞳がぱっちりとこちらを見上げる様は、珍しく素直におねだりをしてくる猫のよう。大抵の"お願い事"は絵名よろしくかなり強引に進めてくるくせに、こういう時だけ殊勝な態度を取るんだから本当にこの女は狡い。

仕方ない、と彼女の隣にしゃがむ。"俺が選んだ"という"形"が欲しいなら、まず消えものはナシだな。かといって、ファストフード店で貰えるような子供用のちゃちな玩具でこいつが喜ぶとも思えない。いや、でもぬいぐるみもなあ…普段こいつがこういうの好んでる様子はないし…────まあでも、他のものよりは────。

そんなこんなでオヤジが「兄ちゃん、せっかく華麗にシューティング決めたのにそこで悩み続けてたら折角の格好もつかなくなるぞ」と野次を入れてきた頃、ようやく俺は猫のぬいぐるみをつまみ上げた。片腕に抱えればちょうど良いくらいの、そこそこ幅を取るぬいぐるみ。消去法で選んだものではあったが、「決定権を俺に委ねたんだから文句言うなよ」と一応釘を刺してからなまえに渡す。

「彰人が選んでくれたぬいぐるみだ〜!」

見たまんまを口にして、ぎゅっと猫を抱きしめるなまえ。「"あきと"って名前付けて可愛がるね」なんていう冗談なのかわからないことを言われたので、「彰人はここにいる俺だけで十分だろ」と不細工な猫を睨みながら返した。

「…────うん、まあ、そうなんだけど」

…あ? なんだ、今の態度。
不自然な間に疑問を抱いたものの────ああ、そうか。その理由には、すぐ合点がいった。きっと彼女は、俺の言葉に不意を突かれて言葉を返せなかったんだ。
"俺だけで十分だろ"────確かに、冷静に考えれば自意識過剰で格好つけすぎたセリフだと揶揄われたっておかしくない。でもどうやら、この状況は俺に味方をしてくれたらしい。

それを良いことに、にやりと口角を上げてなまえの顔を覗き込む。

「な、なに?」
「お前も可愛いとこあんじゃん、って思ったんだよ。────ああ、そうだ。言い忘れてたけど、その格好も似合ってんぞ」

その瞬間、まるで首筋から絵具で高速な塗りつぶしでも食らったのかと思うくらい彼女の顔が赤くなる。正確には今まで"言えなかった"だけなのだが、あくまで"このタイミングを狙って言ってやった"かのように見せかける。
こいつとは、いつだってそんな心理戦の連続だった。さっきいやらしく手を握られたお返しだ。どれだけ赤くなられようが、視線を逸らされようが、俺は構わず彼女の顔を正面から捉え続ける。

「いきなり…なんなの」
「可愛いと思ったら言え、って言ったのはお前だろ。最初から思ってたよ、いつも以上に可愛いって。浴衣の色も、花とか蝶とかのアクセントも、ハイライトも、メイクも全部よく似合ってる。いつも可愛いって思ってるけど、正直年一でしかこれが見れねえのがもったいないって思えるくらいには可愛い」
「ああもう、可愛い可愛いって…わかったよ、ありがとう、もう良いから、」
「可愛いし、綺麗だし、正直見せびらかしてえ気持ちとそのまんま俺の視界だけに収まっときゃ良いのにって気持ちの間でずっと揺れてる」
「も〜〜〜〜!」

…流石に、歯が浮く。彼女がこちらを見ていないのが幸いしたが、調子に乗るあまりあまりにも格好つけたことを言いすぎてしまい(決して嘘ではないのがまた苦しいところだな)、勝手に俺の顔まで熱くなってくる。

適当なところで切り上げないと、変なスイッチが入りそうだ。どこかで素直に褒めたいという希望は叶ったし、想像以上に彼女が照れてくれたので、俺はそこで一旦言葉を止めることにした。

「照れてやんの。素直でかわい」
「もう十分です、すみません私が調子に乗りました!」
「はは」

半ば自棄を起こしつつ、怒って前を歩くなまえの後ろをついていく(屋台のオヤジはいつまでも生温そうにこちらを見ていた)。さて、今度はどちらへ行くのだろう。
この道の両脇いっぱいに並ぶ屋台。その先が、本来の目的地たる花火大会の会場だ。まだ時間はだいぶあるはずだが、まさかもうそこへ行くはずじゃないだろうな?

「あ、あのさ、りんご飴とか食べない?」

流石にそこは暴走せずに済んだらしい。クールダウンの意味も含めてか、3つくらいの屋台を飛ばしたところでようやくなまえは立ち止まる。

「良いぞ、俺もちょっとそれは食ってみても良いな」

揶揄いすぎた自覚はあるので、そこは素直に乗ってみることにする。いつも通りの俺の雰囲気に戻ったことに安心したのか、彼女の笑顔はいつも通りの天真爛漫な(でも、俺しか知らないその"笑おうと意識しているぎこちない顔"だ)素振りで、俺をりんご飴の屋台まで連れて行った。

テラテラと艶のある砂糖漬けになった串刺しのリンゴ。なまえはそれをひとつ買うと、早速その小さな口で外側のコーティングを一齧りした。リスが食べたような黄色い果実が露わになり、そこでようやくリンゴらしさが見えてきた。

「うまいか?」
「うん。ほら…はい、彰人も」

今までの羞恥はどこで消えたのか、当たり前のようにずいと棒に刺さった砂糖漬けのリンゴを差し出してくる。赤く照り返される皮の中で光る白に近い黄色が、彼女の唇が数秒前まで触れていたことを示している。どうにも視線がそこから逸らせなくて、気まずい間が空いてしまう。

「────どうしたの?」
「いや────」

こいつ、もしかしてさっきの報復のつもりか? あれだけ俺が勇気を出して褒め殺したつもりだったのに、結局やり返されている気持ちになる。
黄色い果肉には、小さな歯型がついていた。俺の口の大きさよりずっと小さな、なまえの一口。

関節キス、という言葉が浮かんだ俺は、もしかして幼稚なのだろうか。
もう一度なまえの顔を見ると、相変わらず不思議そうな顔で俺がその赤に口をつける瞬間を待っているようだった。

「…────」

…ここで躊躇うのも、なんか格好悪ぃ気がする。俺はごくりと生唾を呑み、そのまま黄と赤の境目に、自分の歯をそっと付けた。

ガリ、シャク。砂糖が砕ける音と、果実の溶ける音がする。
甘い。コーティングの甘さと、リンゴ本来の酸味が舌の上で混ざり合い────その絶妙なマッチングが、祭りにおける混沌とした空気と同じように思えてしまって、胸の奥に残っていた幼い頃の祭りの記憶が少しだけ蘇ったような気がした。

あの頃は、親にねだってわたあめやらリンゴ飴やらをねだっては、絵名とよく取り合いになっていたものだった。いつしか家族で夏祭りに行く風習は途絶え、絵名との争いをいなすこともうまくなり…こうして、誰かと一緒に屋台の陳腐なボッタクリ菓子を食べることになるなんて、正直思っていなかったのだ。

今隣にいるのは、なまえ。親でも絵名でもない、それとは全く違った意味で尊敬し、守りたいと思い、そして心を捧げようと決めた大切な人。
────そっか、こうやって"一緒に食べる"っていうのも、悪くないものなんだな。

あえて、彼女の小さな歯型に沿わせて、それよりいくらか大きな自分の歯型をつける。

「うめえな」
「でしょ」

子供じみたことを考えていた俺とは裏腹に、単純にこの美味しさを伝えたかったらしいなまえは目がなくなるほど嬉しそうな顔で笑った。

それから流石に腹が減ったのか、彼女はもっぱら食い物の売られている屋台を中心に回るようになった。焼きそば、わたあめ、かき氷…基本的にはひとつだけ買い、同じ箸とスプーンでそのまま俺の口に回そうとしてくる。その度に俺は一瞬身構えてしまうのだが、そもそも彼女にそういった機微を悟らせようとする方が無理なことはわかっている。平気なふりをして、薄いピンクのリップが残る安っぽいカトラリーの端を一緒に舐め取った。

「あ〜、お腹いっぱい。浴衣がぱんぱんだよ」
「いつもと比べても結構食ったな」
「お祭りの屋台で出てるご飯ってなんであんなにおいしく見えるんだろうね」
「食うのも含めて"祭り"だからだろ」
「天才。あ、ついでに飲み物も買っとこ。そろそろ喉乾いた」

そう言って彼女はまた値段の高い屋台へふらふら行こうとするので、一旦俺はその手を取って止める。

「飲み物くらいならあっちに自販機あるし買ってきてやるよ。どうせ緑茶だろ」
「ほんとー? あ、じゃお金先に渡して────」
「良いって、それくらい出すから。それより歩き詰めで足も疲れてるだろ。そこに座って待ってろよ」

彼女の親指の付け根が鼻緒に引っ掛かって少し赤くなっているのが気になっていたので、近くにあったベンチを顎で指して座らせる。口には出さなかったが、ちょっとだけ安心したような顔をしたなまえの表情を見逃すことはなかった。俺の選択は間違っていなかったらしい。

正直、この時間帯、この場所に彼女をひとりにすることには抵抗がある。それでもまあ…自販機くらいまでは30メートル程度。目の見える範囲にはちゃんといるし、ここまでの短時間であの彼女がひとりで解決できないような問題に発展する可能性は限りなく低い。

────そう思って、一瞬でも目を離したのが間違いだった。

彼女に背を向ける形で自販機の前に立ち、彼女用の緑茶と自分用の炭酸飲料を買う。
その間、約40秒。

2本の冷たい飲み物を持って踵を返し、少し先の方にいるはずのなまえを見ようとした瞬間────。





背筋が、凍り付いた。





なまえは、細身で髪を長く伸ばし、アクセサリーを大量につけた"いかにも"軽薄そうな男3人に囲まれていたのだ。









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