シンデレラボーイ



※「仏の生まれた日」と同じ世界線





シャワーのバルブを捻り、温い水を止める。静寂の中に、滴る水音がやたら大きな反響を呼んだ。腕を伸ばして取ったバスタオルは少し重くて、体に這わせると嫌な湿気と温度が肌に戻ってくる。
浴室を出たところに置いていた小さな時計は、朝の8時を指していた。

また、朝を迎えてしまった。

ひとりきりのワンルーム。数時間前にはこうやってバスルームを出れば、反吐が出るほど優しい顔で笑う彼が「おいで」と腕を差し出してくれていたのに。わかりやすすぎる"嘘"は、案の定私が快楽の夢に微睡んでいる間に煙のように消えてしまった。

『もう、家には来な__

いで。
あとはそう打って、小さな送信ボタンを押すだけなのに。
その指が固まって、スマホから離れる。それと共に、きっと彼にたくさん投げられるはずだった言葉が重い溜息となって澱んだ濁りの空気の中に溶けていった。

仄かに残るのは、作られた花の香りと隠せない獣の臭い。わざと痛いほどきつく眉根を寄せ、シーツもバスタオルもまとめて洗濯機に放り投げた。

ふと、その隣にあった鏡の中の自分と目が合う。
この髪を、この瞳を、この肩を、一体彼はいつも"誰"と重ねているのだろう。
私じゃない誰かを見ている。そんなことには、最初から気づいていた。










「────えっ」

初めて出会ったのは、まだ夏の匂いが残っている頃だった。車も人も激しく行き交う中、全ての人が前しか見ていない中、彼は唐突に後ろを振り返り、私の腕に触れた。
おそらく、掴もうとしたのだろう。しかし流石に初対面の人間の腕をいきなり掴んで呼び止めることの異常さに気づいたのか、それとも彼に何か相手を掴めない理由があったのか────私の注意を必要以上に惹いておきながら、雑踏の中で彼はまるで迷い子のように立ち止まっていた。

「────何か」

逃げずに声をかけたのは、その表情があまりにも"可哀想"だったから。
迷い子のような。救いを求める弱者のような。
もう二度と会えないと思っていた最愛の人に、意図せず再会してしまった時の顔だ────なんて長すぎる喩えを思いついてしまったのは、昨日見たドラマでまさにそんなシーンがあったから。

その時から、"私"に声をかけられたわけではないことなど、わかっていた。
彼の表情が喩えだったとしても、その迷いを晴らす光も、救いを捧げる糸も、私が持っていないことに変わりはない。不審者と割り切って逃げることも、知り合いを装って愛想を作ることも、咄嗟の行動ではできなかった。

私が直感的にそう思い立ち止まると、彼は再び頭を強く殴られたように一瞬手を震わせて、それから────ああ、そうだ、その時から"嘘"は始まっていたんだ────細い目でふたつの三日月の孤を描き、薄い唇を薄く開いて、「申し訳ない」と嘯いた。

「君の鞄に私のピアスを落としてしまったような気がしてね。────ほら、実際こうして手の中にあるんだけど、ちょうど歩きながら外そうとしていたところだったから」

どうしてピアスを歩きながら外そうとするのだろう。
そして、私が振り返った"ちょうどその時"、彼は本当にピアスを外していただろうか。

そう尋ねるのは、きっと愚かなのだろう。現に彼は、私の関心を惹いたあの一瞬における全ての挙動をなかったことにするかのように"完璧な"笑顔で私に謝罪してきた。あんな顔をしておいて、あんなに必死に腕を掴んでおいて、まるで本当に"ただ肩がぶつかっただけ"だとでも言いたげに。

「────ピアス、合わなかったんですか?」

暇だったから。身長が高くて、格好良かったから。髪が綺麗だったから。
理由なんて、後からどうにでもつけられるようなものばかりだった。ただ私は、そんな後付けの理由に任せなければならないほど反射的に、彼と"会話"を続けてしまった。

「うーん、気に入っていたんだけどねえ。ホールサイズが合ってないのかな、少し違和感があったような気がして」
「…新しいの、探します?」
「え?」

逆ナンというものは、今の私の状況を指しているのだろうか。
どうしてこうも私が彼に惹かれているのかと問われたら、そしてその理由が先程挙げたような後付けのものでは足りないというのなら、きっとそこには彼の纏う雰囲気に対する抗えない"本能"があったのだ、と告白するしかないのだろう。
どこか普通の人とは違う気がする、といったところで他人に理解してもらえるとは思っていない。しかし、ただ私はそう思ってしまった。筋肉と内臓以外に、何かまだ他にも重いものが詰まっているような。荷物を持たない身軽なその腕に、何かたくさんのものを抱えているような。

その"何か"が気になって顔だけに視線を集中させられなかった私を見てどう思ったのか、彼は一通りその視線を追った後で、更に笑みを深める。

「────君は、"見える"人なのかな」
「…見え、る?」

もしかして、私が気にしている"何か"とは、まさか本当に幽霊だとかなんだとか、その類のものなのだろうか。

「もし私が他の"ニンゲン"と違うように見えるって言うのなら、君にはそれを"知る"資格がある。ピアスを買いに行く、なんて理由なんてつけずとも、君が満足するまで私は君の傍にいよう」

私の声のかけ方もまあまあナンセンスな自覚があったが、彼の返しもかなり低知能な言い回しだった。一体誰が、こんな宗教勧誘じみた言葉に釣られて彼の隣に立つというのだろう。

────…まあ、他でもない私がそれに釣られて進路を変えてしまったので、もう何も文句は言えないのだが。

それから私達はあくまで薄っぺらい約束を果たすように、近くの百貨店でアクセサリーを見て(当然彼は何も買わなかった)、安上がりな居酒屋の個室で食事を摂り、道の入り組んだ場所を抜けてホテルに入った。

その流れに、違和感はなかった。当たり前のように、前から待ち合わせていたように、私達は大きなベッドの中でじゃれあう。体温の上がるままに、髪の乱れるままに、肌を重ねて、手を握って、奥の奥まで繋がっていく。

脳のどこかで鳴る警鐘は、私の好奇心と彼の欲を鎮めるには少しばかり静かすぎるようだった。





「ゲトウさん、ってそれ、名字でしょう? 名前は?」
「あるけど、君には夏油と呼んでほしいな」
「どうして?」
「そんな気分だったから」



私の名前は全て聞いておきながら、彼は名前すら明かすことを拒んだ。



「今、いくつなの?」
「まだ未成年だよ、残念ながら」
「…でも煙草は吸うのね」
「嫌いかい?」
「別に」



どうせこうやって文字通り全てをはだかにして遊んでいるのは私も同じなのだ。今更、煙草の煙くらいで眉を顰めるような道徳心は持っていない。



「────どうして、私の腕を掴んだの?」
「……君と同じだよ」
「同じって?」
「君に、他の人にはないものを見たんだ」
「他の人には、ないもの…」
「解釈は任せるよ」



そう言ってカサついた指先で私の髪を梳く彼の目は、初めて私が彼を見たあの瞬間と同じように揺らいでいた。あの時"可哀想"と思った揺らぎは、今もあからさまな"弱さ"となって私の心を突く。

ねえ、でも、あなたが見ているのは本当に"私"なの?
私以外を排除するその瞳に映しているのは、本当の"私"なの?

彼は答えないまま、朝日が顔を出すと共にどこかへと消えた。
行き先は、聞かなかった。訊けなかった。

ただ手元に残ったスマホの連絡先に、彼の名前が追加されただけ。それ以外は、"いつも通り"空っぽだった。

別にあなたがいなくても、私は平気なので。
ちょっと面白い男と知り合えた、それだけで十分なので。

だから、連絡するもしないも任せます。ひとたび、さようなら。










元より、私はあまり情を絡んだ関係を続ける人間ではなかった。連絡先を交換してみたところでお互い一度きりの夜だった、なんてこともザラにあるくらい。
一応私だって、何も知らない処女じゃない。別に彼しかいないわけでもなく、週末の予定がいつも空いているわけでもない。

それなのに、いつもスマホを見たそのタイミングで、彼からの連絡が来るから。
その度、私はつい何もかもを捨てて、彼のあの瞳を見たいと思ってしまうから。

だから本来の私の意に反し、私は彼とあれ以来、週に一度の周期で夜にだけ会う関係を続けていた。

何がさようなら、だ。

「え、もう行くのかよ」
「ごめん、今日はやっぱ気分じゃない」

腰になけなしのバスタオルを巻いた情けない男を放り出して、私は自宅に戻る。
そう、そうやって私の中から彼以外のものを締め出した頃にはもう、私は彼を完全に自らのプライベートゾーンに誘うようになっていた。

何があなたがいなくても平気なので、だ。

「あなたも大概、私のことが好きなのね」
「ああ、とても好きだよ」

気づいた時にはもう、私の方が囚われていた。
私の顔を見た瞬間にだけ現れる、あの弱さを何度でも見たくて。
私の手に触れる瞬間にだけ出る、あの無邪気な笑い声を何度でも聞きたくて。

"私"のことが好きだと言ったことは、一度もない。

何度か会えば、流石にこちらだって確信を持つ。
彼はきっと、もう彼の元には二度と戻らない"何か"を求めて私の中を探るのだと。

──── 一度だけ、彼が快楽に紛れて泣きそうな顔をしたことがある。

その時は確か、珍しく彼が私の顔を見ながら、頬に手を添えながら、息を切らしていた夜だった。何があったのかは知らない。ただ、部屋の電気を消す前に、彼が頬に誰のものとも知れない血をつけていたことだけが事実として残っていた。その日は何度も口をゆすいでいて、何度も手を洗っていて────でも、彼が全うな学生あるいは職についている人とは最初から思っていなかったので、私がそれについて言及することもなく。

ただひたすらに汚い何かを頑張って落とそうともがいた後、その最終工程で私を腕にかき抱いたのだろうという予想だけがつく中、私も彼の息遣いに合わせて呼吸を重ねていた。

私は、彼にとってどうやら"きれいなもの"らしい。

何かひどく彼を疲弊させることがあった後でも、私を抱く力なら残っているらしい。
それを幸と取るか不幸と取るか、それを選ぶ余裕は私にはなかった。
ただただ、あの時の"哀れだ"と思った切ない感情に、戸惑わされることしかできなかったのだ。

あれ以来、私は彼の弱さを求めるようになってしまった。
縋ってほしい。捕まえてほしい。独占してほしい。

情のない出会いの果てに情は求めるな…と、今までは言うまでもなく徹底できていた金科玉条が、瓦解していく。初めてそんな彼の"本音"に触れた瞬間から、私は情を────涙を知る女になってしまった。

朝になれば、また彼は私の知らない"げとうさん"に戻ってどこかへと消えていく。
名前もわからない、何をしているかも知らない、何を抱えているのか────結局見えないままに。










今日もまた、朝を迎えてしまった。

エアコンは、0時を回った頃には熱いからと止めてしまった。
今はその汗も冷え、季節も相まって私の肌を容赦ない寒さが襲う。

煙草の吸殻でさえ、もう今はただの灰だ。

どうせ傷ついた先で私に似た"誰かさん"を求めるなら、最初からそんな世界など捨てて"誰かさん"に似た私を永遠に閉じ込めていれば良いのに。
そんなに苦しんでまでなお快楽を欲張るなら、最初からそんな煩悩など捨てて死んでしまえば良いのに。きっとそこまで堕ちてしまえば、彼も────そう、きっといつか、"誰かさん"を忘れてくれる気がするのに。

最低だって、わかってる。
でも、私はそれでもそんな彼のことが────ただのげとうさんのことが、大好きだった。









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