仏の生まれた日
幼馴染が、いた。
隣の家に住んでいた、同い年の女の子。
名前はみょうじなまえというのだそうだ。
彼女は物心がついた時から私と一緒にいた。近所で同世代の子供が私達しかいなかったことに加え、彼女の両親が共働きをしていた環境もあり、何かとうちに来る頻度が高かったのだ。
「なまえちゃん今日は何して遊ぶの?」
「すぐるのやりたいことやるー」
「ぼくはなまえちゃんのやりたいことやる」
「えー? じゃあお砂場遊びしよ」
「いいよ、じゃあ手ぇつないで公園いこ」
「おててつなぐの?」
「うん。なまえちゃんがぼくからはぐれちゃわないように」
「わかった! ずっとおててつないでてね」
ほぼ毎日"やりたいこと"が変わる彼女に付き合って日々を過ごすのは、楽しかった。
元々私がそこまで自分から何かをしたいという欲求を持っていたわけではなかったからなのだろう。
自分に呪力があり、時が来たら呪力を学ぶ専門学校へ通うことを大人から知らされた時も、「この力は弱い人を助けるためにあるんだ」と子供ながら素直に納得できたほどだったのだ。
人のために自分が動く。それは私が生まれてきた意味であり、私の生きる喜びだと思っていた。
もちろん当時幼かった自分にとって、"人のため"とは言ってもそんな狭い世界の中にいる"人"は限られてくる。家族と、幼馴染である彼女。
特に「ユーレイが見える変な奴」と言われながらどこか敬遠されつつ育ってきた私に分け隔てなく優しくしてくれ、家が隣だからという理由を抜きにしても私の前で満面の笑みを浮かべてくれる彼女のことは、何があろうとも一番最初に守ろうと決めていた。
「すぐる、またあっちずっと見てる。またユーレイ?」
「うん。なまえちゃんはあっち見ちゃだめだよ」
「やっぱりバァッてされるの?」
「される…と思う」
「え〜、それはこわいなあ…。すぐる、守っててね」
「うん、守るよ」
それが私の役目だったから。それは私が、彼女に返せる唯一の恩だったから。
呪いの見えない非術師を、呪いの見える私達術師が守る。そうやって、世界の均衡を保っていく。力を与えられた者が、力のない者を救うのは自然の摂理だと思っていた。
そしてその約束は、年を重ねても続いていった。
「傑ー、遅刻するよー」
中学3年生の夏、いつものように彼女が私の家のインターホンを鳴らす。ちょうど靴を履いていた私はすぐに戸を開け、迎えに来てくれた彼女と合流した。
「…そういえば、もう手は繋がなくて良いのかい?」
「お化けならもうそんなに怖くないよ」
「強くなったなあ」
「でも、お化けじゃない"何か"は今もそこらにいて、傑にはそれが見えてるんだよね?」
「ああ────…」
進路のことを話すべきかどうか、彼女にはずっと迷いながら接してきた。私が高専に行くことは既に10年近く前から決まっていたのに、ずっとそれを言い出せず、見えないことを良いことに"呪い"という明確な実物を"お化け"という曖昧な現象に置き換えて誤魔化してきたのだ。
でも、彼女には。
短く生きてきたこの時間をずっと共に過ごしてきた彼女には。
何より、私が人を守りたいと思うようになったきっかけにすらなってくれた彼女には────いつか、真実を話さなければならないと思っていた。
「────僕には、"呪い"が見えるんだ」
「のろい?」
夏の日。蝉の大合唱が鼓膜を遮り、湿気を帯びて滞留した空気が肌にまとわりつく、なんということのない日。
私は彼女に、自分が何者であるか、自分が見ているものが何者であるか、自分がこれから何と向き合って何をしていかなければならないのか、その全てを話した。
────話し終えた頃には、とっくに始業時間を過ぎていた。
それなのに、どちらも「ここで切り上げて、続きは後にしよう」と言わなかったことに甘え、私は結局、登校ルートの途中にある公園のベンチでこの長話を最後まで聞いてもらってしまった。
「────ということで、僕は来年から、呪術高専学校に行くことがもう決まってる。進路の話、なかなかしなかったのはそういう理由があったからなんだ。本当は他の人には言わないようにって釘を差されてるんだけど…なまえちゃんには、ちゃんと話しておきたくて」
それで軽蔑の目を向けられたら、どうしようか。
きっと自分はとてもショックを受けるのだろう────そのことだけなら予想がつくが、その先で自分が一体何をしでかすのか、そこまでは考えられなかった。
だって、きっと。
「────そうなんだ」
彼女はそんな突飛な話も、あっさり受け入れてくれるだろうと思っていたから。
「幽霊じゃなくて呪い…なるほどね…。確かに私、ストレスを"寝たら忘れる"っていうあの話、じゃあ寝てる間に出て行ったストレスはどこに行ったのかなあって考えることがあったよ」
「……君らしい着眼点だね」
「でもそれが"呪い"になって…要はあれ、 感情が幽体離脱してその辺うろついて無差別攻撃をしてる…ってことで合ってる?」
「まあ、ものすごくおおまかに言えばそうなるかな」
「逆に納得したよ。だからあれだけ心霊現象とか怪奇現象とかが起きるんだね。で、それを操れる人が、いわば"呪いで呪いを祓う"ってこと?」
「それはまさにその通り」
まさか、一回の大雑把な説明でここまで掴んでくれるとは思わなかった。昔から素直な人だとは思っていたが、流石にここまで理解された雰囲気を出されると却って不安になる。
「傑はすごいね」
「…何が?」
「呪い…私は見たことないけど、人の負の感情が凝り固まって出てきたものなんて、きっとロクな形とか…臭いとか…してなさそうだもん。呪いを祓ったところで呪術師自身がお金以外に貰えるものだってないみたいだし、そもそも呪いの存在が一般人に知られていない以上、感謝すらされない。────それなのに、何も知らずのうのうと生きてる人間…人間? 私みたいな凡夫のために戦ってくれるなんて、もう傑はスーパーヒーローだ」
────呪術師になる前だというのに、少し誇らしくなってしまったのだと言ったら、偉い人に怒られてしまうだろうか。
力のある者が力のない者を救うのは当たり前。そこに感謝も敬意も恩義もあるわけがない。ただそれが、私という"呪術師"の義務だとしか思っていなかった。
いつだってそうだ。
私は、私が私であることを当たり前に享受しているだけなのに、彼女はそんな私のことをいつも褒めてくれる。
友達に遊具を譲ってあげて優しい。クラスの男子の喧嘩の仲裁に入っていく勇気がすごい。迷っているおばあちゃんの道案内をして遅刻してくるのは、正しい。
皆が「譲って当たり前」、「喧嘩は止めて当たり前」、遅刻した時なんて「そんな言い訳が通用すると思っているのか」と信じてもらえなかったくらいなのに、彼女だけはいつも私を肯定してくれた。
その度に私は、誰よりもまずこの子のために常に何かをしてやれるような人間になりたいと思うのだった。呪いを祓い、祓い、祓い続け、名もなき人々を助けることによって、彼女の日常も守り続けることができる。
高専にいる間は寮暮らしと聞いているから今までのようにはきっといかないのだろうが、それでも、卒業して職を持てば、もう一度彼女の傍で暮らすことだってできる。
「なまえちゃん」
「なに?」
「ひとつ、お願いをしても良い?」
「傑の願いならできる限り聞くよ。大丈夫」
「その────…高専を卒業したら、さ」
「うん」
「もう一度、君の隣で生きても良いかな」
────言った後で、その言葉の意味を思い知った。
これじゃあ、まるでプロポーズじゃないか。別に戦地に行くわけでもないのに(死が少し身近になるのはそうなのだが)、私の今の言葉は「生きて戻ったら結婚しよう」と誘っているも同義だ。
「あ、いや、今のは────」
「────わかった」
しかし彼女は私の情けない言い訳を聞き流し、にっこり笑って頷いてみせた。
「傑が高専から出てきたら、また私達、一緒に生きよ。私は呪術師として傑の手伝いをすることはできないけど、呪いの吹き溜まりになって戻ってきた傑が起きた時にそれを忘れられるように、とりあえず…こう、癒し系のものとか色々揃えて頑張って、傑専用の呪術師になる」
「……っはは、それじゃあ結局僕の呪いが君に移るだけじゃないか。君の方が呪いの耐性が低いんだから、あっという間に食われるよ」
「その時はまた傑がそれを祓ってね」
何もかもが堂々巡りになっている……ことに、きっと彼女は気づいているんだろうな。
今のは単純な承諾だ。
私が「一緒に生きよう」と言ったことに対して、ただ「わかった」と返してくれただけ。
呪いも、祓いも、彼女には関係なかったのだろう。
私が────"夏油傑"が"みょうじなまえ"の元に帰ってくること、そのシンプルな事実を待っていてくれているのだろう。
そう思うと、余計に私の中でこの心を支えてくれる彼女の存在が膨らんでいくようだった。
「────じゃあ、行ってくる」
翌年の春、私は家族よりも先に、そう彼女に言った。
今まで小学校、中学校と同じルートで同じ学校に通い、後半の3年は同じ制服さえ着ていたというのに。
今や家から最初の曲がり角の方向でさえ逆だ。着ている服は全く違うし、私達はお互いの目的地さえ知らないで別れようとしている。
「うん。連絡、いっぱいするね」
「ぼ────私もだよ」
「あはは、やっぱり傑の一人称が変わると変な感じ」
「呪術師になるわけだからね。やっぱり少しは自信を備えた丁寧な振舞いをしたくて」
「傑がやると胡散臭くない?」
「そんなつもりはないんだけどなあ…」
それでも、メールアドレスは交換した。暦通りに休む彼女と違い、休日が不定期になる私の予定に合わせて何度か会おうとも約束した。
そのうちのいくつが果たされるかもわからないまま、それでも最後までお互いの行き先を知らずに、私達は反対側の道へと歩き出した。
「傑、またなまえチャン?」
────高専に入ってから、自分が異物であるという意識が少しずつ薄れていくことを感じていた。周りにいるのは同じものが見え、同じ力を扱い、動機はどうあれ同じ目的のために動いている"仲間"達。
門を叩いてみれば自分より遥かに強大な力を持っていたり、自分には到底できないような術式を簡単に使う同級生がいる。
ここが本来の居場所か、と思った。
それと同時に、私が生まれてきたことは間違いじゃなかったのだ、という安堵も感じた。
当たり前のように呪いの話ができる。自分を異物と見なして息を潜めなくて良い。そういった事実が楽しいか、というような感情論はともかくとして、思った以上にこの新しい環境が私を歓迎してくれていることだけはすぐに認識できた。
だからこそ…この環境にすぐさま順応してしまった私は、きっとこの環境が完全なる別世界になってしまうのであろう"彼女"の存在を忘れたくない────そう、何よりも強く思った。
私にとっての"非日常"だったこれまでの15年を、唯一"日常"にしてくれた彼女のことを。新しい日常を知った後でもなお、私の中に在り続けた彼女のことを。
授業の合間にちまちまメールを返していると、隣にいた悟────未来を約束されたクソガキが、その長い足をこちら側にぐいと伸ばしながら携帯を覗き込んできた。
「毎回思うけどなまえチャンってマジでお人好し過ぎて逆に胡散臭くねえの?」
「人のメールを勝手に盗み見た挙句知ったような口を利くなよ」
「知った口利いてんのはお前の女の方だろ。呪いの見えないパンピーがなに呪術師語ってんだよ」
────彼女は私との毎日が消えた後も、甲斐甲斐しくこちらの事情を思いやってくれ、いつだって応援してくれていた。ここが天国だろうが地獄だろうが、私が日々相対しているものが呪いであろうが祝福であろうが、彼女は"私が目的を持って生きている"ことを常に肯定してくれていたのだ。
だから。
「これ以上言うならその口、二度と開けないようにしてやろうか」
「ハッ、マジでなまえチャンの話になるとお前の沸点一気に下がるじゃん」
「冗談のつもりだって言うなら最初からなまえで遊ばないでもらえるかな。私の大事な人なんでね」
「10代のガキが運命気取ってんじゃねーよ、キッショ」
「10代も後半に差し掛かるって段階で未だに人の一人も大切にできない君は本当に哀れだな」
それが単純な軽口だとわかっていても、一度として私が彼女を煽る悟に対して冷静なまま対処することはできなかった。
教室の空気が一瞬にしてヒリつき、おそらく喫煙所からの帰りなのだろう、中に入ろうとした硝子があからさまに嫌そうな顔をして再びどこかへ行った姿が視界の端で見えた。
────結局、その後夜蛾先生に見つかって2人ともゲンコツ。
今日も今日とて、悟ごと教室を破壊することは許されなかった。
わかっているさ。
悟には、悟の苦しみがある。悟の人生があり、悟の目的があり、悟にしかわかりえない感情がある。
きっと私には想像もできないような地獄を見ているだろうし、そもそも高名な呪術師の家系の中でも更に奇跡の子として生まれてきたという時点で、並大抵の神経のままでいたら一瞬にして切れるに決まっている。だからこのどこまでも捻じれた性格は、ある意味素直に育った結果のものなのかもしれない。
でも、それなら逆は?
悟は私の痛みを知っているかい? 敵と見なし祓う対象である"呪い"、その穢れを呑み込むという行為の痛みを。苦しみを。絶望を。それでも、そうすることでしか自分の力を発揮できない、ともすればそれができない限り私には価値がないと同等だと思いながら生きてきたという、綱渡りのようなこの感覚を。
悟のことは、憎からず思っている。人生で初めてできた同類の友人だとすら。
硝子のことだって、大切であることに変わりはない。いつだってちょうど良い距離感で、あるがままを受け入れてくれる。
だから、本音を言ってしまえば私に教室を破壊する気はない。悟を傷つける気も、彼を見下す気も本当のところはなかった。
ただ、その言い分を否定したいだけ。
彼女は"私そのもの"という"地獄"に1本の細い、しかし何よりも強靭な蜘蛛の糸を垂らしてくれた仏のような存在だったのだ。
彼女が笑っていてくれる。だから荒れている喉からもまだ声が出る。
彼女が私を理解しようと努めた上で"理解できない"ことを識り、それでも私の語る言葉、出す表情の全てを受け入れてくれる。だから穢れた手足をまだ動かせる。
『任務お疲れ様! 無事に帰ってきてくれたってメールくれて本当に安心したよ〜! 最近、歴史の資料集にあった地獄絵図の複製本を図書館で読むのにハマッてるの。呪いは見えないけど、人間が想像しうる最強におぞましいものを見るくらいならせめて私にもできるかなって。離れてても傑が守っててくれるのがわかるから今日も私は健全健康! 生きててくれてありがとう!』
そりゃあ、それが"当たり前"である呪術師からすれば、彼女の言い方は大仰なのだろう。
そして同時に、それが"当たり前"である呪術師だからこそ、生きていることを自覚させられるその言葉を見過ごすことは絶対にできないのだ。
彼女がどこまで計算して言葉を選んでいるのかは知らない────そもそも、彼女がそういうことを計算で言ったことはなかった。計算という姑息な術を身に着けるより前から、彼女はずっと、どこまでもまっすぐに、ただ思った通りの言葉を放っていたから。そしてそれが、いつだって私にとっては無二の救いだったから。
「…別に人の人生に口出す気はないけどさ」
「?」
「なまえちゃんのこと、このまま連れてって大丈夫なの?」
「…連れて行くって、どこに?」
「しらばっくれてんじゃないよ、時間の無駄だから」
「…………私は、非術師という弱者を守るために生まれてきた存在だ」
「そーだね」
「その非術師の中には、当然なまえもいる。彼女の笑顔と日常を守りたいと願う心に、矛盾はないだろう?」
「あー、もうそういう力技で乗り切るつもりなんだ」
「────わかっているよ、彼女のことを特別扱いしすぎているから、判断を誤ったり、他人に人生を狂わされる哀れな末路を思い遣ってくれてるんだろ」
「別に思い遣ってはないかなー。私はただ、アンタ自身が呪いに転化するのが面倒だなって思ってるだけだから」
「リスクは承知しているよ。引き際だけは弁えているつもりさ、いざとなれば切り捨てる覚悟を作ってね。ただ────」
「ただ?」
「────目的もなく弱者という"概念"を守るより、守りたいと思える"具体的な命"があった方が、躊躇いなく歩けるとも言うだろう?」
「…私にはよくわかんないわ」
それ以上の問答はただの面倒だと思ったのだろう。硝子はそう言って、さっさと人気のない女子寮に戻って行ってしまった。
────このタイミングで私を足止めしたのは、彼女なりの最後通告のつもりだったのかもしれない。
でも、もうこちらに止まる気はなかった。
春休み。
任務が入る可能性が十分にあるので一般的な休みとは定義を異にするかもしれないが、私達は一週間ほど、授業も鍛錬もない休息の自由時間を与えられていた。
悟は本家に呼び出されたとか、なんとか。硝子は特に外に興味がないのでいつも通り部屋で過ごすと言う。先生や普段校舎をうろついている大人達は、あえて生徒から距離を取って休みを休みらしくする演出を買っているらしい。
────そんな中、私は。
「────傑! 久しぶり! 待ってたよー!」
「お待たせ。会いたかったよ、なまえ」
────"非術師"の"日常"に、"戻って"きていた。
「なまえ、化粧してる?」
「え、先生にもバレない程度にしかやってないのに。変?」
「いや、1年しか会わずにいたのに随分綺麗になったなと思って」
「傑はおべんちゃらが随分上手になっちゃったねえ」
「そういうつもりじゃないよ」
本当に、彼女は綺麗になった。明るい世界で、温かい光を浴び、まっすぐに生きていた。
「傑も格好良くなったよ」
「…筋肉、少しついたかな」
「っていうより、なんだろう…やっぱり、私の知らない世界で生きてるからなのかな。"ものをよく知ってる大人"って感じがしてつい緊張しちゃう。そう、大人っぽくなっちゃったよ、傑。それこそ随分と」
何の心配も要らない温室で育ちながら、外には別の世界が広がっていることを自覚し、その荒廃した環境に常に思いを馳せる────それを無意識で行うことの難しさは、私自身もわかっているつもりだった。
「…心配、かけてたんだね」
「そりゃあもう。心配することしかできませんので」
「なまえみたいな子に心配をかけたくなくて呪術師を名乗ってるんだけどなあ」
「え、まさか"心配"も呪いの元!? 私、もっと楽観視するスキルとか身に着けた方が良い!?」
「楽観視、できるの?」
「傑に関しては無理だね」
「即答かあ。愛されてるなあ、私は」
「愛してますよ」
文字の上でなら、その愛をずっと受け取ってきた。
でも、彼女は気づいてくれているだろうか。
久々に聞く声が、久々に見る顔が、私を救う言葉を放ち、私を拾う笑みを浮かべてくれていることを。冗談めかして言われた"愛"だったが────そもそも私達は言われて、触れさせられて、それから初めて"愛"を知る人種なのだということを。
生きている、と思った。
麻痺しかけていた感覚が、清流のように体内を急速に駆け巡っていく。爽やかなのに暖かくて、まっすぐなのにじんわりと広がる、心地良い────これもある種の、痛みなのだろう。
「傑が救ってくれてる世界は、今日も平和だよ。危険なところにずっといると見えなくなっちゃうのかもしれないけど、そんな傑のお陰で弱い人でも怯えずに"当たり前の人生"を送れてるんだってこと、忘れないでね。いつもありがとう」
「なんだい、改まって。小さい時からずっと、それが私の役割だから感謝なんて要らないよって言ってるじゃないか」
「うん。────でもね」
「?」
「…ふふ、今の傑、ちょっと嬉しそう。前は本当に"僕は強いんだからそれはただのギムをスイコウしてるに過ぎない"って偉そうにしてただけなのにね。…やっと、私の言葉が届いた気がする」
言われて初めて、自分の口角が上がっていることに気づいた。「嬉しそう」と言いながら、彼女の顔もみるみる綻んでいく。
「見えないところで助けてくれる人のこと、縁の下の力持ちさんのこと、私は一日も忘れたりしないからね」
それなら私は、いつでも真っ黒に汚れた渦の中でもがく私を肯定してくれる人がここにいることを、一日も忘れないようにしよう。
一週間のうちの、たった1日。
ご飯を食べて、街を歩いて、いつかのように公園のベンチに座って話をしただけ。
その数時間が、想像以上の地獄に身を置かれたこの1年に報いてくれた。
それだけで、次の1年も頑張れると思った。
そしてきっと、私は彼女が笑っていてくれる限り、私の名を呼んでいてくれる限り、"名も知らない誰か"のために動き続けられるのだろう。
「────じゃあ、また」
「また1年後になるのかな?」
「…ごめんね、なかなか決まった休みが取れなくて」
「その分メールたくさん送るから良いよ。ちゃんと構ってね」
構ってもらっているのは、私の方だ。
助けられているのは、救われているのは、私の方なのだ。
だから。
「────少女の、護衛と抹消ォ?」
────その言葉から始まった一連の"悲劇"に突然襲われた私は、それこそ何の前触れもなく────。
「これはなんですか?」
────足場を、失った。
「■■…? ■■■■!?」
まだ、下に地獄は続いていたのか。いや、そもそも"地獄"に底などなかったのか。
「"だ…だい…大丈夫…"」
人は。私が信じた人間は。私が守った人類は。私が助けた世界は。私が救った日常は。
「皆さん。一旦外に出ましょうか」
────既にもう、手遅れであるほど"呪い"に冒されていた。
「あれ、春休み来るの早いね。もしかして私、半年寝てた?」
彼女の声が鼓膜を震わせ、脳を経由し、消化される。
「ちゃんと半年ぶりだよ、なまえ。早めに会いに来てしまったんだ」
私の口が彼女の名を呼び、彼女の溜息を誘う。
アポイントは取っていなかった。一般的な高校生の帰宅時間は前に雑談の中で教えてもらっていたので、もしかしたらこのタイミングで会えるかもしれないと────心のどこかで靄を抱えながらもとりあえずは顔を見に来たのだ。
「…顔色、悪いね。話せる内容じゃないなら、一旦どこかに座ろう」
────しかしそこに流れる音を、もう聞き取れなかった。
「うーん、完全に色々イカれてるな…。でも私の家まで来れたなら、多分体は動くよね。正気の傑だったら嫌がるかもしれないけど、ちょっと流石に怖いし一緒に私の部屋に行こうか」
────そしてそこにある色を、もう見られなかった。
「傑…お願い、どうかまだ、なんとか…」
────最後にはもうそこにある温度を……、もう感じられなかった。
「…お水、飲んでくれる?」
「ありがとう」
言われている内容なら、ちゃんとわかる。
大丈夫。私は正気さ。むしろ生まれ変わって一番すっきりしているくらいだ。
そう、今の私には何の雑音も聞こえない。視界を遮るものもない。
迷いも、躊躇いも、うしろめたさも、自己否定もない。
「…どうして、急に?」
「非常に言い辛いんだけどね」
だからここに来た。
最後の────目を逸らしていた私にとって最期の────現世と地獄を繋ぎ止める一本の糸を絶つために。
「────君を、殺さなければならなくなってしまったんだ」
もし彼女"も"、呪われているのだとしたら。
泣くだろうか。喚くだろうか。私の業を罪だと罵り、裏切り者と平手を食らわせ逃げるだろうか。
ああ、そうであってくれたなら。
そうであってくれたなら、私は────。
「そうなんだ」
────もっと簡単に、その首に手をかけることができたのに。
「理由は、訊いても良いの?」
「…随分と、冷静なんだね」
泣いてくれ。
「え? 流石にびっくりはしてるよ。急に殺害予告されたことなんて今までなかったもん」
喚いてくれ。
「でも、傑が意味もなく私のことを殺すわけがないなっていう思いの方が強いからな」
罵ってくれ。
「驕った言い方だけど、私を殺すほどの理由が傑に本当にあるって言うなら、その上で殺されるまでの猶予を少しくれるって言うなら、私は最後にあなたとおしゃべりができればそれで…良いよ」
「……逃げるなら、今なんだよ」
「逃げたらそれこそ意味なくない?」
あの日、人権を無視された使命を課されてなおあどけない顔で笑う"普通の高校生"を失ったあの日からずっと、足場は不安定だった。そしてその後、不潔な洞窟の中に幽閉された"不当に虐げられた子供"の手を取った時に、ようやくその不安定な地盤に足をつけて立つことができるようになった。
その感覚を掴んだ瞬間、私は生きていく場所をここと定めた。
"見えないところで助けてくれる人"ではなく、"誰にでも見える形の救済を作る人"になることを決めた。
非術師の抹殺。言い換えればそれは、呪術師のみによって構成される、呪いのない世界。
生まれた呪いをいくら祓ったところで、根を絶たなければ意味がない。
私の生まれてきた意味は、呪いによる苦しみの根絶だ。
それを私ひとりきりで、私ひとりきりの命で行えるとは思わない。
大切なのは、その意思を繋ぐこと。
長い年月をかけ、新たな時代の人類、子孫達にエラーのない希望を与えること。
そのはしりとなる私が、またここでフラつくわけにはいかなかった。
「────もう両親は既に殺した。今度は新しい家族と、新しい世の中を作るために、新しい人生を歩むつもりさ」
簡単に、それでも要旨は伝わるように、ただひたすらに淡々と彼女の殺害動機を語る。
そこに感情は要らなかった。そこに詭弁は要らなかった。
機械のように、残酷に。菩薩のように、平等に。
その矛盾しかけた二者を繋ぐために、私は腹を決めたあの日に思い描いていた言葉を紡ぐ。
「傑は、もう決めたんだね」
声を一切震わせないまま、視線を一切逸らさないままそう返す彼女の不気味なほど穏やかな言葉。
一体そのどれだけが強がりなのだろう。
一体そのどれだけが────素の姿なのだろう。
「それなら、良いよ」
迷いも躊躇いも、私を否定する様子もない、彼女の────笑顔。
地盤が、グラリと強く揺れた。
「……」
「どうしたの? ちょっと痛いのは嫌だからできるだけ楽にしてね。あ、あと引き出しの中に入ってるおえかきとかの痕跡は燃やしといて」
「……して」
「え?」
「どうして────、笑うんだ」
全てが変わってしまった私。変わった私を見て眼差しや扱いを変えた友人。変わった私を即座に敵と見なし襲い掛かってきた世界。
そんな中で、彼女だけは。彼女だけが。
幼い頃から何も変わらない、"夏油傑"に向ける笑顔を浮かべていた。
「いやあ、今まで何も助けになれなかったからねえ。私も遂に傑の大義の立派な礎になるのか〜、などとなぜかしみじみしているところ。でもそれが終わったら、流石にやり残したこととかやりたかったこととか思い出して人並みに泣いたり怖がったりするかも。でも傑、そんな私見たい?」
「────…」
「えー、私はちょっと嫌だなあ…。一回死にたくないって思ったら逃げ出しそうだし。傑ならどうせ私のことすぐ捕まえられるくせに────……」
わ ざ と 逃 が す で し ょ 。
彼女の言葉は凍るほどに鋭利で、痛いほどに真実だった。
「勉強はできないけど、傑の感情とか言葉についてはそこそこ自信あるからね、私。もう死ぬ間際っぽいから私も直球で言わせてもらうけど、傑、覚悟決めたふりしてまだ迷ってる」
そんなことはない。
「私を殺せば、きっと傑は傑の果たしたいことに向かってまっすぐ生きていけるんじゃないの? 新しい人生が楽しいとはどう考えても思えないけどね」
そんなことはないと、言わせてくれ。
「傑は昔っから、人のために生きてきたもんね。優しいし、誰のことでも尊重するし、頭にあるのはいつも自分より他人のこと。強く生まれたいって願ってたわけじゃないはずなのに、結果として強く生まれたからには義務を果たさなきゃいけないって、ずっと自分を追い込んでた」
言葉を挟もうとする度、まるでそれを意図的に遮るかのように、彼女の言葉が降ってくる。そしてそれは────それだけは、五感を失ったはずの私の肌に突き刺さり、耳の奥まで響き、視界の全てを埋める。
「そんな傑が、初めて今、自分の大義を掲げようとしてる。それだって根本は結局"未来の"人のためだから、どれだけ傑を幸福にできるのかは未知数だけど…。でも、私が知る限り傑が自分から"こうしたい"って言いだしたのは、多分これが初めてだよ」
だから、と彼女は言う。
「傑は、自分のために、自分が初めて描いた未来のために、今、私を殺さなきゃいけない」
「っ────でも、」
ずっと押し留めていた反論の言葉が出たのは、本当に一瞬の出来事だった。早く事を終わらせ、喪った感情が戻る前に、麻痺した感覚が戻る前に"新しい日常"に溶け込もうと思っていたのに。それを遮られ、思った以上に時間をかけられ、あまつさえ余計な言葉を挟む暇すらなく彼女に言葉を浴びせられたせいで。
遂に…隠さなければ、捨てなければと思っていた"情"による声が、出てしまった。
「でも、何?」
当然、今の"直球に言う"彼女がそれを見逃してくれるわけもない。
「────君にも、その権利はある」
ようやく手に入れた足場、ようやく身に着いた体幹。生きる本当の意味。見据えるべき人類の未来。
それを貫こうとする自分と、目の前の彼女を抱きしめたくてたまらない"昔の自分の残り香"が激しく争い合う中、私は言い訳がましい主張を鳴らす。
「権利って?」
「私に君を殺す権利があると同様、君にも私を殺す権利がある。正確には、私の命を奪うことはできないだろうけど────私の意思を、計画を、殺すことならできるはずだろう」
悟にも、同じことを言ったっけな。
あの時も私は心のどこかで、背中に痛みを感じる瞬間を待っていたのかもしれない。
でも、私は生き延びてしまったから。
悟はあの指を、しまってしまったから。
だから今度は、彼女に委ねようとしている。
決めた、定めた、もう揺らがない────そう思ってここにいるはずなのに、結局私はいつまでも他者依存をやめられないようだった。誰かに認めてもらえないと、前に進むのが難しいようだった。
「どうやって?」
「そんなもの────」
ただ、手を取ってくれたなら。
"非術師でも術師と対等に渡り合える"と示してくれたなら。口にしてくれたなら。
私はきっと、あっさり降参してしまうような気がする。
「目的もなく弱者という"概念"を守るより、守りたいと思える"具体的な命"があった方が、躊躇いなく歩けるとも言うだろう?」
そうだな。守りたいと思う"命"をあえて自らの手で絶やすことで、間違いなく躊躇いは覚えられなくなるのだろう。あの時はまさか、こんな未来を想定して言ったわけではなかったのに。
────ここに来るまで、何度も深呼吸をしてきたのに。何度もあの村の悲劇を夢に見てきたのに。保護した子供達に「ただいま」と言うために「行ってきます」と告げてきたのに。
それなのに。ここに至るまでに、十分すぎるほど悩み、考え、そしてその果てにようやく自我を手に入れたのに。
────ああ、どうしてこうも────。
「……」
彼女は少しの沈黙を挟んだ末、小さな手をそっと出した。
伝わってしまったのだろうか。
手を取ってほしい。手を振り払ってほしい。
相反する気持ちの狭間にいる私は、きっと他人から見えるほど堂々とできていない。
いつもどこか、怖かった。自分の選択が過ちを犯して誰かを傷つけてしまうことが。
自分の歩いた過去が、未来で不幸を生んでしまうことが。
そうだよ。私はただの臆病者だ。臆病だから、こうして演じることばかりが巧くなってしまった。
大義などとそれこそ大きなことを言わなければ、今にも挫けてしまいそうだったから。
村人を殺した。「この生き物はもう人間じゃない」と言えるようになった。
親を殺した。「この2人はもう家族じゃない」と言えるようになった。
大義は、掲げるだけでは実現しない。思い描くだけでは歩み出せない。
何かを為して、その結果と目的が合致するから、初めて大義として歴史に刻むことができる。それを正義と、ようやく声高に言えるようになる。
だから私は、彼女を殺さなければならない。「彼女でさえ人間ではなかったのだ」という言い訳を得るために。
だから私は、本当は彼女を殺したくない。「彼女を喪ってしまえば、もう純粋に笑えていた昔を思い出すことすら罪になる」という業を背負わなければならないから。
「それなら私は、選択する」
彼女はそっと伸ばした手で私に触れた。言いようのない電流が体に走ったような衝撃を覚え、つい指先がぴくりと震える。
それにも関わらず、彼女は両手にですら余るほどの大きさがある私の"右手"を取り、"彼女の"首元にそっと当てた。
「いつだってそうだったでしょ。他の誰かのために生きる傑のことを、自分のことを肯定してくれない傑のことを、私が肯定する。傑がそれを正義だと思うのなら、私はそれを認める。たとえ私の思う正義と違うのだとしても────"強い"傑には、私のちゃちで力のない空虚な正義なんて、簡単に潰せるはずだから。…そもそも私、人に掲げられるほどの正義なんて持ってないしね」
「っ────!」
まっすぐで、光をたくさん跳ね返す美しいガラス玉のような瞳に、情けなく狼狽える私の姿が映っていた。
「その代わり、私もただでは殺されるつもりはないから」
「え……その、」
「────絶対に、"傑の大義"を果たして。何の生産性もない命だったけど、他者によって奪われるなら無駄にはしないでほしい。傑、私を殺せばあなたはもう戻れなくなる。それがわかってたから、こうやってわざわざ会いに来て、話す時間を作ったんでしょ。だったら私は、最後まで私────夏油傑を肯定し続けたみょうじなまえとして命を全うするから」
彼女の手に力が入る。首に押し当てられた手が柔らかい皮膚に薄く食い込み、その奥で脈打つ血の流れを皮膚越しに伝えてきた。
「────…」
こんなにも、強い人だっただろうか。
いや、強いわけではないのだろう。
彼女は、ずっとただの人間だったのだ。
「ずっと一緒、って言ってくれたの、忘れたわけじゃないからね。命がなくなっても、"私を殺したっていう事実"を、あなたの人生に刻み続けるから。そのくらいの復讐は許してよ?」
彼女が彼女であるということ。
それは単に、夏油傑を認め、受け入れ、褒め、笑い、そして────いつでも、どこからでも、誰よりも、夏油傑の幸せを願った────みょうじなまえという"かけがえのない人"だったという意味。
グラグラと揺れ続け、足場を固定したと思ってもまたすぐに躓く。
そんな私が、彼女に敵うわけなどなかったのだ。
最初から、私が主導権を握ることなど到底無理だった。
ただ、それだけだった。
「────…何か、まだ僕に言いたいことはある? なまえちゃん」
ゆっくりと、しかし確実に、自分の手に力をこめる。受動的に食い込んでいた首元に、確実な痕を残す。
このまま力を止めなければ、きっと簡単にこの細い首は折れるのだ。
そうして、そうなったが最後、今度こそ私は逃げられなくなる。
定めた正義を掲げ、どれだけの血を浴びようとも遠い未来のための礎にならなければならなくなる。
「うーん……」
何が復讐だ。
私は、そんな贅沢なことを思っていても良いのか。
「────"新しい家族"に、命ある状態でいられなかったのが悔しいかなあ。ちょっと私の両親を殺す時には"次になまえを生む時は呪いを扱えるようにしておいて"って言っといてくれない?」
新しい家族ができたとしても。
家族、友人、信者、仲間、どんな肩書を持った人間が現れたとしても。
「命がなくても隣にいてくれるって言ったのは、なまえちゃんじゃないか」
「復讐を許してくれるならね」
それは、救済だ。
呪いが一方で祝福と呼ばれるように。
この復讐は、私にとっての永遠の救済なのだ。
「────本当に、君のことを尊敬するよ」
「尊敬だけ?」
流石に本能には抗えなかったらしい。彼女の目尻からは静かに涙が流れ、唇は震え、私の手を握っていた彼女の手は今や強張ってまるで抵抗するかのような動きを見せている。
それでも、どちらも何も言わなかった。
「────本当に…」
もう、そんな上辺の感情は要らなかったから。
ずっと"手を繋いだ"まま、私は彼女の手の温もりを感じたまま、最期の言葉を告げた。
「本当に────…ありがとう。きっと僕は、ずっと君のことが好きだよ、なまえちゃん」
夏油傑が、みょうじなまえの元に帰ることはできなかった。
でもその代わりに、みょうじなまえが、夏油傑の隣に一生の椅子を据えてくれた。
これまでは、彼女が私に蜘蛛の糸を垂らしてくれる仏だった。
それも逆転すると言うのなら、これからの私は"彼女の手を借りて"未来という地獄に向けて糸を紡ぐ仏になろう。
────ここまで来てようやく、私の決意は完成されたのだ。
やはり私には、彼女がいなければならなかったらしい。
肯定してくれてありがとう。私の心の一番近いところに、自信を持って踏み込んでくれてありがとう。
好きだ。大好きだ。愛なんていう陳腐な言葉は要らない。ただただ、君のことが大切だ。
彼女は笑っていた。きっと、私も笑っていたのだろう。
────首の折れる音が、小さな部屋の中心で切なく鳴った。
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