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もうどこに救いを求めたら良いのかわからない。そもそも救われようと思うことが間違っているような気さえしてきた。
今までのように積極的に「死にたい」と思うことにも疲れた。苦しくない方法で死ぬ方法も、新しい逃げ場所を探すのも、全てが億劫だ。

全てのことを考えすぎた。親友との関わり方、クラスメイトからの身の守り方、そこはかとなく抱いているこの絶望感の解放の仕方、どれもこれも考えたって答えなんて出ないのに、なるようにしかならないのに、それをどうにかしようとしすぎた。

わかっている。全部自業自得だ。
最初から私は自分の首を絞めているだけだった。不器用だとか頑張りすぎだとか聞こえの良い言葉で誤魔化して、ただ空回りする自転車のペダルを漕いでいるだけだった。前にも後ろにも進めない。転ぶことさえできない。どこにも行けず、何もできず、ただそれでも努力している姿さえ見せていればいつか何かの形で報われるのだと────自分だけでもそれを認めてやれると、そう信じていた。

実際は、ただ自分を嫌いになっていくだけだったというのに。
認めるなんてとんでもない。報われるだなんておこがましい。

私なんて、生まれてきたことが────「あの子が生まれてきたのがそもそもの間違いだったのよ!」

────ふと、階下から聞こえてきた言葉に耳が反応する。

ああ、今日は静かだと思っていたのに。
家に帰ってから、私は夕飯も食べずに部屋に引きこもっていた。いつもなら父が帰ってくる時間になってからも、リビングから荒げられた声が上がることはなかった。だから私は静かにそっと、自分の呼吸音を煩わしく思いながら体をベッドに横たえていた。

どうやら、今日の口論は割とお互い穏やかに行われていたらしい。ただ、父がどこかで母の逆鱗に触れたのだろう。母の声は唐突に────そして自分が思っているよりずっと自然に、まるで糸電話の向こう側から聞こえてくる声のように響いてきた。

「あの子がいなかったら私だって今も仕事を続けられていたし、あの時仕事を辞める必要だってなかった!」
「おい、冗談でもそんなことを言うんじゃない! 華凛に聞かれたらどうするんだ!」

もう聞こえてるよ、父さん。

「そもそもあなたが言い出したんじゃない! 華凛が生まれてきたのをきっかけに仕事を辞めろって!」
「それはお前、育児と仕事を両立させるなんて…お前自身にとって酷だと思ったからだろう!」
「どうして私が育児をやる前提なの!? あなたはその間何をしているの!? あなたが育児もば良かったじゃない! 家事も育児も全部私がやる前提になっておいて、今更そんなこと言わないでよ!」
「それこそ今そんなことを言ってどうするつもりなんだ!」

ぶーん。
蠅が飛んでいるみたいだ。しかも私の頭の中で。

ちらりと、自殺ノートに視線を遣る。
あれももう、使えないな。人の目に触れられてしまった途端、なんだかとても穢らわしいもののように思えてきてしまった。そしてそのノートの中身は私自身。私が叶えられなかった望みそのもの。それを見られたということは、私の一番穢れているところまで衆目に晒されたも同義だ。

ああ、私ってこんなに汚かったんだな。いや、わかっていたつもりではいたんだけど。

なんだろう。今ならどんな方法でも楽に死ねる気がする。
私、今まで何を怖がっていたんだろう。痛いも怖いも、圧倒的なこの無気力さの前にはあってないようなものじゃないか。

もう全てがどうでも良い。
もう頑張りたくない。もう無駄だとわかっている努力を続けたくない。
努力って、報われるためにするものじゃないの? それが全て裏目に出るとわかっていて、どうして私はそれでも報われようとしていたの?

全部全部、意味なんてなかった。
生まれてきたことにも、生きてきたことにも、そしてきっと、これから生きることにも。

鉄朗も研磨も、本当は私なんていない方が良かったのかもしれない。
鉄朗は良い意味で私に影響を与えられたと言ってくれたが、私がいなければもっと彼らしい彼になれていたかもしれない。研磨だって、私が縋っていなければもっと日陰にこもれたかもしれない。

私はただ自分を消し去りたいという純粋な願い以外は考えないまま、ふらふらと浴場に向かった。親が私の気配に気づいた様子はない。なんとなくそのことを頭の隅で捉えながら、バスタブに水を張る。

まるで私みたいだ、と所在なく思った。
流れて、流れて、時に形を変えながらそれでも流れ続けて。

水に自分の形はない。行き先なんてないままに、ただ勢いに呑まれてどこかへと流されていく。
今までなら、自分の中のどこかに、それをせき止める栓があったのかもしれない。流されながらも、私という形を保とうと必死でどこかへ行ってしまうそのことだけは抑えていた。溜めて、溜めて、溜め込んで、いつかそれが綺麗な結晶にでもなるんじゃないかと信じて。
でも、もうその栓も抜けてしまった。きっとあのノートを晒された瞬間、私を捕まえていた栓が外れてしまったのだろう。そして母親のあの金切り声が、私の中にそれまで16年溜め続けていた水をどこかへ押し流してしまった。

流された水はどこへ行くのだろう。川の水はいつか海へ辿り着くと言うが、私もこのまま自らを流し続ければ海へ行けるだろうか。私みたいな汚い下水じゃ、せいぜい浄水場が関の山かもしれない。

そう思ったら、不思議と笑んでしまった。

面白いものだ。今まで死にたい、生きていたくないと苛烈に願っていた時は、願うだけでどうしてもそれを実行に移せなかったのに、全てがどうでも良くなって楽だとさえ思えている今は、こんなにも簡単に死への一歩を踏み出そうとしている。

そうか、死ぬって、思ったより簡単だったんだ。
今まで一体何を迷っていたんだろう。

"死にたい"と"死のう"って、こんなに違うんだ。こんなに────気持ちが軽いんだ。

バスタブの半分まで水が達したところで、蛇口を止めた。
ゆっくりと、腕を水面に浸ける。少し冷たい。辛うじて残っている感覚が、私に最後の生を謳歌させようとしていた。

それも、もうあと少しのことだ。
どうせ死ぬなら何か残してから死にたいとか────そんな前向きなことを、いつか思ったこともあったような気がする。生きていた証を残そうとか、何か意義のあることをしようとか、そんな風に頑張ろうとしていた日もあったかもしれない。

でも、今はどうせ死ぬなら何も残さずに死んでいきたいと思う。最後に足掻くなんて無様なことはせず、最期くらい綺麗に、跡を濁さずに。

腕を濡らすまでしたところで、私は肝心の剃刀がないことに気づいた。
困ったな、私の部屋に置いたままにしてきてしまった。もう一度自室に戻るのは億劫でしかないのだが、あれがないことには脈を切ることもできない。

仕方なく、私は立ち上がった。扉を隔てたリビングの方からはまだ口論する声が聞こえてくる。毎日毎日、本当に元気なことだ。
私は静かに階段を上がり、静かに自分の部屋に戻った。ええと、確か新しい剃刀はこの間買ってポーチの中に入れていたはずだから────。

そう思いながら鞄をまさぐっていた時、ちょうど手に当たったスマホが突然着信音を奏で始めた。

「わっ」

一瞬触れたことに反応して音が鳴ったのかと思い、乾いた声を上げる。しかしそれは当然のことながら単なる偶然でしかない。惰性でスマホを拾い上げ、発信者を確認する。

"黒尾 鉄朗"

「────どうして」

どうしてこんなタイミングで、"こちら"に引き戻そうとするのだろう。

「……っ」

今、少しだけ躊躇ってしまった。
死ぬことを。生きることを、やめることを。

名前を見ただけでこうなるのだ、声なんて聞いたらどうなることかわかったものじゃない。
せっかく楽に死ねそうなところまできたのだから、放っておいてほしい。ようやく私の悲願が果たされようとしているのだから、引き留めないでほしい。

私はスマホをベッドに放り出し、ムームーと煩く喚かせたまま階段を下りて行った。

そして、階段を下りたちょうどその時。
目の前にある玄関に、チャイムの音が響き渡る。

────ああ、もう! あともう少しなのに!
あとこの小さな刃を手首に当てて、綺麗な水に汚い赤が広がっていく様を見ていれば、それだけで全てが終わるのに!!

突然の訪問者に気づいたのだろう、その瞬間リビングがぴたりと静かになった。今ここで両親と鉢合わせるのはまずい。片腕の腕は濡れている上に袖もまくれているし、もう片方の手にあるのは剃刀。いくらなんでも、これから何をしようとしているのかわからないほど馬鹿な人達ではないはずだ。

「私、出るよー」

大声でリビングの中を牽制し、溜息をついて玄関の戸に手を掛けた。慌てて袖を伸ばし、剃刀は靴箱の上に置いて、何事もなかったかのような顔を取り繕い、扉を開ける。

「────…なんで」

その先にいた人物を見た時、私はつい全てを忘れてそう呟いた。





そこにいたのは、ついさっき私が手放したはずの────鉄朗だった。

「よう」









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