39









東京に引越してきたのは、俺が8歳の時だった。
それまで一緒にバレーをやってきた仲間とも、学校で遊んでいた友人達とも別れ、ひとりで新しい土地に向かった時、ひどく心細かったことを覚えている。

友達って、どうやって作るんだっけ。
いじめられたりしたらどうしよう。なんだこいつって思われたらどうしよう。

当時の俺にとって、"住む場所を変える"ということは言葉通り生まれ変わりを強いられるようなもので────正直今までどう生きてきていたのかも忘れてしまったし、これからどう生きていけば良いのかもわからなくなっていた。

そんな折、紹介されたのが研磨と華凛だった。
どちらも家の近くに住んでいる、同世代の子供。無口で内向的な研磨に対し、華凛はあれこれと世話を焼いてきたり話しかけてきたりと、忙しない性格の子────に見えていた。

せっかく構ってくれているのだから今までの友人と同じようにこちらも明るく接すれば良いだけだったのに、女子と遊んだ試しなんてほとんどなかったものだから、俺はすっかり戸惑ってしまった。もっとも、今にして思えばその時は彼女に無理を強いていたわけなので、あの場で"当たり障りのない上っ面な友人"という関係を築いてしまわなくて良かったのだろうが。

彼女は数ヶ月ほど頑張って俺と会話を試みてくれたが、一向に口を開けない俺に根負けして、ひとりで本を読むようになった。そうしたら、今度は逆に研磨の方が俺を見かねたのか、ゲームのコントローラーを差し出してくれた。

研磨と同じもので遊べることは素直に嬉しかったが、俺はそれでもあの子のことが気になり続けていた。この間まであんなに一生懸命喋っていたのに、急に黙り込むようになった。もしかして、俺がいつまでも返事をしないから愛想を尽かされたのかな、なんてそんなことまで考えていた。

だから、ある日俺は彼女に勇気を出して話しかけてみることにした。

「…華凛も、やる?」

その時の、華凛の顔。まさか俺から話しかけられるとは思っていなかったのだろう、戸惑いの色がありありと窺えた。でも、今までたくさん気を遣ってきてもらったし、俺もいい加減研磨の家に慣れてきていたし、そろそろちゃんとその厚意へのお返しをしないと、と考えていた。

そうしたら。

「華凛はあんまゲーム好きじゃないよ」

研磨が抑揚のない声で、事実を教えてくれた。
良かった。俺のことが嫌でゲームから目を逸らしていたわけじゃないんだ。単にゲームが好きじゃないというだけで────じゃあこの子が好きなものってなんだろう?

「おしつけてごめん。華凛はゲームより本が好きなの?」
「えっと…うん、そう…」

俺が初めて来た時にはあんなに元気良く喋っていた華凛は、その時ひどく怯えたような顔をしていた。好きなものを好きって言うだけなのに、どうしてそんなに怖がる必要があるんだろう。
それにこの子が読んでる本、漢字がたくさんある本だ。すごい、こんなもの読んでる子、クラスで見たことない。

「そうなんだあ…すごいね、難しい字、たくさん知ってるんだ…」

そう思って素直な感想を口にしたら、華凛はこれまた不思議なことを尋ねてきた。

「っ…ゲーム、好きじゃなくても良いの?」

どうしてそんなことを訊くんだろう、と思った。
好きなものが人によって違うことなんて当たり前だ。大人が「仕事に行きたくない」って言いながらそれでも仕事をしなきゃいけないっていうことなら知っていたけど、俺達子供がやりたくないことをやる必要なんてどこにもないじゃないか。

「やりたいことやって、やりたくないことはやらないの、トーゼンだと思う」

そう言ったら、一気に華凛の顔がぱあっと輝いた。
あ、可愛い。

それから、あの子は俺にいくつかの本を勧めてくれた。

嬉しそうに「この本はとうじょうじんぶつがみんなかっこよくてね」とか、「この話は最後にすごくびっくりするやつでね」とか、一方的に語り出すその顔は、確かに俺がここに来たばかりの時と同じトーンではあったものの────表情が全く違っていた。
心から楽しそうだ────そう思った時、俺はそれまで華凛が本当に俺に気を遣って色々と話しかけてくれていたことを悟り、何一つ応えられなかったことを申し訳なく思った。

あの年で空気を読み、人に居心地の悪い思いをさせないようにと気を回すのは、どれだけ胆力が要ることなのだろう。ましてや蓋を開いてみれば彼女は静かに読書をしている方が好きな子。ひとりでいることを好んでいる子が無理に皆に合わせて、"良い空気"を醸成しようとしている姿は、俺にとってはあまりにも────そう、大人っぽく見えていた。年下なのに。

彼女の心労を思い遣れるほどできた人間じゃなかったから、俺の華凛に対する感情は単純な"尊敬"だった。人のことを考えられる人。場の空気に馴染める人。特に新しい土地で右も左もわからず狼狽えていた俺にとって、華凛のような存在は何よりも眩しく見えた。

俺もこうなりたい。
困ってる人がいたら自然に声をかけて、欲しがっている言葉をちゃんと与えられて、頼られるような人に。

それから半年くらい経った頃だろうか。

研磨の方から、「なんかやりたいやつないの」と声をかけてきたことがあった。
思えば研磨の方からそんなことを言ってくれたのは初めてのことで────俺は、ずっとやりたいと思っていても言えずにいた機会がようやく訪れた、と思った。

研磨と華凛。どっちも大事な、俺の新しい友達。
その2人と────バレーができたら、どんなに楽しいだろう。

急いで家に帰って、バレーボールを持って研磨の部屋に戻る。
これで日が暮れるまで遊びたい。研磨と華凛と、外に出てボールを繋ぎ合わせたい。

わくわくした気持ちでボールを差し出して見せると────。

研磨に、すごく嫌そうな顔をされた。

あれ、バレーボール、嫌いだったかな。やりたくなかったかな。
これは俺の一番好きなものだから、2人にも好きになってもらえたら嬉しいなって思ってたんだけど────。

思っていたものと違う反応に俺は戸惑ってしまい、自分の選択が間違っていたのかと急いでボールを引っ込めようとした。

そうしたら、華凛がこう言った。

「やってみようよ」

ぱっと顔を上げて、華凛を見る。あの子はその時にはもう既に俺に対して"良い顔"をすることをやめていたので、そう言った時の顔もほとんど無表情に近かったのだが────。

「いつも研磨のゲームばっかりやってるし。私も本ばっかり読んでるし。たまには"鉄朗の好きなもの"に挑戦してみても、良いんじゃない」

あの子はそう言って、読んでいた本をぱたんと閉じた。

「えー…」

研磨がまだ何か言いたそうにしていたが、「やりたくなかったら研磨は家にいても良い…よね?」と華凛が俺に尋ねてくる。

「も、もちろん」
「だってさ。鉄朗、行こ。鉄朗はバレーが好きなの?」

俺達は、その年にしてはまあ自立した子供だったと思う。自分は自分、人は人。やりたいならやれば良いし、やりたくないならやらなければ良い。そんな考え方が、全員当たり前にできる子供だった。

「うん、好き!」
「そうなんだ。前の学校でもやってたの?」
「そう!」
「そうなんだ。じゃあこっちでなかなかできなくてつまんなかったでしょ」
「つまんなくは…ない、けど…」

物足りなさなら感じていた。研磨の部屋でゲームをやるのも楽しかったけど、俺は本当は、ずっとバレーをやりたいって思ってた。でも、知らないこの場所でどこへ行けばバレーができるのかわからなくて────。

「面白くないこととか、嫌なこととか、全部ひとりでガマンしないで。やりたいことがあるならこれからも言ってね。バレー…私は運動苦手だからたぶんやらないけど、できる場所なら一緒に探すから。だから、楽しいことを思いっきり楽しもうよ」

そう言って笑った華凛は、まるで花が咲いたみたいな笑顔を浮かべていた。

「私もね、やりたくないことやって、みんなに合わせて笑ってるの、すごく苦手なの。そうしないと上手に生きていけないから頑張ってるけど…でも、鉄朗と研磨のいるところでは"私"のまんまでいられるから楽しい。"やりたいことやってやりたくないの、トーゼン"って言ってくれたの、とっても嬉しかったの。だから鉄朗も、頑張らなくていいところたくさん作って、やりたいことだけ思いっきり楽しく遊んでね」

その時ちょうど、後ろから研磨がヨタヨタとついてきた。

「おれもやる」

きっとそれは、自分だけ置いて行かれたことにちょっとした悔しさがあったんじゃないかって思った。
それでも良かった。研磨と華凛が一緒に俺の好きなものをやってくれることが嬉しい。でも、それ以上に────"頑張らなくていいところたくさん作って"と言われたことが、胸にストンと落ちて────子供心ながらに「ここでもなんだかうまくやっていけそう」と思ったことを、よく覚えている。

他人になら当たり前に掛けられる言葉でも、いざ自分が同じ状況に立たされるとなかなかうまくそれを噛み砕けない。華凛は単に俺に言われたことが嬉しかったからそのまま同じ言葉を返したつもりだったのかもしれないが────必要とされている言葉を必要としている人に必要な場面で的確に引き出せる彼女のそんな一言に、俺は大きな学びと救いを得ていた。

そっか。言葉って、そうやってお互いに受け取った言葉を返していくものなんだ。
与えられた言葉は、きっといつか同じ境遇に追い込まれた誰かを救うためにあるものなんだ。

じゃあ俺も、そうやってもらった言葉を全部吸収していこう。最初は他人の言葉でも、いつか自分の言葉って言えるくらいまでに磨いて、目の前で誰がどんなことに困っていても助けられるような、そんな格好良い人になろう。

華凛の言葉はその時、俺の心に深く刻まれた。だって、彼女は俺が新たに得た目標の具現化だったから。
華凛の存在はその時、俺の中で何よりも大きいものになった。だって、彼女は初めて俺を救ってくれた、"救われること"の嬉しさを教えてくれた人だったから。

だから────そんなあの子が、俺が来てまだ1年経つかどうかという頃に引越すと聞いた時、悲しくて悲しくて仕方なかった。俺が前の土地から引越した時、友人達はこぞって「また遊ぼう」と言ってくれていたが、子供にその距離は遠すぎる。

でも、これを最後にはしたくなかった。二度と華凛に会えないなんて、そんなことは思いたくなかった。

大人になったら会いに行けるかな。大人なら、ひとりでも長い距離を移動できるのかな。
よし、もう少し大人になったら、会いに行こう。

俺も華凛みたいな人になって、驚かせてやるんだ。
心細かった俺の心を見抜いてくれたみたいに、俺も華凛が困った時には一番に手を差し伸べてあげるんだ。それで、言ってくれた言葉をいつか返そう。

我慢しないで。
頑張らなくて良い所を作って、楽しんで。

────そんな決意を胸に、俺は徐々に自分を解放する術を学んでいった。

元々人は嫌いではなかったから、一歩踏み出してしまえば馴染むのは早かった。
それでも、その一歩を踏み出させてくれた少女のことが、俺の頭から消えることはなかった。

いつか絶対会いに行くんだ。
今の俺なら華凛のことも励ませるかな。今の俺なら、華凛のことも笑わせてあげられるかな。
心のどこかに、いつもそんな気持ちがあった。

そして、そのいつかは────俺が思っていたよりずっと早くに、訪れることとなる。

別れてからおよそ8年後。
華凛が東京の、しかも元の家に戻って来ると聞いた。

その報せを聞いた時、俺は真っ先に華凛に何と声を掛けようか迷ってしまった。

おかえり? 会いたかった?

どれも正しくて、どれも違う気がする。

だって俺は────今度こそ、辛いことでも頑張って我慢するような華凛の拠り所になりたいって思っているのに。

今までと同じじゃ、きっと駄目だ。
あの子は放っておくと、すぐに何でも溜め込んでしまうから。
人のことは誰よりも気にするくせに、自分の傷には無頓着だから。

そんなあの子に頼ってもらうためには、どうしたら良い?
そんなあの子に掛けてもらった言葉を返すためには、どうあれば良い?

あの頃の"口下手な"鉄朗じゃ、きっと頼ってはもらえない。
彼女の記憶に"幼い鉄朗"が残っていたら、彼女が本当に自分を解放することはできない。

甘やかしすぎるくらいでちょうど良いんだ。
優しくしすぎるくらいがちょうど良いんだ。

無償の愛を。見返りを求めない温もりを。

たった一度交わした言葉にこんなにも囚われるなんて、滑稽だと思われるだろうか。
でも、その時に感じた想いは本物だった。

きっと人は、ああいう感情を恋と呼ぶんだろう。
囚われるもの。その場から一歩も動けず、ただ自分の感情が絡め取られていく様を見ていることしかできないもの。

彼女のことが好きだった。そしてそれは、離れていても決して潰えることのない想いだった。
彼女の唯一になりたい。研磨と同じじゃ、満足できない。

苦しいことだらけの世の中で息をつける場所? そんなものじゃ、温すぎる。
俺がなりたいのは彼女の休憩所じゃない。楽園なんだ。
苦しみを先延ばしにするんじゃなく、忘れられるような場所。
苦しみを苦しみのまま受け入れて、楽にさせてあげられる場所。

そのためには、慰めてもらうような俺のままじゃいけない。
いつも笑っているのは俺の役目だ。「愛されたい」なんて言っておきながら誰より自分に優しくできないあの子に優しさを与えるのは、俺の特権だ。

そうなるためには、どうしたら良い。
差し伸べられたその手を逆に引き寄せるためには、どうしたら良い。

考えて、考えて、考えて────そして出た結論は、簡単なものだった。
「最初から俺はそういう人間だった」と思わせれば良い。
人間として出来上がっていて、何の躊躇も駆け引きもなく身を預けてもらえるような、そんな存在として最初から彼女の前に姿を現わせば良い。

"今"の彼女に、"昔"の俺はいらない。
そんなもの、障害にしかならない。

だから、だから俺は────。

「────誰?」

────彼女の記憶から、"昔の自分"を消去することにした。









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