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翌朝、この日はバレー部の朝練がない曜日なので、勇気を出して早めに家を出た。
そして向かった先は────。

「…お、おはよう」

はす向かいの、一軒家。

ちょうど玄関から出てきた鉄朗は、私の姿を見て驚いたように目を見開いた。

「…どうした?」

その顔を見て、私の心臓がどきりと嫌な音を立てた。
ああ、どうしたって反応せずにはいられない。数日前から変わってしまった私の世界を、元に戻すことなんてできない。

でも、この心に封をすると決めたのは私だ。
切なく鼓動する胸を押さえながら、私は何ということのないように笑ってみせた。

「私と研磨に気を遣って、朝迎えに来てくれなくなっちゃったでしょ。ちょっと寂しかったから、今日はこっちから来ちゃった」

本当は、このまま彼と距離を置こうかとも悩んでいた。彼の姿を見るだけで出そうと思っていた声がうまく出なくなるのなら、新たな形で築いた親交がたったひとつの恋情でここまで形を崩してしまうのなら、いっそもう一度全てを"なかったこと"にしてしまおうかと。

しかし、私は"2人とこのまま友人であり続けること"を選んだ。
どちらも失いたくない。どちらとの関係も壊したくない。
強欲な私は、自らの感情に蓋さえしてしまえばそれが叶えられるのではないかと目論んだ。
研磨の気持ちは────人の気持ちは、どうこうできるものじゃない。だからこれが"甘え"だということなら、わかっている。「そのままで良い」と告白した翌日に言われたその言葉を信じて、彼にまで友人の位置を貫かせようというのは強欲を通り越してもはや傲慢だ。だから「友達のままは嫌だ」と言われてしまったら…その時は、その時に考えよう。

「はー…どうしてそういうことするかね、お前は」
「え、嫌だった? ごめん…」
「そうじゃない、普通に嬉しいよ。ただその…俺としてはどうしたら良いものかと思ってさ」
「どうしたら…良いか?」

大きな溜息をつく鉄朗を見て、一気に不安が募る。自分の方から誰かに寄った試しなんてなかったものだから、迷惑だったんじゃないかとか、昨日の一晩で嫌われてしまったんじゃないかとか、一挙にネガティブな予想が頭の中に渦巻きだした。

「いやね、こっちはお前が研磨のことが好きだと思ってたから素直に身を引こうと思ってたわけですよ。うら若きカップルの邪魔するのも悪いですし? でもそういうわけじゃない、誰のことも好きじゃないからずっと友達でいよう、って言われて…正直、戸惑った」
「なんで?」

どうしてそこで鉄朗が戸惑う必要があるのだろうと思って素直に尋ねると、彼は困ったように眉を下げながら笑って、私の頭にぽんと手を乗せた。

「俺がお前のこと好きだからだよ」
「…何それ、理由になってる?」

好きだと言われることは素直に嬉しいが、それなら私の言葉通りに仲良くしてくれれば良いだけじゃないか。それに今の私に彼の「好き」は重すぎる。今までなら軽く流せていた冗談も、今では勘違いさせられそうになる魔性の言葉になる。
好かれている自覚は欲しいが、あまり軽々しくそういうことを言ってほしくない。恋というものは、どこまでも我欲の強い感情だ。小説の中ではもっと綺麗に描かれているはずなのに、いざこの身に宿すとどうしてこんなに醜いものに思えてしまうんだろう。宿主が私だからいけないのだろうか。

「本当に研磨のことが好きなわけじゃないの?」
「うん」
「誰のことも好きじゃないっていうのも?」
「…うん」
「その上で、俺らとはどっちとも友達のままでいたいって?」
「……うん」

だって、そうするしかないじゃないか。
3人の関係をこのまま壊さずに維持するためには、私が嘘をつくしかない。私さえこの気持ちを抑えていれば、何も変わらない毎日を送れる。それが誰にとっても一番良い道に決まっている。

「…わかった。じゃあ────俺達はずっと"友達"だ」

彼の言う"友達"という言葉に引っかかりを覚えたのは、いつのことだっただろうか。
前にも同じような感覚を抱いたことがある。友達はただの友達で、それ以上でも以下でもないはずなのに────何か、その意味を問い質したくなるような。

「…そうだね」

でも、私はそれ以上突っ込まなかった。
望んでいたはずの"友達"を鉄朗から言い渡されたことに傷ついていたことと、自業自得でしかないことに傷ついている自分に仄かなやるせなさを感じていたせいだった。

心なしかいつもより会話量の少ないまま、昇降口で別れる。
自席に着くと、すぐさま研磨がこちらに駆け寄って来るのが見えた。

「華凛、昨日のこと────」
「ごめんね、2人で話してたのについ邪魔しちゃった」

研磨は心配そうな顔をしていた。自分だって楽しいことを言われたわけじゃないはずなのに、私のことを案じてくれるなんて本当に優しい人だと思う。いや、それとも私の感情が大きすぎるだけで、研磨にとっては昨日の友達宣言もそうたいしたことじゃなかったのかもしれない。

「なんであんな嘘ついたの。クロのこと、好きなんでしょ。だったらあの場でそう言えば────」
「────言わないことにしたの」

あまり研磨の前で鉄朗の話はしたくない。早々に納得して引いてくれないだろうか。

「言わないって…」
「言っても意味がないし、誰も得しない。そもそもこんな不毛な気持ちを抱くこと自体が筋違いだったんだよ。私さえこんな風にならなければ、昨日研磨と鉄朗が喧嘩することだってなかった。私がこんな風になっちゃったから、危うく友達を失うところだった。だからこれで良いの。これが良いの」

まだ何か言いたそうにしている研磨の後ろで、無慈悲なチャイムの音が鳴り響いた。同時に担任が教室に入り、「HR始めるので席に着いてください」と声をかけている。彼は唇をくっと噛みしめて私を一瞥し、そのまま自分の席へと戻って行った。

「…責めて良いよ」

むしろ責めてほしい。全部自己完結させて、人の感情を全部自分のものにしようとしているんだから。こんな自分、私だって嫌いだ。

そうやって自分のことばかり考えていたのが悪かったのだろうか。

「また孤爪君と一緒にいる」
「うちらより孤爪君の方が良いってやつ?」
「なんか早紀思い出すね」
「ね」

────こちらに明確に向けられ始めた悪意に、その時の私はまだ、気づけていなかった。









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