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教室の空気は、却って気分が悪いほど元通りになっていた。夏休み前の、あのいつも通り少し薄い酸素が渦を巻いているような────私にとっての、スタンダード。チラリと秋穂達の方を見やると、何を話しているのかまでは知らないが、楽しそうに談笑している姿が見えた。

「華凛」

彼女達に対する感情をどう持てば良いのかわからないまま黙って自分の席に着くと、研磨がすぐ気づいてこちらまで来てくれた。

「大丈夫?」
「うん、長いこと心配かけてごめん」
「来られるようになって良かった」

ほっとした顔に、こちらの心も和む。

「私がいない間、何か変わったことあった?」
「あ、後期の委員決めがあった」
「あー、でも私にはあんまり関係ないよね?」

うちの高校は、前後期で委員会決めが二度行われる。基本的には同じ委員会の所属を続けることが暗黙の了解となっているので、後期の委員会決めには大した時間が取られない。私は前期の時点でどの委員会にも属していなかったので、今回も引き続き無所属でいるものとばかり思い込んでいた。

「その…死なずに聞いてほしいんだけど」

────なのに、研磨はそんな不穏な前置きをする。
え、何、まさか私、何かに任命されたの?

もちろん前例がないわけではないらしい。前期の間にどこかしらの役割を受け持っていた美術部の子が、後期に入ったタイミングで展覧会を控え忙しくなってしまうため、インターハイなどを終えて比較的活動が緩やかになった運動部の子と代わってもらう────といった話なんかが良い例だ。特に私のクラスの場合、そういった普通の交代に加え、クラスメイトを1人失っているので(早紀が何委員かは知らないが、どこかに所属していること自体は認識していた)、必然的に空いたポストを埋める人員が必要になる。

仕方ないことだし、休んでいた私がどうこう言える問題ではないのだが…欠席している人間に委員の仕事を押し付けるクラスの図が思い浮かんでしまい、あまり良い気持ちにはなれなかった。どうせなら図書委員とか美化委員とか、あまり人と連携する必要のないところだと良いんだけど…研磨の表情から察するに、あまり期待はできなさそうだ。

「文化祭実行委員になったよ、華凛」
「ぶん…はあ?」

10月の下旬に行われる、音駒祭。夏休み明けすぐに企画を取りまとめ、約2ヶ月かけて準備を行っていく大規模な催しだ。役員は9月中に企画案の承認を得て、適切な場所を確保し、10月に入ってからは週一ペースで会場設営、ラストの一週間はほぼ終日かけてクラスのみんなと必要な準備を進めていく。

…最悪だ。
文化祭・体育祭の実行委員は、それぞれのイベントが終わるまでしか仕事をしない。その代わり、その期間中は地獄のように忙しいと専らの噂だった。
忙しいだけならまだ良い。私が最悪だと思っているのは、先頭に立って"クラスのみんな"と準備を進めなければならないところだった。

「ごめん…別の委員会に空きがなくて…」
「いや、研磨が謝ることじゃない…。休んだ私が悪い…。でも死にたい…」

どうしよう。クラスの人達の前に立つだけでも嫌なのに、意見をまとめたりそれぞれの役割を振ったり、しかもそれをあと2ヶ月も続けなければならないなんて…。どうしても、小学生の時のトラウマが蘇る。

「もう1人は誰? 文化祭実行委員って、男女1人ずつの2人体制だよね?」

どの男子ともろくに話したこともないのに、ペアを組まなければならない時点でまず私には無理だ。そう思っていたら、研磨が小さく挙手した。

「…え?」
「おれ」

もう1人は…研磨…?

「…おれもそんなにやる気あるわけじゃないけど、ペアがおれだったら華凛もまだやりやすいかと思って…」
「…研磨大好き…」

彼だって決して表舞台に立つような人ではないはずなのに、私のことを思って立候補してくれたらしい。申し訳ないと思うより先に、感謝の想いが溢れて仕方なかった。

「なんか楽なやつにしよ。適当にワッフル売っとくとか」
「適当過ぎて最高」

しかしそんな高揚感も、その日の1限のLHRで早速「文化祭の企画を決めてもらおうと思います。じゃあ実行委員、前に出て」と担任から告げられたことにより、見事撃沈する。
クラスメイトの白けた視線が怖い。何人かは目を輝かせてこのイベントを楽しみにしているようだったが、大半は面倒くさがっているのが丸わかりだった。

ああ、嫌だなあ、この感覚。
昔はいかにバラける意見を統一させるかということに心血を注いできていたが、そんなものは今にして思えば全て無駄だった。"みんなの心をひとつに"なんてそんなことが簡単にできるものなら、今頃世界から戦争はなくなっているはずだ。このバラバラな空気が淀む様を俯瞰していると、かつての自分の愚かさがどうしても去来してきて、苦しくなる。

「えーと、じゃあ企画案からだけど────」

それでも、なんとか息を吸って、言葉を吐く。

「2ヶ月って意外とあっという間だし、特にうちのクラスは部活とか自分のことで忙しい人も多いと思うから、そんなに手の込んだものじゃない方が良いと思うんだけど…その辺を踏まえて、何か意見あるかな」

任されたからには、やるしかない。
どれだけ息苦しくても、どれだけ無駄なことだとわかっていても、頑張ることしか私にはできないのだから。ここで手を抜いて逃げ出したら、余計に自分のことが嫌いになるだけだ。

ふんわりと投げた問いに対して、「カフェ」「お化け屋敷」「演劇」と一通りそれらしい案が出てくる。

「研磨、黒板に出てきた意見書いてってもらえる?」
「わかった」

後ろでチョークがコツコツと音を立てているのを聞きながら、私は頭の中でいかに"ワッフル屋さん"に持っていくかをシミュレートし続けていた。できるだけ楽なものが良い。頑張らなくちゃいけないことはもうどうしようもないにしろ、その頑張りができるだけ少なく済むようなものにしたい。

「お化け屋敷とか演劇とかは練習に相当時間費やすと思うんだけど、みんなのスケジュールは大丈夫?」
「俺、部活の大会控えてるから無理だわ」
「私はピアノのコンクールがあるから…」
「まあ2、3人程度なら没にするほどじゃないか…。他はどう?」
「忙しい人が多いんなら、研究発表とかのスペース設けるのは? 時間ある人で準備して…」
「うーん、素敵な案だけど、研究発表で暇になれるのは当日だけだと思う。何を研究するかにもよるけど、それこそ少数の負担が格段に増えるんじゃないかな」

冷静に、しかし公平さを忘れずに。肯定も否定もせず、それでいて根底に「楽な企画にしよう」という雰囲気を紛れ込ませる。
伊達に16年、人の顔色を窺い空気を読み身をやつしながら生きてきていない。私の一声で大勢を変えることなどどだい無理な話だが、少しずつ場の空気をひとつの流れに収束させることなら、やってできないことはない。

ドキドキと嫌な鳴り方をする心臓を押さえながら、クラスの意見をまとめていく。今のところ、最初からやる気のない人達以外が嫌そうな顔をしている気配はない。良いぞ、そのまま楽な方へ流れてくれ────。

「…となると、一番有力なのはカフェ?」
「食い物系なら調達さえできれば比較的楽だもんな。何売る?」
「楽さを求めるんだったら既製品が良いんじゃない? 教室で調理するのには限度があるし」

よし、今だ。

「────ワッフルとかどうかな。誰かホットプレートとか持ってれば、買ってきたやつあっためて出すだけで良いし」

傍流が少しずつ本流に集まっていく、その分岐点で、少しの勢いをつける。

「良いかも。準備もそんなに大変そうじゃないしね」
「あ、私ホットプレート持ってるよ」

クラスの空気が一気に納得感に満ちたことを感じ、思わずほっと溜息をつかずにはいられなかった。

「じゃあ、うちのクラスはワッフル屋さんでいこう。次は役割分担だけど────」

その調子で衣装、設営、会計、材料調達などの担当も次々に決まっていった。今日は企画案さえまとまれば良いという話だったが、1限の時間が終了する頃には当日までの細かいスケジューリングまでなんとか持って行くことができた。

「…まあ、そもそも企画案が通らなければまたイチから練り直しになるわけだけど、逆にこれさえ通れば当日までかなり楽になると思うから。…みんな、助けてくれてありがとう」

────最後は、みんなへのお礼を忘れずに。どんなに小さいことでも感謝の言葉を伝えることが肝心だ。

良かった。長いこと"場をまとめる"役割を放棄してきていたが、なんとかなったみたいだ。今更あの時の努力が報われるなんておめでたいことを考える気にはなれなかったが、それでも自分が先頭に立たざるを得なくなってしまった以上、少しでも良い形で収まってくれたら良いと思う。

担任も些か驚いた面持ちで「ありがとう、孤爪君、白鉦さん」と言い、つつがなく最初の話し合いが終了する。

「────ありがとう、華凛」
「何もしてないよ。クラスの人達が比較的協力的で助かった」
「華凛があんなにリーダーシップ取れるって、正直思ってなかった。おれの方がなんか足手まといだね」

淡々と自分を下げるようなことを言う研磨に、私はぶんぶんと全力で首を振った。

「研磨がいてくれるだけで安心感全然違う。得意じゃないはずなのに、一緒にやってくれてありがとう」

"処世術"としてではなく、心からの感謝を込めてお礼を言う。実際、後ろに研磨がいてくれなかったら、私はああも堂々とはしていられなかっただろう。「絶対華凛の味方だから」と言ってくれたあの日の言葉は、今も私の胸の大事なところにしまわれているままだ。

研磨はいつもより少しだけ目を見開いて私を見て────それから、小さく笑ってくれた。









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